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シュタイナー言語造形ことばの家コミュの言霊

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言霊、というテーマを、ここ一年くらい、考えて参りまして、思うところがありますので、是非皆様の賢明なご意見を伺いたく、トピックを立てさせて頂きます。


言葉、というものは、非常に多様なものでして、モノの本には、お金もセックスも、およそ、交換するものはすべて言葉である、というようなことが書いてあり、「フムフム、なるほど、」と、それはそれで納得するのですが、、、


実は最近、間接的に、聾者と関わる機会がありまして、彼らの言葉への取り組みの中に、言葉の本質のようなものがあるのではなかろうか、などと感じておりまして、、、


つまり、言葉の伝達には『音』が不可欠であるように思われるのですが、そこで聾者にとっての音とは何なのか、と、思い、ふと立ち止まるのでございます、、、


「お刺身が食べられないから虚しいのか、それとも自分の内なるお刺身の味は、ホンモノのお刺身に勝るとも劣らず、生々しく美味しいのか?」、、、これは私が私の先生から頂いた問であります。


そして私は30年も音楽をやってきた自分の人生を振り返ってこう自分に問わざるを得ません。


「音の無い音楽は虚しいのか??」


しかし、音楽を唯物論的にとらえようとする態度を突き詰めるならば、音楽は精巧に作られた、空気振動の複雑な組み合わせ以外の何ものでもなく、耳の聞こえない人たちにとって音楽とは何の意味もなさない、ということになってしまいます、、、




さて、聾者の聞く音楽とは?そして盲者の見る絵画とは??


聾者の聞く音とは?盲者の見る色とは??


そこにこそ、音と色の本質、言霊の本質があると思うのです。


さらに突き詰めるならば、日本語を耳にしたことのない人たちにとっての日本語にこそ、日本語の神髄があるのではないか?


「先の者が後になり、後のものが先となる」、というイエスの言葉、、、





はっ、はい、白状致しますと、ちょっとビール飲んでいい気持ちになってます、、、

コメント(7)

>C62 hikaruさん、トピあげてくださって、ありがとう!

このトピ、とてもおもしろく、わたしもじっくりと考えたいことです。
(ビール飲みながら・・・)

しかしこれから仕事で2泊3日の旅でして、コンピューターに触りませんがまん顔
帰ってきましたらわたしも書き込ませてもらいます。
皆さんも何か思うところ、感じるところがありましたら、ぜひ書き込みをしてみてくださいね。
どうぞよろしく!
【補足1】

霊にとって生と死には境目が無い、というのがシュタイナーの立場なわけですが、生と死を越えるものとしての『言葉』を考えたいのです。

生の世界を、五感の世界としますと、誤解を恐れずにいうならば、聾者は聴覚という感覚において、死の世界を先取りしているともいえる。

聾者に「聴こえる音」が、健聴者の聴く音と同様に、あるいはそれ以上に生々しい体験でなければ、我々はやがて暮らすことになる死の世界は、この生の世界よりも色あせたものになってしまう。

一方19世紀以前より続く科学技術の世界は、人間を精巧ではあっても機械の一種であると規定して成立し、また成果を上げてきた。例えば、人体をパーツの集合体と考える臓器移植などは、まさにその発想の上に発展してきた技術で、現代人は少なからずその恩恵を受けている、、、

だからといって、科学技術を否定すればそれで事足りるなんてほど、問題は生易しくありません。

しかし私のやってきた、「ロック」という音楽は、その「人間 = 機械」に対するアンチテーゼなわけで、私個人としては、やはりそこにこだわらざるを得ないのです、、、

そして芸術とは、全般的に、そこを越えていこうとする試みなのではないでしょうか?
【補足2】

『どんぐりの家』、という劇画作品は、重複障害者の世界をつまびらかに描いた作品で、肉体を越えるということがどういうことなのかを考えるための素材を多く提供してくれます。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%AE%B6-%E7%AC%AC3%E5%B7%BB-Big-comics-special/dp/4091837646/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1281318825&sr=1-6

特に私にとっては第三巻の『雪』というエピソードが印象深く、そこでは聴覚障害を持つ少年が、音という概念に立ち向かう強烈な姿が描かれています。

「どうして・・・・おかあさん、どうして気づかなかったの!?耳が聴こえるくせになぜわからないの!?本に書いてあったよ「しんしんと雪が降る」って・・・・・窓を閉めててもわかるはずだ!!雪の降る音が「しんしん」っていう音が聴こえるはずだ!!」



蛇足ですが、聾者のほうが、この「しんしん」という音の本質に迫る力を鍛えていて、健聴者はついつい耳に頼るあまり、そこを見落としてしまいがちになるのではないか、と、私には思えるのです、、、
ちょうど読んでいたシュタイナーの翻訳本に以下のような箇所がありました。

『人智学・心智学・霊智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫P50〜)

「人間自身の持たない何かが、人間の中に入ってこなかったなら、聴覚が生じることはなかったでしょう。
聴覚の場合は、自分自身の成分を人間に提供する本性たちに浸透されなければならないのです。
したがって人体は、海綿のように、人体に浸み込んでくる本性たちに貫かれています。
かつて人間段階を通過した天使たちにです。
天使たちがアストラル成分を人間の中に送り込み、人間がその外からくるアストラル成分を自分の中に作用させ、そしてそれを外へ流すのです。
この成分が耳を通して私たちに伝えられると、私たちはいわばこの天使たちの翼に乗って、事物の魂であるあの音響を体験するのです。
ですから、音の世界には人間の上位に立ち、人間を満たしている本性たちが働いているのです。」


C62 hikaruさんのおっしゃるとおり「聾者は聴覚という感覚において、死の世界を先取りしているともいえる。 」はずです。
ただ、聾者が聾であるのは、聴覚の中の肉体上の感覚部分においてだけであるので、聾者が死の世界を先取りしているのは、肉体上の感覚によってではなく、そのアストラル体部分によってなのだと思います。

ですから聾者がアストラル体の働きを意識化できれば、当然、音響の体験を意識化することも可能なはずです。
また聾者は、肉体上の聴覚は何らかの障害で機能していないとしても、アストラル体では常に音響を体験しているということになります。

シュタイナーの人智学的見地の特に素晴らしい点は、人間の聴覚は天使のアストラル成分によって生じているという霊学的見識です。
もしも人間自身のアストラル成分によって聴覚が生じているとしたら、人間のアストラル体はカルマの影響を受けて歪む場合があるので、聴覚自体もカルマ的な障害を持つ可能性があります。
しかし人間の聴覚は天使のアストラル成分によって生じているので、人間自身のカルマの影響を受けないということです。
つまり、人間の聴覚は人間の次元よりも高次な世界を体験しうる霊的な機能だと思います。
jun-iさま、どうもありがとうございます!
わたしは、言語造形を通して感じられることを書くことができればと思います。

言語造形に取り組んでいまして、
何よりも感じられることは、
ことばとことばの間(ま)の豊かさです。

ことばの第一音目が発せられるその前からすでに息遣いは始まっていまして、
そして最後の音が発せられた後も、
まだ息遣いは続いています。

「あ」という音を発する前に、
まるで「あ」という風がわたしの背中に向かってはるか後方の彼方から吹いてくるように感じられます。

その風に乗って「あ」という音がこの身にやってきたとき、
初めて「あ」という音を発します。

そして「あ」という音が発せられた後、
耳に聴こえる「あ」という音は消えているのですが、
わたしの前方はるか彼方へと「あ」という響きを乗せて風が吹き去っていきます。

物理的な空気の振動として響く「あ」という音の前後で、
わたしたちは確かに「あ」という響きをはらんだ風を感じることができます。

「響きをはらんだ風」という比喩的な言い方を今はしておきます。

ひとつの音、ひとつのことばが発せられるそのプロセスを別の言い方で言えば、

    迎えて
    響かせて
    送る

この三つの繰り返しが、ことばを芸術的に話すことへとなりたたせていきます。

音、ことばを「響かせる」ことの前後になされるふたつのアクティブな意識的な行為、
「迎える」と「送る」。

このふたつの行為の際に聴こえてくる響きは物理的な響きを越えた、
こころにおける、精神における響きです。

この間における響きこそが、人のことばを支えています。

この響きに耳を傾けること。

それはもしかしたら聾者が聞こえぬ音を聴こうとする行為と重なるところがあるのではないかと感じています。

それは、この生の次元を超えたものごとに接する時間であるとも感じています。

そこにこそ、ことばの精神、言霊が息づいているように感じます。
「響きをはらんだ風」、、、

    迎えて
    響かせて
    送る

なるほどなるほど、、、音楽をやっていく上で、大変参考になります!

音楽でも、音、そのものよりも、音と音の間を大切にしないと、良い演奏は生まれない、、、

それは言葉が響いている『場』の全体を俯瞰するということでもありますね、、、



そしてもう一方、言葉そのものに、実物と同じくらいの力があるという発想もある。

『りんご』という言葉が、実際にカジるりんごに迫るくらいの存在感を持つことができるのかどうか、、、



それからjun-i様のご指摘にもありますように、音というものは、物質現象以前に、エーテル界、アストラル界に響く、エーテル音、アストラル音、があり、それこそは音の本質であるわけです。

そして我々は、我々のエーテル体の耳、アストラル体の耳を通して、それらの音霊を聞き、言霊でコミュニケーションをとるわけですが、、、

さてさて、エーテル、アストラル体験としての言語体験、音体験、具体的に、どんなときに、エーテル体、アストラル体の耳で、言霊音霊を聴いた、と、人は感じるのでしょうか??

明らかに、肉体的物質的な音体験でない霊的な音体験、皆様のそういう具体的な体験をご披露いただけたら幸いです!!

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