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世の中おかしい。コミュの七夕は「ええ話」ではなく「タナ」

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仕事で「七夕」の記事を作成していて偶然発見をしました。
…………アレレ?七夕って、左右ひっくり返すと「タナ」って読める…!?
(以前、別のコミュに書いて、さっぱり反応が無いなあって思って見たら、コミュ即削除されていた…(真の〜てコミュで)、で画像を左右ひっくり返して読むというのも人間が持っている「想像」「展開」という機能だそうです、出来ないとヤバいらしい。でも真相を知っている人が削除するの?不可解です、こんなネタで…)
由来
(1)仕事ばかりする織女を天の川の向かい岸にいる牽牛と引き合わせた。二人は恋に夢中になり全く仕事をしなくなったため天の川の両岸に引き離され年に一度だけ会うことを許された。
(2)人里離れた水辺の小屋に神の嫁となる乙女が神を祀るために一晩過ごし、翌日に笹竹の飾りを川や海に流して穢れを流す。流し雛のように人型を流す「七夕流し」は富山県黒部市尾山の行事。
(3)女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。もとは中国の行事で五節句の一つとして日本で奈良時代宮中の節会としてとり入れられ在来の棚機女伝説や祓えの行事と結びついた。乞巧祭会。
(4)織姫は河の神に捧げられた犠牲の棚機女で牽牛も又犠牲の牛だった。
(5)棚婆【タナババ】棚にいる恐ろしい婆。棚は三階のことで養蚕時に使われた。(タナ婆伝説は太平洋の島々に広く分布(丹那婆))…これはもう七夕都市伝説ですね。様々な説、珍説がありますが史実でしょうか。
「棚」が「七夕」の直接の語源かと思われます。「七夕」を「たなばた」と読むのは、この行事の際に特別な「棚」を作る他に棚機女(たなばたつめ)の習慣があったからだとも考えられています。そして「機織り姫は渓流に棚を作る」という。これは水車を動力にした「自動機織り機」を用いていたからではないでしょうか。(水車紡績を日本で始めたのは臥雲辰致(がうんたっち)さん)川沿いに作られた「水車自動機織り小屋」それが「たなばた」とか…
明治頃には島津斉彬がイギリスから技術を輸入して「水車機織り工場」を創立したらしいです。そういう風に朝廷にしても政府にしても時代劇を見ていても…描かれているのは機織りや布染め…ど派手な衣装など。中国と物々交換をしていたとの話もあるようですが。何と交換していたのか?食べ物かと思われますが…「服飾に非常にこだわる民族」が朝廷?なのか?何かの執行部と思われます…フランス系民族じゃないのかな?と考えているのですが…。
その他七夕のルーツはイスラエル人ヨセフだった!!なんていう話もあるんだそうです。
 七月は文月(ふみづき)と呼ばれていますが、それは七夕が関係していると言われておりその理由は…短冊に願い事の「文」を書くから。七月を含月(ふくみづき)と呼ぶから。などの説がありますが謎です。
七夕の雨は「二人の涙の雨」??なんて言われてもいます。何故なんでしょう。それは当時の稲作農耕とも密接な関わりがありそうです。その時期日照りが続き畑が干上がり、作物が実らない…そんな時二人が短冊に雨を願ったのでしょうか…雨が降らないと二人はどうなってしまうのでしょうか!?「食われる」ということではないでしょうか
実は恐ろしい「人食文化」を伝えているようなんです。 踏まれたり、含まれたり(口に?)という意味でしょうか…

珍説「タナ婆」も「丹那婆」とも書くらしく…罪人が流罪されていた「八丈島」での話らしい
「八丈島始祖伝説 タナ婆伝説」
・フィリピン東方から台湾・琉球諸島を経て九州・四国・紀伊半島に沿って太平洋西岸を北上する黒潮が、途中でいくつもの文化的要素を溶かし込み、この島に届けたものと考えられます。
・ おおむかしのこと、この島を大津波が襲い、すべてが流されてしまったとき、身重の女性タナは、漂っていた舟のにすがり大賀郷・の岸に打ち上げられ助かり、お腹の子と再度夫婦となった、島民は、その母子相姦の子孫である(櫓かこみ長女)。
・一八六九年(明治二)流罪となった平川は、近藤富蔵の『八丈実記』でタナ婆伝説を知り、たいそう驚きました。
→では「タナ」の語源は「タナ婆」なのか?謎〜

ほか調べていて、ふと思ったのが「神が処女を棚にお供えをさせていた」らしき話。富山では今も七夕流しといって「人型」が川へ流されています。それって何かな?と推測すると、「子供を捨てた」という事なのかもしれないのではないでしょうか。
忌々しい…七夕、星になった「織姫と彦星(牽牛)」が二人で短冊に「雨」を願っている。そんな秘話が隠されているのかもしれない(*_*、

機織り小屋を「タナ」と呼んだ、それが川沿い渓流にある…それって「棚田」と同じ様な畑でしょうか。あの棚型になっているところが「棚」の語源なのかも。水の豊富なところに棚田も作られますし、その流れを用いて「水車」を回して機織り機の動力にしていた、とか…

他、年に一度神が乙女を探しに訪れる、それが「アマ(女)の川」…船で訪れたとかで。
もしくは、その時期日照りが続き作物が育たないと、織姫と牽牛がお供えされる。神の食事として…とか…
色々考えてみたのですが
どなたか他の情報ご存じないでしょうか…誰か教えて!まとめて!宜しくお願いします〜(*_*、

コメント(2)

ふと思い出して…書き忘れましたが
「鬼婆」「機織り」を結びつけたのは絵画からなんです。「黒塚」「安達が原」という作品で。
(ウィキペディアから抜粋)
・画像カラーのものは月岡芳年『奥州安達が原ひとつ家の図』 この錦絵は「風紀を乱す」との理由で明治政府により発禁処分となった。
黒塚(くろづか)は、福島県二本松市にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている。黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている。能の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆だとされる。
・画像モノクロは、鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「黒塚」
(『奥州安達ヶ原黒塚縁起』によると)
神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、これから薪を拾いに行くと言い、奥の部屋を決して見てはいけないと祐慶に言い残して岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。
→この図には機織り機と人食い婆が描かれている。これって何かな?と考えていたのですが人食いが機織り機を用いるなんて
今話題の「技術者のクローン」とか!?
話としては興味深いものもあるのですが、この手の話は他の、例えば都市伝説系であったり
怪談や伝奇系と言った感じのコミュでトピ立てしたほうが情報が集まるのでは?

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