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プロレス大百科コミュの狂犬 ディック・マードック

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テキサス州ワックスハイチ出身。身長186cm、体重120kg。

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動し、ボクシングの心得もあった。ドリー・ファンク・ジュニアとは幼なじみである。

キャリア開始直後はキラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。

1968年2月に日本プロレスに参戦するため初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。

1973年6月国際プロレスに参戦し、同年10月には全日本プロレスにも参戦し、ジャンボ鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。

1980年に新日本プロレスに移籍すると以降常連レスラーとなり、アントニオ猪木や藤波辰巳(現藤波辰爾)らと激闘を展開した。1984年にWWF(現WWE)入りし、同年4月17日にアドリアン・アドニスとのタッグでWWF世界タッグ王座を獲得した。

1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターと「ハード・ライナーズ」を結成した。

晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996年6月15日に心臓麻痺により急死。

日本プロレス・国際プロレス・全日本プロレス・新日本プロレスといった昭和のメジャー団体からFMWなどのインディー団体まで、日本の各プロレス団体を渡り歩いた数少ないプロレスラーの一人。通算来日回数は54回を数え、銀座の裏通りに行きつけの焼き鳥屋を持つほどの日本通となった。

垂直落下式ブレーンバスターやカーフ・ブランディングといった必殺技で日本のプロレス界に与えた影響は大きい。喧嘩っ早い性格である一方で、どこか抜けた所があり、ファンから愛された。ゆるめのレスリングパンツを履いていたので、場外乱闘からリングインする時にうしろから藤波にパンツをつかまれ「半ケツ状態」になるのがお約束のムーブだった。

本気になればNWA世界ヘビー級王座も夢ではないといわれ続けながら、本人はあくまでマイペースな活動を続けた。酒、特にビールをこよなく愛していた。

必殺技 ブレーン・バスター エルボー・ドロップ 子牛の焼印押し

個人的にマードックの顔といえば「歯抜け」の「ギョロ目」をイメージしてしまう。小さい頃 本で彼のことを読んだ時に挿絵に 三歳児の彼が、父、フランキーから凶器の使い方をおしえてもらっているのを見て、すごいやつだと思った記憶がある。

新日時代のファイトしか見たことがなかったなく、馬場、鶴田との試合をテレビで見てみたかったなー。彼らをブレーンバスターで投げつけたのだろうか・・。

そういえば生では彼を見たことがあるなS57年の夏に石川の産業展示館で 藤波とのシングルマッチでメインをはってたなー。そのとき子牛の焼印押しを炸裂させていた。

彼のベスト・バウトは思いだせれないが、ダスティー・ローデス、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニスと、あ マスクド・スーパースターとコンビを組んだ時にすごく魅力的に感じたなー。

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