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集え!ガチな映画感想家達よ!コミュの麻花(マーホア)売りの女    (1994)

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麻花(マーホア)売りの女   (1994)

英題; ERMO
95分
製作国 中国/香港

監督: チョウ・シャオウェン
脚本: ラン・ユン
撮影: ルュイ・ケンシン
音楽: チョウ・シャオウェン

出演: アイ・リーヤー
カー・チーチュン

87年のハリウッド製活劇をも凌ぐ大刑事アクション「追跡者」で脚光を浴びたヒットメイカー周暁文が新境地を開いた、農村が舞台の“女性映画”。と言っても、彼一流の叩みかけるような劇的トポスが随所に露れて、ありきたりの人間スケッチに終わっていないのはさすがだ。原題は主人公の名だが、醜い次女の意味を持つ。歓迎されず生まれたことを示すのか、しかし、現実に今でも農村ではこのような名付け方があるそうだ。舞台は北方の農村(ロケ地は河北省)。アルモは年上の元村長の夫との間に8歳の息子がいるが、まだ若く勤勉で、腰痛を理由に働こうとしない夫をよそに、毎朝早く起き出して麻花作りに余念がない。この、巨大なかりんとうのような菓子を町で売るのが一家の最大の収入源なのだ。彼女は小麦粉を足でこね、突出し機で細かく紐状にし、庭いっぱい広げて干し、ねじっては揚げていく……。息子がそれ目当てで入り浸りの隣家のテレビに負けない大画面(もちろん日本製)テレビを買おうと、一銭でも多く一刻でも早くと彼女はがむしゃらに働く。犬猿の仲の夫人と違いアルモに何かと親切な隣家の主人シャーツは、町の食堂で麻花を作ればもっと稼ぎがよいと奨める。その職場で起きた凄惨な事故。しかし、そこから彼女は血を売れば金になることを学び、仕事の合い間、せっせと塩水を飲んで血を売りに行った。アルモとシャーツは一度、男と女の関係を結んだが、それ以上の進展はなかった。しかしシャーツは彼女の給料の一部を上乗せしてして払い、プライドの高い彼女の怒りを買う。彼は仕方なく商売女に手を出し火傷をし、それを嘆く夫人にアルモは親近感を覚えるのだった。そして、いよいよ念願のテレビが一家の物となったが……。アルモを演じたアイ・リーヤーのエキゾチックな風貌と逞しい演技力は作品の最大の推進力。愚直な田舎女になり切っていて凄い。

以上が映画データベースの記載だがオランダ語の字幕で見ていて主人公が額に汗して作るものが「麺」となっており、それは菓子ではなく蕎麦、饂飩の類、パスタの「麺」でしかなかったのだが、それにしても杵で押し出す麺がいやにさくさくとして切れそうなものだったことにも何か混じり物とか粉が粗いからだろうかとも思ったのだが、けれど揚げ菓子ならば油で揚げているシーンがあってもよかったものがそれがあったかかどうか確かではない。 順序で言えば湯のようなもので茹でた後に奈良の素麺を干すように隣家の斜め下に広がる小さな干し場に棒から二つ折に垂らした麺をいくつも干していたし、束ねて捻じたものをいくつも籠に入れて村の広場か町で売るのを見て、これはやたらと大きな麺だなとは思っていたものの、隣家の男と町で食事をする場面ではまことに大きな丼に山盛りになった飯や麺で食事をしていたのを見せられたこと、そこから帰って、「もう何年も村長でもなんでもないのは分かっているだろうと」いうのが口癖の主人公の病弱の夫が妻と隣家の夫が町で旨いものをしこたま食った後で二人に自分の手打ちの麺を満載した丼、それを二人が町で二人だけの食事を済ませてきたとはいえない罪悪感から無理に腹に入れた後もまだ山盛りにしたものを再び持ってくる、そういう大きい食器に盛り上げられた食い物の量と大食の人々に驚いたことがこの映画を観てからもう二週間ほども経っている現在、先ず頭に浮かぶことなのだ。 しっかり働くというのはそれに付随してものをしっかり喰えなければいけないということでもあるのだ。

そして、なんとか喰えるとなると次はなんだろうか。 家にテレビがあるというのは甲斐性なのだ。 隣家にテレビがあり、電話があり自家にはない、ということを1950年代に経験しているものにはこの映画はデジャヴとなる。 まだ洟垂れ小僧のころ近所のテレビがある家にニュースや何でもただ白黒の映像が動いているというだけでその家では家族そろってそこで食事をしているというのに子供達が何人も押しかけて画面に見入っていた。 われわれはそこで物喰う人々を斟酌しないし、その人々も我々を別段斟酌しなかった。 その家の人たちもズカズカと入り込んでくる子供達を拒んでいては近所から何を言われるか分かったものではないし他の家にない、時代のステータスシンボルをであるテレビ受像機をもつ優越感も混ざった満足感も働いて小僧供を受け入れていたのだ。 だから逆に、年寄りがその家を訪ね、相撲中継を何時間も見に来ていても酒は振舞わないものの座布団に茶菓子を供していた。 そういう時代があったことを本作が思い出させてくれた。

男どもに甲斐性がなければ女の細腕が稼がねば誰が貧しいうちの面倒をみるのだろうか、男の下心の混じった同情の姑息な手段には女は腹が立って逆にその男が馬鹿らしくなり、自分が欲しいときにつまみ食いができる男を持てるようにとよりいっそう働いて稼ぐようになるのだろう。それを見せるのがこの「女性映画」というのなら普通の映画と変わりないではないか。 男にしても女にしても要は経済的な自立なのだ。 そしてここではまだ携帯は行き渡っておらずテレビが甲斐性の焦点となりそのゴールも到達し、自家にも押し寄せた隣家の人々が帰った後、土間にたくさん飛び石のように置き去りにされた床几に座ってうつけたように呆然とする主人公の目にはその村か町で一番大きなスクリーンに映る安物のアメリカのメロドラマの、午後のよろめきのベッドで絡む金髪男女の性愛は目に入っていない。 その性愛と、この村から町への往復にしばしば停まる、そのにはまるで何もない広大な景色の道端であるとき隣家の男が性愛を迫りそれに自分で決然とそれを能動的に答える主人公の性愛はエロスというよりその性的欲望は「生きる」なかでの情動ということのリビドーと呼ぶのがふさわしいように映る。

それにしても中国の風景はアメリカの西部、モンゴル平原などと同じく美しい絵になるものだ。 この村の門を出てそう遠くないところは両側に崖がせまりその間をぬけて広大な風景につながって遠くの町に至るのだが、そこにあるときは主人公が町に物売りをするのに朝早く出かけるために彼女を待っている隣家の男が荷物を満載したトラックを停めていて、それに追いついて、右から助手席によじ登ることで中国ではは左ハンドルとわかるのだが、その場所のトラックのすぐ先が右に迂回して暗い影に入る構図が秀逸だ。 

その集落の入り口にある門のそばで終日何をするでもなく座っている老人がいるという風景は大量消費時代が来ることで消えることは既にわが国でも50年前には経験している。 現在、中国は経済的な発展、自立、世界制覇を試み、世界に冠たるアジアの中華思想をあらゆるところで実行しているのだが本作の現実は1994年のもので、景色は別として今ではこういう人々の暮らしもかなりの過去の風景になっていることと想像する。 中国の保有する外資をすべて中国貨幣にして全国民に分配すれば一人10万円ほどになる、そしてそれを景気回復の起爆剤として、、、、、とどこかの国の首相と同じようなことを中国でも誰かが言って、それに対して、埒もない、と中国政府高官から笑い飛ばされたのは何週間前だったのだろうか。 現在の世界的金融危機の時代にはこの親子3人の家庭で30万円ほどでは何が買えるのだろうか。 インドで発売された安全環境基準をも満たさない、アイポッドの名前に似たような車が買えるだろう。 

隣家よりも大きなスクリーンを持つテレビを手にいれ、自分には勉強のできない息子がいるけれど一人っ子政策のなかでは隣家には娘しかいないことからうらやましがられ、夫の病気は悩みではあるけれど夫を当てにせずとも行商では糊口をしのげるのだからもう売血しなくてもいいけれど、彼女の中に湧いてくるはずの次のターゲットは何なのだろうか。 中国式資本主義の世の中で次世代に成功を託すにはいずこも同じ教育投資なのだろうけれど、そのためにこの30万円は使われるのだろうか?

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