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†イエス・キリスト†コミュのらい病について

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聖書には様々な奇跡が記載されている。
その中にらい病の話がある。
マタイによる福音書8章にはらい病を患っている人を助けた話がある。
「主よ御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
イエスは手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、らい病は清くなった。

この場合注意が必要なのは癒しではなく清めだったのだ。
聖書を拝読するときイエス様が手を差し伸べられたのは医学的癒しではなく信仰的清めだったことに注意が必要だ。
そもそもらい病とは医師が手を触れることを聖書で禁じられている。
だから医学的治療は不可能だ。

病に苦しむ人が聖書を読むとき、その点を間違えてはならない。

コメント(108)

>>[67]

トピの方向性は変えるつもりはありません。
私は単にイエス・キリストの福音とは癒されたとか清められたとか幸福になったで終わるものではないと指摘したにすぎません。
マタイ8章より
4節〜
イエスはその人に言われた。「誰にも話さないように気を付けなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を捧げて、人々に証明しなさい。」
何故イエス様は、「誰にも話さないようにしなさい。」 このように話したのでしょうか?
>>[069]

ハッピーエンドならええじゃないか、と思います。

また、次の人に伝染させる生き方が始まるとか、

>>[71]

イエス様の福音は単にハッピーエンドで終わるものではない。
それはルカによる福音書17章を読めばわかります。
イエス様のもとに来た10人は全員清められて終わったのではない。
一人だけ神を賛美するために戻ってきた。
外国人が決して神の国に入ることはないと信じられていた時代に、それもらい病が清められると言うこと死人が起き上がるより困難だと教えられていた時代に・・・そのような人に信仰を与えれた。
がんばらなければならない、という今の常識?

完璧に喜ばれる行動を求めているのか?

あなたは黙っていなさい、というたとえ話?

『たとえ話』だったのでは?

(たとえ話だとしたら、その前後も考えてみないといけないように思います。)



つまずきを起こさせる者はさいわいだ?



読んでもわからない、理解不能な罪?

m(_ _)m
>>[73]

がんばらなければならないとはイエス様は言っていません。
「やすませてあげよう」とは言いましたが(^^)
イエス様の時代にはイエス様ご自身が躓きの石でした。
黙っていなさいと言うのはたとえ話ではないと思います。
そのまま理解するべきかと・・・
>>[074]

イエス様が言ってないなら受け取らない、というのは、正しいと思いました。

ハッピーエンドでは終わらない。

(それは誰が言ってましたか?)


(ハッピーエンドで終わる。。わたしのことば?)

>>[75]

ルカによる福音書ではイエス様はハッピーエンドで終わらしていない。
神を賛美するために戻ってきた記載があります。
>>[70]

イエス様は純粋に神の福音を述べ伝えることを目的としていました。
下手に吹聴されると旅順医師と間違われ述べ伝える福音を純粋に受け取られなくなる可能性があったと思います。
イエス様はキリストであって医師ではない。
>>[076]

聖書は最終的にはハッピーエンドで終わらないですか?

世界が滅びておしまい?

>>[78]

もう少し聖書を読んでください。
癒されたり清められたと言う意味のハッピーエンドでは終わっていませんよ。
神を賛美するところまで行かないと終わりではない。
ルカによる福音書だって一人のサマリア人が神を賛美するために戻ってきたではありませんか。
神を賛美する、、というところまでいったハッピーエンドで、
見よ、それは非常によかった。
聖書というか、しのぶさんの言っていることが、理解できてないので、すいません。

意味不明です。
(こちらからすると、、自分だけかもしれないですけど、、)


神を賛美するために戻ってきた。
(御国に入ったのは、ヨシュアとカレブだけ・みたいな?)
(ハッピー8割、アンハッピー2割?)
マタイの福音の中で8章のみ「清く」という言葉を使われていますか?

その他の章では、癒すや赦されるとなっていますか? 聖書では、この言葉の意味には違いがありますか?
>>[81]

「清く」と言う言葉はマルコの福音書にも見られます。
逆に「いやされた」と言う言葉はルカの福音書17章15節だけです。
旧約聖書にはレビ記14章48節。
中には「いやし」と「清め」が同じ意味を持つ箇所もありますので両者の区別が曖昧なのは認めます。
しかしレビ記の13章を読む限り医学的病気と言うより宗教的ケガレと見るべきでしょう。
>>[81]

赦しいついて書き漏らしました。
らい病は罪が体表に表れた病ですから罪が赦されれば病も無くなる。
だかららい病を清めるのはキリスト以外に不可能なんです。
あなたたちはお互いに足を洗いあっていれば大丈夫?

まず、洗ってもらって、、洗ってもらって、、洗ってもらう?
(わたしの足など、決して洗わないでください、、という救いの拒否をしない??)

・・・。

洗うのはイエス様??
(それとも自分??)
トピズレですよ。
このトピは私がトピ主ですから私が管理する。
らい病はキリスト以外に癒す事の出来ない病であるならば…

その病の呼び名を「らい病」と訳し、尚且つ、「ハンセン病」であるかのように考えていたキリスト教の過ちは大きいと思います。

クリスチャンになる前から、この私でさえ聖書に出てくる「らい病」とは、ハンセン病の事だと思っていましたから。 恐らく聖書を読んでなくても、映画や小説で「らい病」の話が出てくるからだと思います。
バカにつける薬があるならば、

トピ主になればどんなに間違った教えでも、管理という名の下に、、垂れ流すことも赦されるというか、赦されるのだろうか?

(管理できるのだろうか?)
>>[014]

ツァラアトは何故、何病にでも当てはまる「レプラ(ギリシャ語)」に訳されたのでしょうか?

病気の症状が、人それぞれ異なっていたのでしょうか?
>>[90]

ツアラハトと言うヘブル語は旧約聖書独自の概念です。
ギリシャ語はおろか全ての外国語に翻訳不可能な言葉です。
だからギリシャ語に翻訳するときレプラつまり凸凹した状態を表す言葉に当てはめた。
これは本来形容詞です。
70人訳聖書(ギリシャ語の旧約聖書)が出たとき翻訳にたずさわったアレキsンドリアの学者たちは気が付いていたはずです。
しかし・・・その後ハンセン病が現れた。
いやヒポクラテス医学にも精通していた学者ならハンセン病をギリシャ象皮病と表現していたはずです。
しかしローマの医師達は・・・この新しい病気の記述にレプラと言う形容詞を使った。
しかしウルガタ訳聖書には・・・そのことを考慮せず70人訳の聖書を踏襲してレプラと表現してしまった。
それが誤解の原因です。
この当時「レプラ」と訳された病を清めたイエス様の行為は、神であることの証になり得るはずですが…
>>[92]

その通りです。
だからこそ・・・それを認めない者はイエス様を十字架につけた。
およそひとかどの者ならば決して近づかないらい病人や、神から省みら無かったと信じられている最下級の罪人の仲間達を律法に忠実な輩がキリストと認めることは論外だった。
ユダヤ人達にとって神に至る道は律法を守ることだった。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証された、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
 そこには何の差別もありません」ローマ人への手紙3章21節23節
心に響くメッセージがありましたので、ご参考までに。
【重い皮膚病の癒し】
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm27.htm
>>[94]

拝読いたしました。
一部らい予防法の非難する部分がありました。
しかし当時ハンセン病に対する偏見が強く、このような法律を楯に患者を保護する必要が現実にあった。
らい病の救済のために働いていたクリスチャン達も気が付いていたことです。
強力にらい予防法を推進する医師の下でらい予防法撤廃のために力のあるクリスチャンが育った。
みすず書房の「門は開かれて」を読みました。
犀川一夫と言う「らい予防法」を覆した医師の証のような書物でした。
クリスチャンであった犀川が戦時中戦場で死ぬのなららい病院で献身したいと言う願いで両親を説得してらい病院の医師になり奥様同士が友人であった石館守三がプロミン合成に成功したと聞いて臨床試験を申し出て苦労してらい病院に運び臨床試験をした話がありました。
石館守三と犀川一夫はハンセン病が聖書のらいでないことに気が付いていた。
らい病院の院長は「らい予防法」の旗手であるにもかかわらず、お預かりした子弟に学位論文の手助けをと昼夜を分かたず協力して治療法を確立した。

この場合、石館守三とは母が幼かったころクリスマスのお話をしてくれた天才学生でした。
らい病院に奉職しようとしたが東大は天才と認め手放さなかった。
私が学んだ教科書の著者です。
東大の初代薬学部長です。
聖書解釈上苦慮しています。
聖書に記載されているらい病の中に口語訳では疥癬、新共同訳では白癬が出てくる。
現代医学で説明可能な病名が含まれている。
つまり神の前に汚れとされている病気の中に感染症が含まれている。
(レビ記13章30節)
今仮に疥癬として解釈を試みてみましょう。
ナアマンのらい病が疥癬であった場合・・・疥癬原虫は硫黄分に弱い。
ヨルダン川は地形的に見て川底から硫黄分を含んだ水が湧き出している。
その水に七回漬かったら疥癬が去る可能性がある。
エリシャはナアマンの贈り物を受け取らなかった。
しかし従者のゲハジは受け取って感染した。
この場合、イエスさまなら、なんでもできる、から。

イエスさま、神ご自身を求めよ、、
いやし、きよめ、、も求めないほうがいいよ?、、と、

いやしでも、きよめでも、どっちでもいいよ。

信じた。
その結果、いやされた。なおった。きよめられた。
(けがれている、という見方をはずした?)


つまり、、専門家でない解釈は、、苦しくなっちゃうよ??
(専門家の話は、、楽しくなってくるよ?)
(神学校とかで話を聞いてるのと、ココで、読んでいるのの違い。)
(私目線で。。)



トピズレですよ。

(管理人という、、ナニカ、、をハズシタラ??)
(いま、わたしは、おもいました。)
>>[100]

>この場合、イエスさまなら、なんでもできる、から。

誤りです。
イエス様は主の御心を外すことができない。
だから十字架にかけられたのです。

>(けがれている、という見方をはずした?)

旧約聖書特にレビ記を読んでみてください。
>>[101]


しのぶさんが、やっててください。
m(__)m
>>[102]

わたしは・・・ここまでやった。
あなたは?
>>[103]

それを押しつけないでください。

(と押しつけてみる?)

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