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日記ロワイアルコミュのこの国で救われているのは『弱者』ではない。

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僕は駅員をやっているのだけど、毎日駅に寄せられる苦情には、若者のマナーの悪さについて指摘されているものがとても多い。曰く、「わいわいうるさい」とか「車内で携帯電話で話している」とか「車内で化粧をしている」いったもので枚挙に暇がない。こういった苦情は本当に毎日のように駅に寄せられる。きっとうちだけではなく、日本中の駅員に寄せられているだろう。そして日本中の駅員は酒におぼれ、しかしながら翌日の呼気検査でアルコールが検出されないレベルにとどめておかなければならないから、あんまりたくさんは飲めないだろう。


日本では「若者はマナーが悪い」というのが当たり前のイメージとしてある。


では駅で勤務する側の人間として、このイメージの真偽について考えてみるとどうなのかというと、たしかに電車の中で騒いでいる若者もいるし、携帯電話で通話している若者が一人もいないとは言わない。だからマナーが悪い若者がいることは間違いない。でも僕はここで声を大にして言いたい。文字を大にして言いたい。


年寄りのマナーの悪さはその遙か上を行っています。


これはもう、本当にひどい。火を見るよりも明らかだ。むちゃくちゃだ。絶対王政だ。ナチズムだ。和田アキ子だ。ババア8人が植物園に行くと盛り上がって、まず手始めに電車の入り口前で屯して点呼を始めるので「そこで立ち止まられると他のお客様が乗れませんので空けてくださーい」と頼んでも聴かない。乗り込んだら乗り込んだで当たり前の顔で空席に荷物を置いて、まだ電車に乗ってこない連れに車内から電話連絡をする。鞄を空けて取り出した臭いナニカを食い始め、臭気が車内に充満する。その間ずっと、大声でババア8人はフルスロットルの大盤振る舞いでしゃべり続けている。
エスカレーターで左を空けない(関西ではエスカレーターは右で立ち止まり左を空けるのがマナー)。駆け込み乗車・・・といっても全然スピードが出ていないので当然間に合わず、間に合わない者を待っても仕方ないのでドアを閉めるとぶつくさ文句を言う。ゴミを車内に留置する、車内に忘れ物をしたと言ってキレる。駅のホームで煙草を吸う。市立病院の最寄り駅を経由する電車の中では、電話相手に血圧の話、うんこが出る出ないの話、どこぞの誰かの寿命がもうダメな話、あの人は早く死んだ方がいいのに死んでない話、嘔吐した話、嘔吐物を踏んだ話、遺産の話。下品な話を大声で叫び続ける。

まだまだいくらでも例を挙げることはできる。本当に年寄り連中はやりたい放題である。これにくらべれば若者は可愛いものである。

そしてなによりも、若者と年寄りの一番の違いは、若者は「注意すれば聴く」のに対して年寄りは「注意しても聴かない」あるいは「注意するとキレる」ことにある。

例えば車内で電話で話している若者に近づき、「すみません、車内での通話はご遠慮ください」と言うと「あ、すみませーん」と言ってその場で電話を切る人が大半であるけれど、ババアに同じことを言うと「すぐ終わるから。大事な電話だから」と言い返す、あるいは「こんな老人にばっかり注意して、ヤクザにも同じこと言えるんか!」とキレる。

うちの沿線には大学がいくつかあるので、学生の乗客も多いのだけれど、駅のホームでは彼ら彼女らの存在がありがたいときさえある。特に近隣施設でイベントがあり、初めて利用する乗客が増えるようなとき、彼ら彼女らがいつも通り足もとの丸印と白線に沿って整列乗車してくれることで、初見の乗客も自然とその列に参加してくれるのだ。それなのにそんな中、脇にきちんとした立派な長い列ができているというのに、降車のお客さんの邪魔になるよっていう場所で仁王立ちになって、誰よりも早く乗車して空席を確保しよう、そのためなら、死ねるっ!と目論んでいるのが年寄りである。近づいて「列に並んでください」と促しても結局無視か逆ギレと相場は決まっている。

最近は敬老用のIC乗車券が市から付与されているけれど、いつまで経っても使い方を覚えない。もちろん使い方が覚えられないだけなら別に仕方ないけれど、たとえばICカードにチャージをするようなとき、ぬっと窓口に現れて無言でカードとしわくちゃの紙幣を乱暴に叩き置いて中空を眺めている。あれ?死んだのかな?死んだら死んだでまあいいやと思って無視。業務を続けていると「ちょっと、これやりなさいよ!」と怒ってくるので「そちらに機械があるのでご自分でお願いします」と突き放せば「やり方がわからない」と言うてくるから「ではお教えしますが、係員がいない駅もございますのでこれからは自分でできるようになってください」と言えば「これぐらいやってくれてもいいじゃない。簡単なことでしょ!」と皮肉を言うてくるので「簡単なことなので自分でできるようになってください」と皮肉を返す。こんなことが日常茶飯事なのである。

少し前、テレビが優先座席について取り上げていた。「若者が優先座席を譲ってくれない」というテーマで進む大変胸糞悪い番組だった。そういえば「胸糞」ってなんなんだろね。胸に誰かの糞ついてたら・・・



悲しいよね。



まぁいいや。その番組の最後に「若者サイドの意見」というものがあって、そこには「席を譲ると『年寄り扱いか!』と言ってキレられる」というものがあった。本当にそうだ。席の譲り合いは電車やバスに置いて永遠のテーマであるとは思うけれど、一言で言えば「譲る側のマナーもあるなら、譲られる側のマナーだってあるべきだ」と思う。「譲られたら座る」、「ありがとうくらいは言う」、そんな当たり前のことができないのに、権利ばかり主張している。

さて、駅員から見ると、このように年寄りのマナーの方がよほど悪い。それなのになぜ「若者のマナーが悪い」ということが公然の事実になっているのだろうか。若者でさえも自分たちのマナーが悪いと自覚してしまっているのだろうか。これはとても簡単なことだ。


「苦情を寄せるのは、いつだって年寄りだから」である。


マナーの悪い年寄りについて苦情を言ってくる若者はいない。けれどマナーの悪い若者についてはたくさんの年寄りが食いついて、自分たちの権利を侵害されたかのような顔で激怒し、進撃し、我々に抗議してくる。実際に起きているマナー違反の数は数えることができない。数えることができるのは「寄せられた意見の数」だ。

意見の数だけを数えれば「若者のマナー違反を指摘する声」が圧倒的に多い。それが積み重なって歳月を経ると、なんと『常識』と化す。こうなれば年寄りの勝ちである。


少し前、生活保護の不正受給について問題になった。一般社会で立派に社会人を生きていらっしゃる方々からすれば、働きもしないで多額の金をもらって、どうなってるんだこの制度は、誰やお前は、と憤懣やるかたないことであろう。もちろんなにかしらの理由があって働けなかったりして、でもお金がなければ死んでしまう弱者もいる。だから生活保護というシステムはなくしてはいけないものだとも思う。けれど、その制度を悪用して不正に受給している人がいるということについてはどう考えてもおかしい。なんでこうなったんだ、チェックしている人はいないのか、神はいないのか、みんな怒っていた。そりゃそうだろうと思う。


でも、そもそも、この国で救われているのは『弱者』ではない。


『声のデカい人』である。


働きたくなくて、でもお金が欲しいという人は、仕事を探すよりも役所に詰めよる。毎日毎日役所の窓口で「殺す気かー!殺す気かー!」と叫んで喚いている。窓口サイドからすればたまったもんじゃない。やだなー、あの人がこんようになるにはどうしたらええかなーと考える。加えて窓口で大声を上げる人は徐々に有志を募り、そんな時間があれば働けばいいのに、そちらに情熱を注ぐことなく、団結し、団体名をつけて、様々なやり方で「弱者救済」の旗の下、窓口に詰め寄ってくる。「うわぁ、増えているよぅ、やだよこわいよ」、窓口の人間は怯える。当然だ。

そして、泣く泣くイヤイヤ救済のシステムが組まれるのだけど、ではその間大多数の「一般的社会人」はなにをしているかというと、それは「ちゃんと働いている」のだ。もう少し言うと「ちゃんと働いているだけ」なのだ。弱者会の連中が役所で大声上げて抗議しているその間、一般的社会人は黙々ときちんと働いている。えらいぞ、立派だぞ。

手のかかる子供の相手をしている間、隣の部屋でおとなしく遊んでいる子供、まさにそれが一般的社会人の皆さんなんだと思う。だから、別に誰も救ってくれない。「大丈夫?」と聴かれて「まぁ大丈夫です」と答えて終わり。お母さんはぎゃんぎゃん泣き続ける子供の相手で手一杯だ。

在日外国人の参政権がどうのこうの、消費税増税がどうのこうの、一見「それっておかしくない?」と思われる政策が「是」に向けてどんどん進んでいくのには理由があって、それは「きちんと役所の窓口前で大声上げて暴れたから」だと思う。一般的社会人がきちんと黙々としている間、弱者会は一生懸命「大声を上げる努力」を、たゆまぬ努力を繰り返してきた。役所が意識するのは当然後者であり、後者のための制度がドンドンできあがっていくのである。

この国は、窓口前の騒ぎを収束させるために動いている。低所得者だろうが経団連だろうが東電だろうが、窓口で暴れられたら困るから、それを黙らせるために様々な施策を講じているのである。だから、自分たちに都合のいいような社会にしたかったら、毎朝きちんと会社に行って、きちんと仕事して、きちんと終電で帰っている場合ではない。窓口の前で暴れないとダメだよ。

と考えてみて気付いたのは、最近は一般的社会人や芸能人なんかも、きちんと首相官邸前で大声上げて騒いでいるなぁということ。えらいぞ、がんばれ、負けるな、と思うのだけれど、でもなーって感じることもある。

原子力発電所について、僕は語る口を持たない。それこそ「あんなデカい建物がないと発電ができないというのは、なんだか前近代的でダサいな。Back to the Future 2ばりに、ゴミで発電するとか、子供が笑う度に発電するとか、世界中の人たちがセックスをする度に発電するとか、努力が実る度に発電するとか、そんな発電システムがあったらオシャレだし幸せだな」と思う程度である。それに僕には子供がいないので未来を心配できる相手がいない。最近恋人ができたのだけど、やはり子を持つ親ほど未来を気にしてはいない。自分が生きて死ぬまでの間、日本が壊れなければそれでいいと思っている。その点、子供さんのいる方は当然心配なんだろうなと思う。そのために「今自分ができること」として、原子力発電所の撤廃を国のトップである内閣総理大臣の家の前で「大きな声で叫ぶ」というのは、まぁいいことなのだろうと思う。さっきも言ったとおり、この国で救われるのは「大声を出した人」なのだから。

だけど、僕はやっぱり無理だろうと思っている。原発の停止。それは別段識者ぶった意見ではなく、なんとなくの実感としてである。

昨年の3月11日まで、ずっと大人しくしていた人たちが、今ようやく団結して声を上げている。それはとても大きな変化だ。この動きがなにかを変えるかもしれない。それは思う。そうだとは思う。

けれど。

圧倒的に「時間が短い」と思うのだ。原発を巡る利権というものがあるとして、その恩恵を受けている人はきっと、原発が日本に完成したときから用意周到にずっと声を上げ続けている。「原発を動かし続けてくださいよ、頼みますよ、そうしてくれないと窓口の前で暴れますよ」と言い続けている。そこには「歴史」がある。それに相対する「反原発」の動きにはあまりにも「歴史」がない。そして「歴史」だけではない。「根回し」も足りないではないだろうか。自分の中の衝動、子供達を守りたいという意志を否定するようなつもりはまったくない。僕なんかが否定するようなことではない。しかし、なにかを変えるためには「大声」に加えて「歴史」と「根回し」も大事なファクタであると僕は思うのだ。

窓口の前で大声を出しても、その日のうちに救ってはもらえない。毎日毎日窓口に詰め寄って大声を上げる。その「歴史」が必要で、さらには窓口の奥にいる責任者に対してもアクションを起こす「根回し」や、周囲の人たちから同情を獲得する「根回し」も必要だろう。

「大声」だけではなく「歴史」と「根回し」、これがそろって初めて役所は「もうイヤだ」になって救ってくれる。けれど、今の反原発運動にはこのふたつが足りないと思うのだ。最近、新政党として反原発を掲げる『緑の党』を立ち上げるというニュースを見た。しかし緑の党ができたらすぐになにかが変わるかと言えば、それはないと思う。そもそも『緑の党』というのはオーストラリアで1970年代に反原発を始め、自然保護運動を支持し推進するために結成された政党である。「1970年代」。これは原子力発電所が広がり始めてすぐ、アレルギー反応のように生まれた動きだと思う。この動きは40年かけて、ドイツ、スウェーデン、フィンランド、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、ポーランド、チェコ、ロシアへと広がっていった。今では当然役所の窓口が無視できない規模の運動になっている。

日本はどうか、原発ができてすぐに反原発の政党ができたかというと、きっとそうではないだろう。そうではないまま、40年近く、みんなきちんと黙々と社会に参加して、大声を上げることなく、唯々諾々と原子力発電所の電気を使って生きてきたんじゃないかと思う。それなのに、「今すぐ原子力発電所を止めろ」と言ったって、やはり「歴史」、それの持つ「重厚さ」が足りない。そして「歴史」は「根回し」を生む。長い長い歴史の中で、周到な「根回し」が誰にも見つからないように確立されていくはずだ。

だから僕は、今の子供達に原子力発電所を残さない未来なんて無理だと思っている。子供達が受け取るのはたぶん「反原発の旗」だと思う。反原発を実現するための、「歴史のバトン」、「反原発運動のノウハウ」だと思う。そして子供達も「反原発」のために大きな声を上げ続ける。そして子供達の子供達、つまり「孫たち」の代でようやく「日本での原子力発電所が0%」が実現するじゃないかと思っている。まぁ深刻な事故が起きたのがたった1年半前で、そのとき初めてみんなが気付いたのだから、「歴史」は仕方ないとして、そして「歴史」に付随する「根回し」も仕方ないのだろう。そもそも僕は今の反原発運動を批判する気もその口もない。今の運動がいつか必ず結実するだろうしそうなればいいなと思う。僕もいつか結婚して子供ができたとき、同じように運動に参加するかもしれない。今の運動がなければ何も変わらないだろうという想いもある。本当にそう思う。

ただし、最近のその反原発抗議運動の中でこんな話を聞く。

デモ行進が終わったあとのゴミのポイ捨てがひどい、親とはぐれて泣いている子供を放置する、歩き煙草をしている人が多い、賛同しなければ非国民のようになじられる、そんな声も聴く。これだけは間違っていると思う。これでは「周囲から同情を獲得する」という「根回し」が全然足りないどころか、反感を買うだけ、揚げ足をとられるだけじゃないかと感じる。

僕個人はこう思う。


元をたどれば、あのマナーの悪いババアが「財布を落とした、届けられていなければ駅員が盗んだとしか考えられないからお前を提訴する」なんて言うてきたから腹が立って、気付けば原発問題まで考えてしまった。

オレ、なんたるアカデミック。

コメント(219)

結局、声のデカい人にはかなわないですよね。分かる分かる。

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ジシババ、ほんまにムカつくやつ多い。一票
途中に出てくる発電システムに感動しました

一票

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