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ゴスペルハウスコミュの「天から飲む者」2026.10.17

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ゴスペルハウスメッセージ 2026.10.17
「天から飲む者」申命記11:8-17

8 あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、
9 また、主があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
10 なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。
11 しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。
12 そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。
13 もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、
14 わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。
15 また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。
16 気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。
17 そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。

今日の聖書箇所は、モーセ五書の最後にあたる申命記です。
エジプトでの奴隷生活から解放され、荒野を旅して40年が過ぎました。
いよいよ約束の地カナンは目の前です。
ヨルダン川を渡れば、そこはカナンの地です。
しかし、モーセは神様から、約束の地に入ることはできないと告げられています。
ですから、申命記は、リーダーとしてのモーセの最後の言葉、ある意味では、遺言とも言える書なのです。

8-9節は、まさにそのことを示しています。
「あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、
また、主があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」(8-9節)

40年前にエジプトを脱出した世代の人々は、ヨシュアとカレブを除いて、荒野で死にました。
モーセもまた、この後、約束の地に入ることなく、その生涯を終えることになります。
残っているのは、当時、子どもだった人たち、そして、この40年間に生まれた人たちです。
しかし、きっと彼らは、親の世代から「エジプトにいたころは良かった」と、何度も聞かされていたことでしょう。
人は何事につけ、以前のほうが良かったと思いがちなものです。
それで、モーセたちも荒野で何度も揉め事を起こしてきました。

だからこそ、モーセは続けます。
「なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。
しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。」(10-11節)

「エジプトはナイルの賜物」という言葉があります。
ナイル川がエジプトの農業や文明を支え、発展させたことを表す言葉です。
ナイル川が定期的に氾濫し、養分を豊富に含む肥沃な土が運ばれてきました。
人々はその氾濫の周期を知り、利用するために、天文学や暦、測量、灌漑の方法など、さまざまな学問や技術を発達させていきました。

エジプトでは、水はナイル川が運んでくれます。
そして、人々は知恵や技術を用いて畑に水を引き、作物を育てていたのです。

それに対して、これから入る約束の地は、山と谷の地です。
ナイル川のような大河はありません。ナイル川の氾濫による被害もなければ、その氾濫がもたらす恵みもありません。
そして、頼みの雨は、人間の都合や努力で降らせることができないのです。

つまり、エジプトは、「自分で何とかする世界」「自分の力で何とかできる世界」です。
創世記11章のバベルの塔の記事にも、人間の力を頼みとし、自分たちのために名をあげようとする姿が描かれています。
「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作って、よく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
彼らは言った。『さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。』」(創世記11:3-4)
人間の知恵や技術そのものが悪いのではありません。
問題は、それらを頼みとするあまり、神様を必要としないかのように生きてしまうことです。

それに対して、カナンの地は、天から降る雨を頼りにするしかない土地です。
パレスチナ地方は10月から3月ごろが雨季で、ここで言われている「初めの雨」は、10月から11月ごろ、農耕の始まりを支える雨です。
そして「後の雨」は、3月から4月ごろ、作物の成長と収穫を支える雨です。
カナンの地は、「自分の力だけでは何ともならない世界」なのです。

約束の地に入ることは、言い換えれば、「ナイル川から飲む者」が、「天から飲む者」に変わるということです。

では、生きるのも死ぬのも、雨次第、運次第なのでしょうか。
そうではありません。
「そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。」(12節)
カナンの地では、人間の力で雨を降らせることはできません。
しかし、雨を降らせることのできない私たちを、神様は見放しておられるのではありません。
人間にはどうにもならないことがある。
それでも、その土地に目を留めておられる神様がおられるのです。
私たちは、運・不運に振り回されて生きるのではありません。
自分の力ではどうにもならないことがあっても、神様に支えられて生きるのです。

14-15節は、神様の約束の宣言です。
「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。
また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。」(14-15節)
神様は、雨を与え、作物を実らせ、必要なものを満たしてくださると約束しておられます。

では、神様の約束を受け取るイスラエルの民に、何が求められているのでしょうか。
それが13節にあります。
「もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、」(13節)
「神様を愛すること」、それは、神様を神様として認めることです。
「心を尽くし、いのちを尽くして仕える」とは、自分が神様に属する者として生きることです。
それは、神様の顔色をうかがい、罰を恐れながら従うということではありません。
私たちを愛してくださる神様を信頼し、その愛に応えて生きることなのです。

自分の力だけに頼るのではなく、不完全で不十分な自分を認め、神様から与えられる天からの水を飲んで生きること。
天から飲む者として、神様に生かされることなのです。

そして、このことは、新約聖書において、さらに深い意味を持つことになります。
モーセが生きた時代については、紀元前16世紀、あるいは紀元前13世紀といった説があります。
いずれにしても、イエスさまの十字架より、ずっと前の人です。
イエスさまの誕生と十字架、そして復活の後に生きる私たちにとって、「天からの水」は、カナンの雨季に降る雨ではありません。
もちろん、ナイル川の水でもありません。
イエスさまが与えてくださる、生ける水です。
永遠のいのちの水です。

ヨハネの福音書4章、サマリアの女との出会いの場面で、イエスさまはこう言われました。
「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」(ヨハネ4:10)
さらに、こう言われました。
「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』」(ヨハネ4:13〜14)
また、ヨハネの福音書7章、仮庵の祭りの場面でも、イエスさまはこう宣言されました。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』」(ヨハネ7:37〜38)

これは、イエスさまの十字架によって成し遂げられた救いの約束です。
新しい「天からの水」が、イエスさまによって与えられるようになったのです。
この生ける水は、イエスさまを信じる者に与えられる聖霊を指しています。

そして、あなたもまた、天から飲む者として、神様に招かれているのです。
自分の力だけで頑張る世界から、方向を変えて生きていいのです。
自分の力だけで何とかしようとする生き方から、神様に支えられ、神様に生かされる生き方へと変わっていいのです。

ただし、「気をつけなさい」(16節)、と聖書は語ります。
「ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように」(16節)
神様に見守られ、神様から雨を与えられ、天から飲む者となったのに、ほかの神々を拝むなんてことは、あってはならないはずです。
しかし、それをしてしまうのが、人間の弱さであり、愚かさであり、罪なのです。
人は不思議なもので、神様から恵みを受けると、その恵みそのものを神様以上に大切にしてしまいます。

例えば、「大切な雨を与えてくださった神様を礼拝する」のではなく、「神様が与えてくださった大切な雨そのものを拝む」ことがあります。
これは、似ているようで、まったく違います。
神様を主と仰ぐのか、それとも、雨そのものを主と仰ぐのかという違いです。
カナンの人々は、雨と豊作をつかさどる神としてバアルを拝んでいました。
雨に頼る土地だからこそ、雨を支配すると言われる神に心が向いてしまったのです。

また、クリスマスプレゼントをもらったとしましょう。
そのプレゼントを喜ぶことと、プレゼントを贈ってくれた人を喜ぶことと、クリスマスの本当の意味であるイエスさまの誕生を喜ぶこと。
どこに目を向け、何を喜ぶのかによって、人と人との関係も、神様との関係も変わってくることでしょう。
プレゼントを喜ぶことは悪いことではありません。
けれども、その喜びが贈ってくれた人に向かい、さらにイエスさまの誕生へと向かうとき、喜びは深くなるのです。

本当の感謝はどこにあるのか。
本当に喜ぶべきものは何なのか。
私たちは、それを知らなくてはなりません。

神様は、あなたとの人格的な交わりを求めておられます。
神様があなたを愛し、あなたが神様を愛する。
愛し、愛される関係です。
神様があなたの主であり、あなたは神様のものとして生きる。
そこにあるのは、損得やご利益、成功や権力ではありません。
愛と喜びによって結ばれた関係です。

もし、それを見失ってしまったら、神様の愛から、イエスさまの十字架から目をそらしてしまったら、私たちは本当の喜びを失ってしまいます。
「天から飲む者」なのに、まるで水のない場所にいるかのように、自分の力だけで渇きを満たそうとしてしまうのです。

どうか、イエスさまから目を離さないでください。
イエスさまの愛にとどまっていてください。
あなたを天から潤すために、あなたを天から飲む者とするために、イエスさまは十字架でいのちを捨ててくださったのです。
この、いのちがけの愛は、ほかの誰でもない、あなたに向けられた愛です。
自分の力だけで渇きを癒やそうとする生き方を手放し、「天から飲む者」として、主の恵みに満たされながら歩んでいきましょう。

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