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日記ロワイアルコミュのほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を「好き・嫌い」で分けなくなったということがある。もう少し正確に言うと、ほとんどの事に「嫌い」を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて「まずい」とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで「おもしろくない」とも言わなくなってきた。

なんかもう、どうでもいいじゃないかという気持ち、これである。

僕ごときがなにかについて「嫌い」とか「面白くない」とか「まずい」などと言ってそれを日記に書いて、ボイスとそれに連携したTwitterに呟いて、誰の得になるだろう、誰が幸せになるだろうと思い始めたのである。それこそ若い時分は尖っていたし「アンチであることのソークール」みたいなところにしがみつき「わはははは、お前達は全然なにもわかってない、あんなものはクソだよ。あの監督の作品は初期なんだよ、ショキがよいんだよ」などと喚いてほたえていた時期もあった。恥ずかしいがあった。しかし最近はすっかり年老いて年齢もたしか72歳ぐらいである。そういうアンチに燃える体力がもう既にない。そういうことに頭を使うと翌朝の疲労が途轍もなく、歯磨きのときに嘔吐しちゃいそうになるのである。

元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、「オレの日記、面白いでっしゃろ」と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。

僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを「嫌い」と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を血眼になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもうしんどい。すんごいしんどい。そして相手が「わわわ、わかったわかった、私も嫌うからもう許してください」と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに「幸せ」なんぞ存在しない。

一方、「好き」を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の「好き」が深まるのだからある意味でフェールセーフな作業なのである。

それに例えば映画を見て、本を読んで、それを「面白くない」と言う人と「面白い」と言う人がいたときどうだろう。どっちが「勝ち」だろう。勝ち負けじゃないとしたらどっちが「幸せ」だろう。

結局、「面白くない派」は一生「面白い派」に勝てないんだろうな。

子供向けの映画を見たとき、「これは単なる子供だましだ」と言う人と、一緒になって泣ける人がいたら、少なくとも後者の方が「得」だろう。だって、僕たち一般人間が、誰に頼まれているわけでもないのに声高に「あんなものは子供だましだ」と叫んだとして、誰が得するだろうか、そいつはなにか得をするだろうか。

僕たちの声は別に誰に届くわけでもないし、ある作品をネガティブに批評したって誰も得しない。「批判」というのはきっと「批判している自分に何かしらの価値があって、それを評価してくれる存在がいる」と信じている人が行う作業なのだと思うけど、特に映画や文学作品をオレやお前ごときが「批判」したところで得をする人はきっといない。

というと「質の悪い作品を見せられて『これはいいものだ』と洗脳されて、それを唯々諾々と受け入れるのか、お前はアホか低脳か」だとか、「押しつけられた価値観ではなく自分で考える力が必要である」だとか言う人もいるが──まぁ別にそれでもいいけれど──そういう人は「押しつけられた質の悪いものを、悪いと言える力が必要」ということを言いたいようだけれど、「質が悪い」という判断自体がもう全然主観的だし、下手すれば「ハリウッドだからダメ」的なことも言いかねないし、「押しつけられるのがイヤだって言っても、だってもうしょうがないじゃないかー」とえなり風に思う。そんなに押しつけられたくなかったら自分で海外に映画を仕入れに行くとか、国内でくすぶってる若手監督を探して出資するとかすればいいのに、結局そういうことはしないわけで、じゃあもう「押しつけられる環境」に別に文句言うなよーどうしょーもねーなおめーはと思うし、そもそも、「押しつけられ」ようが、「質がわる」かろうが、それでも尚、そんな環境においても尚、「面白い部分を探せる」ヤツこそが最強だと思うのである。

「自分で考える力」というのは「批判する力」だけではない。無価値だとされているものから価値を見いだす能力だって「自分で考える力」だろうし、そっちの方が救いようがあるんじゃなかろうか。

質の悪い物からもいいところを見出す、押しつけられた物にさえ「ありがとう」が言える、いいじゃないか、かっこいいじゃないか。


と僕は考える。


なんにでも感動する人間を薄っぺらくみなす風潮があるように思う。こだわってなかなか高評価を下さない人間が「深くまで考えている」ように見える流れがあると思う。しかし本当にそうだろうか。一冊の本を読んだとき、それを「面白い」と言う人と「面白くない」と言う人、どちらが「読み込めている」だろうか。そもそも「どちらが深くまで読み込めているか」なんて客観的に測定することはできないから、「どちらが読み込めているように見える」だろうか。これって結局「どちらが楽しんでいるだろうか」ってことじゃないかした、そしてそうなったらもうこれはもちろん前者であろう。

要するに、僕が一冊の本を読んで「全然おもんなかったわぁ」と言った隣で「めーっちゃ面白かった!」と言ってる人がいたとき、僕がするべき事は「あんなんのなにがおもろいねん!はげぇ!はげとるぞ、お前はぁっ!」とケンカをふっかけることではなくて「マジで?どういうとこが面白かったんかちょっと聴かせてくれないか?」と自分に欠けている情報、自分が読み込め切れなかった幸せを「補完」することじゃないだろうか。

それが対子供であったって同じ事である。ついうっかり「子供だまし」と思ってしまっても、子供が「面白かった!」と言うのであれば、「どういうところがよかったのか」を聞くのがきっと幸せな姿勢なんだと思う。

食事についてもそうである。この時代に「まずい料理」なんてものに出会うことはあまりないだろう。「不味い」とは「味にあらず」、「味ではない」という意味であるけれど、そんなメシ、なかなか食う機会がない、そんなメシを食える機会に恵まれないのが現実である。食えたときは、むしろ「笑い話」として人々に共有したくなるだろう。つまり「まずい料理」はラッキーチャンスなのである。それ以外の中途半端なものは、どれだけ妥協して評してみてもせいぜい「普通」レベルだろう。

以上長々と書いてきたが、要するに、ほとんどのことはどうでもいいことである。そして、自分の評価というものは、別に世界を変えられるわけではない。

だから、もう僕は「好き/嫌い」ではなく「好き」か「めっちゃ好き」。「美味い/不味い」ではなく、「美味い」か「めっちゃ美味い」、「面白い/面白くない」ではなく、「面白い」か「めっちゃ面白い」で物事を捉えていて、現在とても幸せである。

願わくば世界中の全ての人が「おもしろくない」と言うものについてさえも、おもしろさを見つけられるような、そんな人間になりたい。というか「世界中の全ての人が『面白くない』と言っている」ということがもう既に面白いじゃないか。だはは。

芸術家、インテリ、ロックンロールベイベーを気取って世界になんの功績も残していないくせにやたらめったらアンチテーゼを垂れ流しては自己満足に浸っていた頃の閉塞疲弊感を肩からおろしてみると、ほとんどのことはどうでもいいことであるとわかった。

そんな話でおました。

ハヴァ・ナイス・週末。いぇい。

コメント(114)

一票
ではなく、めっちゃ一票。いぇい。
一票。その通りだと思います。みんなそんな風に物事捉えればいいんですけどねウッシッシ

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