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滝沢修

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詳細 2015年4月12日 14:47更新

東京都に生まれ、開成中学卒業後、1925年築地小劇場に入り、小山内薫の指導を受ける。1929年、左翼劇場に加わるが、激しい弾圧を受け、1934年に結成された新協劇団に参加する。その第1回公演「夜明け前」での重厚な演技で注目される。

1947年、宇野重吉らと「民衆芸術劇場(現・劇団民藝)」を結成し、1950年からは代表となる。特に「あるセールスマンの死」は名演の誉れが高い。

生涯の当たり役となった画家のゴッホ役も舞台で親しまれ、ライフワークとなった『ゴッホ/炎の人』の公演は83歳を数えるまで続けられた。

1977年に紫綬褒章、1986年に勲三等瑞宝章を受章した。

完全主義、鍛錬…気難しさの中に柔和な笑顔
 民芸の両雄と並び称された滝沢修さんと宇野重吉さんは、剛の滝沢、柔の宇野という印象が強い。軽妙・しゃだつ・気さくな雰囲気の宇野さんに対して、滝沢さんは完全主義・鍛錬・厳しさが付いて回る。実際、役づくりの段階で「ゴッホ(『炎の人』)のやつれた感じを出すために6キロ減量した」などと自己規律のエピソードも多い。
 しかし、滝沢さんも人の子。相当な年まで「1晩にボトル1本は軽い」という酒豪で、若いころは「つめが黄色くなるほどたばこを吸った」という。一見、職人かたぎにありがちな、人を近づけない気難しさがあるが、人前で語らせると意外に軽妙な話しぶりと、柔和な笑顔で周囲を魅了することがよくあった。

 滝沢さんの新珠三千代ファンぶりは有名な話。NHK大河ドラマ「天と地と」で夫婦役で共演したが「滝沢さんを担ぎ出すために新珠さんを妻役にもってきた」といううわさが広まった。それを聞いた滝沢さん、「ハッハッハ。うん、あり得ないことじゃないね。なかなか考えたな」とニコニコ笑っていたという。

 少年時代は画家志望だけあって、趣味の油絵とカメラの腕前は相当なもの。「炎の人」の舞台で使うひまわりの絵を自らかいたこともある。カメラは公演パンフレットに載せる写真を一手に引き受け、けいこ場で撮りまくっていた。写真家の秋山庄太郎氏から「プロで十分に通用する」とほめられたこともあったという。

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開設日
2006年11月12日

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カテゴリ
学問、研究