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城塞都市 カルカソンヌコミュのカルカッソンヌ通史

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カルカッソンヌで買った小冊子や観光案内所でもらったパンフなどを基に「カルカッソンヌ通史」を、たいへん大雑把ですが以下に要約してみました。

今年7月初めてカルカッソンヌを訪れ大いに感激!この町と地方の文化や歴史についてもっと知りたいので、皆様からのコメント、情報、ご批判をよろしくお願いします。

(記述の多くは、現地で購入した<Carcassonne-La cite’ (Production Leconte 2007)>イタリア語版に拠りました)



<カルカッソンヌの歴史>

新石器時代の最初の住人、それはカルサック人で、カルカッソンヌの南方に住んでいた。
紀元前6世紀、その土地は放棄され、現在ある城の場所にケルト人の城塞都市(oppidum)がつくられる。

紀元前1世紀には、ローマ帝国の属州ガリア・ナルボネンシス州の一部として併合され、やがて紀元後4世紀にはローマ城塞(Castellum)となる。
紀元前118年  ナルボンヌに、リキニウス・クラッスス将軍によりローマ植民地の基礎が置かれる。
前43−30年 この時期、入植地ユリア・カルカススJulia Carcasoとカルカスス城塞Castellum Carcasoが築かれる。
紀元後3世紀  最初の蛮族侵入後、見張り塔を配された城壁が、入植地を防衛するために築かれる。

406年  蛮族の侵入(ゲルマン民族の大移動)がガリアにも拡がる。
412年  西ゴート族が町を占領する。当時、トゥールーズに西ゴート王国の都が置かれる。
509年  フランク王クローヴィスが西ゴート族をカルカッソンヌまで追いやる。西ゴート族はまだセプティマニア(Septimania=スペインに近い南仏地域)を保持する。

711年  アラブ人(イスラム勢力=サラセン人)がスペインを席捲し、セプティマニアに侵入、カルカッソンヌに迫る。
725年  アラブ人がカルカッソンヌを占領する。
732年  アラブ人は、フランク王シャルル・マーニュに「ポワティエの戦い」で敗れ、追撃されスペインへ退却するが、前線基地としてのカルカッソンヌを孤立した状態で保持する。
750年頃  ピピン(ぺパンPepin)短躯王の率いるフランク族と西ゴート族の残党が連合し、カルカッソンヌを占領する。これによってカロリング朝の統治下に入る。
同時に、フランク族の族長のひとりがカルカッソンヌと周辺地域を譲り受け、最初の「カルカッソンヌ伯」となる。

1067年  カルカッソンヌの封土はバルセローナ伯の家系にわたる運命となり、たちまちベズィエ子爵トランカヴェル家に奪取された。
1130年頃  今日ある伯爵城(城塞内にあるシャトー・コンタルchateau comtal)が築かれる。

1150年頃  ロマネスク様式のカテドラル、聖ナゼールのバジリカが聖別される。この頃、異端カタリ派がトゥールーズ伯領全域に広まる。
教皇インノケンティウス三世は、異端カタリ派に対して、アルビジョワ十字軍を宣言する。

1209年  十字軍の総大将シモン・ド・モンフォール伯に率いられた北フランスの騎士部隊がトゥールーズ伯領に侵入する。
1209年8月1日 シモン・ド・モンフォールがカルカッソンヌを攻囲。二ヵ月後、多分、裏切りにより町は占領される。カルカッソンヌ子爵レーモン・トランカヴェルが囚われの身となる。住民は追放される。
1209年11月10日  カルカッソンヌ子爵レーモン・トランカヴェルの死。シモン・ド・モンフォールは占領地を封土として受け取る。
1216年  シモン・ド・モンフォールがトゥールーズに入城。
1217年  トゥールーズ伯レーモン7世がトゥールーズを急襲し、奪還。
1218年  トゥールーズ攻囲戦の最中にシモン・ド・モンフォールが殺される。嫡子のアーモリーが後継者となるが、徐々に占領地を失ってゆく。
1223年  トゥールーズ伯レーモン8世がカルカッソンヌを攻囲。
1224年1月14日  アーモリー・ド・モンフォールが、イール・ド・フランスへ帰還する前に、町の前で講和条約を結ぶ。
1224年1月19日  講和条約にもかかわらず、カルカッソンヌ子爵レーモン・トランカヴェル?世がカルカッソンヌを包囲する。
アーモリーが父の封土をフランス王ルイ8世に譲る。
1226年  ルイ8世が戦わずしてカルカッソンヌを占領する。町は奉行所管区の本拠地となった。

1229年  パリ条約によりアルビジョワ十字軍が終了する。トゥールーズ伯領の大部分はフランスに併合される。
1240年8月  スペイン・アラゴン王国に亡命したカルカッソンヌ子爵レーモン・トランカヴェル?世は、大軍を募り、カルカッソンヌへ向けて進軍、町を攻囲する。奪還を試みるが、失敗に終わる。しかし要塞を取り巻く市街地(le bourg/サン・ヴァンサンとサン・ミッシェルの教区)が破壊された。

1240年10月12日  聖王ルイ9世によって増派されたフランス軍が攻囲軍を遠ざける。聖王は、住民に退去命令を発し、町を破壊する。
1247年1月21日、トランカヴェル軍の降伏後、聖王ルイ9世は、格子状に設計された城塞都市(Bastide/いわゆる城下町)を、オード河の左岸につくり、追放されていた旧住民を、そこに住まわせるよう王令を発した。これが下町(城下町)Ville basseの起源である。

王は、ラ・シテの城壁の外側に見張り塔付きの城壁を新たに建て(二重の城壁となり)、守りを完璧たらしめる。
1270−1285年  フランス王フィリップ?世は、父王ルイ9世が企てられた仕事を完遂する。町は難攻不落となる。

1353年  イギリスのエドワード黒太子が下町を焼き尽くす。しかし、彼は城塞からは距離をとっていた。
下町Ville basseはもっと縮小した面積のうえに城壁で囲いつつ再建された。

1590年、宗教戦争のとき、ラ・シテは、下町城塞Bastideに対抗し、アンリ4世をフランス王として認めなかった。それはアンリがユグノー(新教徒)だったからである。
町は数ヶ月間にわたって、暴力的な抗争の場と化した。

1659年  ピレネー条約により、ルーション地方がフランス王国へ併合される。もはやカルカッソンヌは前哨基地としての役割を終えることになる。
ラ・シテは彼自身の鎧のなかに打ち捨てられ、時間の流れと忘却のうちに荒廃してゆく。

14世紀から折り紙付きの毛織物産業がこの地方の主要な産業であった。
1780年頃、市場の崩壊がこの産業の没落をうながした。
葡萄栽培とその産業のおかげで、町が経済的活性化を取りもどすのは、第三共和制まで待たなければならなかった。

1835年  作家プロスペル・メリメ(スタンダールの友人でもある)がラ・シテの荒廃に警告を発する。
1838年4月  スタンダールがカルカッソンヌを訪ねる。
1844年  建築家ヴィオレ・ル・デュックがカテドラル聖ナゼール教会の修復の任にあたる。
1850年  石切り場として利用されてきたに過ぎなかったラ・シテ城塞は、全てが取り壊しとなることが議会で決定される。
ジャン=ピエール・クロ・ド・メールヴィエイユがその法令を廃案に追い込む。 ヴィオレ・ル・デュックが城塞の修復を開始する。

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