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ゴスペルハウスコミュの「つぶやいた真実」

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ゴスペルハウスメッセージ 2010.03.02(レント−3)
「つぶやいた真実」 ルカ 15:1-2

1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

今週の聖書箇所は、ルカによる福音書の第15章です。
ここには、有名な「放蕩息子のたとえ」や「失われた羊のたとえ」などが書かれています。
今日は、その15章の冒頭の1−2節を皆さんと一緒に開いていきましょう。

「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2節)
パリサイ人や律法学者たちは、イエスさまの行動を監視して、こうつぶやきました。
もちろん、非難を込めて、皮肉を込めて、嫌悪を込めてのつぶやきです。
しかし、このつぶやきに私は驚きを感じます。
それは、イエスさまの本質を見抜いているからです。

「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2節)とは、まさにイエスさまの姿です。
イエスさまは罪人を招くためにこの世に来られ、そして、誰でもイエスさまに心を開くなら、イエスさまはいっしょに食事をしてくれるのです。
それは、聖書の中で繰り返し述べられるイエスさまの姿なのです。
パリサイ人や律法学者たちは、イエスさまの反対者でしたが、イエスさまの本質をわかっていたのです。
ですから、15章3節以降に続くイエスさまのたとえ話は、その本質を明らかにするためのものになっているのです。
まるで、パリサイ人や律法学者たちの見解の補足説明でもするようにです。

もしかすると、彼らは弟子たちよりもイエスさまの本質をわかっていたのではないかと思います。
弟子たちは、イエスさまに祝福してもらおうと連れてこられた子供たちを、イエスさまの前に出すことを遠慮しました。(ルカ18:15参照)
また、バルテマイという盲人がイエスさまに救ってもらおうと大声を出しているのを止めようとしました。(マルコ10:46参照)
もし彼らが、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2節)というイエスさまの本質をわかっていたなら、そのような行動はとらなかったはずです。

パリサイ人や律法学者たちは、確かにイエスさまの本質をわかっていました。
しかし、彼らはその愛を受け入れることができず、イエスさまを嫌悪の対象・呪いの対象にしかできませんでした。
その愛を、喜ぶことができなかったのです。
わかっていたのに、です。

私たちキリスト者は、イエスさまを知っています。
イエスさまの十字架をわかっています。
「イエスさまは、私のために死んだ」という事実を、わかっています。
しかし、そのことが心の重荷になったり、苦しみになってしまうことがあるのです。
「こんな私のために、イエスさまごめんなさい。」と、祈るたびに悲しい涙・悔しい涙があふれてくることもあるでしょう。
私はこれも、消極的な意味での呪いだと思うのです。
わかってはいるけど、愛に満たされない状態。
パリサイ人や律法学者たちは積極的な呪いをしていましたが、現代の私たちキリスト者も消極的な呪いをしてしまいがちなのです。

かくいう私もそのような状態になったことがあります。
とても苦しい時期でしたが、私はそれもいいと思うのです。
なぜなら、イエスさまを信じた途端「ハレルヤァァァァ!」となって、それが持続し続けることなんてことは、ほとんど無いと思うからです。
もしそうなったとしたら、その人はよほど脳天気な人か、自分の罪深さを直視していない人でしょう。
まじめに自分に向き合ったら、消極的な呪いの状態になっても当たり前なのです。

では、キリスト者はまじめな人にはできないのでしょうか。
脳天気な人と、自分を偽っている人だけが明るいキリスト者になる資格があるのでしょうか。
もちろん、そうではありません。

「十字架の愛をわかっているのに、喜びと愛に満たされない。」という消極的な呪いの状態を打ち破る方法があるのです。
その解決は、イエスさまにあります。
あなたを赦し、あなたの呪いをすべて受けとり、あなたを祝福し、あなたを受け入れ、あなたに喜びと希望を与える。
それは、イエスさましかないのです。

そして、私たちがそれをしっかりと自分の体験とするためには、聖霊さまの助けが必要不可欠なのです。
どんな素晴らしい牧師の説教でも、どんな素晴らしい聖書研究でも、だめなのです。
聖霊さまの助けがなければ、私たちは喜びを持ってイエスさまを救い主として迎えることができないのです。

私を呪いの状態から解放してくれたのも、やはり聖霊さまでした。
その時から、聖書は私にとって、それまで書んでいた聖書とは全く別の書物のように感じられるようになったのです。
わかっていたけどきちんと受けとっていなかった神様の愛を、きちんと受けとることができるようになりました。

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(1コリント12:3)という聖書の言葉は、過去も現在も未来も、ずっと揺らがない真理なのです。
さあ、「わかっているけど」の状態から解放されましょう。
聖霊さまの助けが、あなたを解放するのです。
イエスさまの十字架と復活を、愛と喜びを持って待ち望みましょう。

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