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複言語主義コミュコミュの議論の種

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コメント(32)

あれ、誤字が・・

複言語主義のpapatanaka流の解釈を教えていただきとうございます!!
種まきありがとうございました。>サマさま

うまくまとまりませんが、

・Pluralingualismの訳語、複文化主義の下位概念。

・「多言語社会は普通」という認識。

・有力な言語(=大言語)だけに価値があるという偏見をもたない。母語を大切にする。

・(常に)母語話者並みの能力が求められているわけではないこと。ある程度の能力があればいいこと。

・状況や相手によって異なる言語(変種)を使い分けること。

・部分的能力(partial competence)を認めていること。

・言語習得は一生可能であるということ。

私は、慶応大学の、外国語教育を視野に入れた研究会からこの考え方を学んだので、どちらかといえば社会言語学というよりは、外国語教育よりの見方です。non_nonさんの考えるとおり、広い意味での日本語教育に有用なだけでなく、マジョリティの外国語教育の見直しにもつながると考えます。

・・・いろんな人の受け売りですが。。。
確認ですが
とするとやはり-ismは主義であって現象ではないのでしょうか?



…っててきとーにこねくりまわして自分の考えは後回しにします。



どちらかというと自分の考え方はどうそういう社会を作っていくかにウエイトをおくという意味で挙げられている訳どおり「主義」なのかもしれません。

>主義vs現象

某東京大学の某M村先生も、似たようなことを言っていました。とはいえ、それは「多言語xx」という言葉についてですが。つまり、「多言語状況」というのが本当で、多言語主義というのはおかしいんじゃないの、と。

それに対して、複言語主義については、たしかに欧州評議会の意図というのがあるみたいだから、主義のほうがすわりがいいかも。

私が「慶応の」と書いたのは、昨年12月に日吉であった「日本におけるバイリンガル教育と複言語主義」というシンポジウムのことです。慶応の外国語教育研究センターの、それもたぶんドイツ語系の人が中心になってたんじゃないかなあ。スピーカーとしては、名古屋外国語大学の中島先生も来ましたが。
言語は自然であるとかないとかという問題にもかかわりがありますが
英語が世界を覆う状況も作られたものとするなら
人為的に作られたものとするなら、
といっても
最初そういう振る舞いをした人が
ここまでの結果になるのは予想できてなかったかもしれませんが

状況を変え、現象を生むという意味では
やはり主義、イデオロギーなんでしょうねえ。

では、JSLへの取り入れ方を含めて
日本では今がこうで、こういう方法で、こう変えていって、
最終的にはこうなるのがよいというところは
どうイメージされているんでしょう。

誰かが主張していることでも、ご自分の意見でも
ご紹介いただければ幸いにございまする。

私としてはですねえ…
自分にいろいろ突っ込みを入れて

結局

何がなんだかわけがわからなくなってくるんですよぉねえ。

さてさて

学会ネコさん!
ご使命です(笑)。何かご意見をどおぞ
複言語主義を取り入れた外国語教育、なんて話を某大学のM村先生としていたら、

「じゃあ6000言語(世界の言語数)でやる?・・・できないでしょ? だから、英語でいいんじゃない。。。」とあっさり言われました。マイノリティの言語だと言ったところで、「すべての」言語では出来ないんだから、割り切ってというそういう考え方なのは理解できます。

でも、「じゃあ英語だけで」という割り切り方がどうなのか?というのが、私のようなものの考えることかなあ、なんて思っています。

英語教育で有名な、故若林教授が言っていたこと

「外語大では、26言語で毎年中学・高校の教員免許が出せるんだから、このくらいの数の言語を、中学や高校で選べるようにすればいい」

すべての学校が26言語、というわけではなくて、選択肢の問題ですが、こういう考えが私のベースにあるような気がします。

「マリ語を中学校で教えたい」とは思わないけれど、ロシア語は高校くらいでは「第2外国語」の選択肢にあってもいいかなあと思います。

ご、誤字があ。。。>non_nonちゃん

小学校英語は、はじまっちゃうのでとめようがないけれど、中高の前倒しになるよりは、英語>外国語教育になって、中国語や韓国・朝鮮語などの隣国語教育、コミュニティ内のマイノリティ言語教育−藤沢市ならスペイン語、ポルトガル語、ベトナム語など−になってほしいなあ。

うちの子供が通う小学校の国際理解教育に、スペイン人や台湾からの中国人が来て、英語を教えていくらしいんだけど、私からすると、スペイン語や中国語を教えてくれた方が、何倍もうれしい。
みんなで参加して、その後オフ解しましょうか?
>小学校で、移民の母語が習得の目標言語になると、それを学ぼうとする日本人児童が、習得している移民児童に対して敬意を抱くことも出来るし、

これですが、私が参加したシンポジウムでも、藤沢市のある小学校の例が紹介されていました。

クラスの中の移民児童の地位(クラスにおける地位)が上がったと同時に、ある日本人児童の地位も、「xxはスペイン語が得意じゃん」「スペイン語といえばxxだよな」のような評価を受けて、上がったとのことでした。

もちろん、下がっちゃう子もいるんでしょうね。。。

ご使命ですか。

イベリア半島では複言語主義は大変夢のあることばです。
そこには、ケベッコワに端的に見られるような母語原理主義者を
ゲットー化してゆくだけの多言語主義を超克しようという意志が
見て取れます。社会の複言語化ですわね。

だからわたしは複言語主義に夢も希望も抱いてきたのです。

しかし、「EU先進国」での語義はすでに、こじんまり
冷えて固まってしまっています。

多言語主義:社会における多言語コミュ二ティ共生(「共生」ということばにも
失望しているのでわざと使います)を志向すること
複言語主義:多言語主義下での個人の複数言語使用実現への教育学的方策、という意味に限定。それ以外には使わない。

だから、僕はもう複言語ということばに失望しています。
英仏独語圏のひとにこのことばを使ったら、こう解釈されるから。

悲しいかな以上です。
学会ネコさん

コメント、ありがとうございました。
みなさんコメントありがとうございます。

CEFR自体については、現状のEU内「多国語主義」教育から、
少数言語の教育にも枠を広げる、真の「多言語主義」教育にしよう、
という方向性で、とくにフリースラント語保全活動家が旗を振っており、
その動向には私自身熱い視線を送っております。本件で学会発表も
してみました。

ただ、CEFRのスキームにおいても、やはり「複言語主義」は個人の
複数言語習得(しかも現状ではEU加盟国公用語のみ)を指すばかりで、
それは社会の「多言語主義」という潮流の内側に整理されるべき概念と
受け止められています。だから、言語教育学上は有用な概念でも、
社会言語学上は所詮多言語主義支配下の下位概念、というのが、いかんせん
学問をうごかしている英独仏(多分、米・豪も)の識者の一致した見方です。

(私自身、幻滅する前、「複言語」の意味合いについて、社会言語学者
Colin Baker や「成績を上げた」ことで有名なフィンランドの言語教育学者 
Vijo Kohonen に繰り返し確認した挙句、失望するにいたりました【苦笑】)

なので、CEFRについても、「多言語主義の考え方を土台とした個人の
複数言語獲得実践(=複言語主義)のスキーム」

と割り切れば、少なくとも英米仏の学者さんと話をするときには変に
幻滅したり誤解したりしなくても済むと思います。

とにかく多言語主義と複言語主義を対立した概念、もしくは
多言語主義の欠点を超克した、新しい概念だと考える、
イベリア半島における解釈で話をしようとすると、失笑されるか
白い目で見られるのが落ちです。

「複言語」に限っては夢のない話ですいませんが。
多言語主義のコミュはまだないですね。
それともヨーロッパ限定でやります?
蛇足になりますが、確かに、EU先進国の政治家、EU委員会職員(ユーロクラート)の中には、米・加・豪を中心に生まれた「多文化主義」ということばに、
「所詮新大陸移民のやつらのクソ概念。おいてけぼりのインディアンやアボリジニーはどうした!」としてアレルギー反応を起こすひとがおり、Multi- という接頭辞を使うことを断固として固辞するひとがいます。そういう人は、対立概念として「複元主義」Pluralism ということばを使っており、確かにこうした対抗意識から「複言語主義」ということばが産声を上げたことも事実です。イベリア半島では、この流れを理論化し、学術用語としての息吹を与えた、と考えることができます。

しかし、日本の学問が、米豪英独仏の学界動向の半歩遅れ、いや数歩遅れの
後追いをしている現状では、やはり複言語主義に過大な意味合いを持たせて
議論を進めると回り道をしてしまうだけかもしれません。

それより多言語主義を自分なりに類型化し、「彼ら」の議論に切り込んでいく方がより刺激的だとおもいますが。個人的には。
学会ネコさんのコメントを読んで、改めて自分の不勉強さを自覚しました。もっとも、ちゃんと勉強もしていなかったので、頭を整理して、前に進んだほうが良さそうです。

不勉強な自分にとっても、non_nonさんの

>FarEastでは、違う形で入ってきてまだホットっていう感じがします。

指摘には一理あるのかな、と(期待を込めて)考えています。
また、自分は言語教育の方により関心があるので、少なくとも(日本では)新しい視点として「複言語・複文化」というフレーズには期待をしています。

幸い?、私たちの日本語は、国際的な大言語ではないし。

ということで、「複言語〜」については、ヨーロッパの現状と、日本(アジア?)での可能性の両方について理解された、と考えて良いでしょうか?

あと、多言語主義については、うーん、そのままここで議論をしてもいいように思います。
本件、たずねていたCOE(欧州評議会/審議会)からやっと返事が来ました。

Here in the Council of Europe, the word multilingualism is used to
denote a society where many different languages co-exist (native
languages, migrant languages, regional languages etc.). The word
plurilingualism is only usually used in relation to people. For example,
a person is plurilingual if they have some knowledge of at least two or
more languages.

(from Language Policy Division of the Council of Europe)

という答えですが、いかがですか?
学会ネコさん、ありがとうございました。

multi- が社会、pluri- が人にreferする?という解釈は面白いですね。
社会(人の総体という側面も含む)全体を見ると、状態という記述しかしようがないですものね。複言語主義を「主義」や「態度」として考えると、それが人について語られるというのは、納得がいくような気がします。

・・・というのは、私の勝手な解釈かも知れないけれど。

個人=マルチリンガル=ポリグロット? これはこれでいいのかな?
ノンさんパパさんコメントありがとうございます。

柳瀬先生、ご薫陶を受けたことがあるので懐かしく
思い出しながら拝読しました。言語教育者・言語学習者の
内省・反省のための複言語主義、というのは、
いくら大きなスキームが多言語主義に包括されていようとも、
個別の言語学習の場面をクローズアップする、という
ミクロで実態を抉り出す研究を進める意味で重要たりえる
可能性はありますね。

ただ、その場合、複言語主義が、国際的に認知された了解では
あくまで限定的な意味範疇しか持たされていないことを思索の
前提にせねばならないと思いますが。

それともどなたかオックスフォードかやハーバードあたりの
社会言語学雑誌に「複言語主義の“個人的桎梏”からの解放」
てな感じの英語論文を(できればカタルーニャ語の学者兼
保全活動家あたりと連名で)のっけてくれませんかね?

でも、総じて言えば、日本でマクロな社会言語学を扱っている
東京「多言語社会研究会」や大阪「多言語化現象研究会」は
国際的に見ても正しい用語使用に則っていると思われます。
あくまで「複言語」なら、「複言語人間(個人)研究会」
となると思いますから。
論文についていつか
展望と課題を
お聞きすることがいいなあと思います。

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