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日記ロワイアルコミュのばあちゃんの深み。

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2011年、齢九十四になるばあちゃんの話がいちいち面白く、また含蓄があって飽きない。

考えようによっては、九十四の老婆になら、もはや何を喋らせても面白いし、全てが深いのかも知らんが、だとすれば尚更、彼女が九十四まで生きていてくれたお陰で、こんな楽しい話を聞かせてもらえるわけだから、輪をかけて感謝したい。わっしょい。

ばあちゃんは今、週に2日、デイケアサービスに通っていて、そこでは毎回趣向を凝らした催し物が行われるのだけど、趣向を凝らしているのは飽くまでスタッフサイドであり、少なくともうちのばあちゃんに限っては、そういった類いが大嫌いで、催し物への愚痴、罵詈雑言を吐かせたら1時間、簡単につぶすことも可能である。

ある日、そんな気乗りのしない催し物に際して、年齢別にチーム分けをする必要があったため、年を訊かれたばあちゃんは、堂々と「七十歳」と答え、表情ひとつ変えなかったという。

うちのばあちゃんは、そのデイケアサービスセンター内でも最高齢であり、齢九十を超えていることは周知の事実、なんなら「90歳を超えて、体の中で悪いのが膝だけっていうのがスゴい」と驚かれるほど心身ともに元気な、ある種のアイドルなのだけど、当の本人はそーゆーことではなく、女として、おもっきりサバを読んだのだという。

バレバレの嘘を、一切の躊躇いもなくついたという豪胆さ、サバを読むにあたり、一気に20歳もいったるという勇気、20歳もサバを読んだのにまだ70歳だという凄まじい事実、僕はばあちゃんの色々に感動し、無表情でそんな話を聞かせてくれるばあちゃんに「オレが20歳もサバ読んだら10歳や」と言うたところ、「あんたはまだいいわ、若いから」と不服そうな顔をして、テレビに目を向けたから、余計面白かった。

30歳の人が、22歳の人に「君はまだ若いから良いよ」と言うような、そんな感じで、そんなノリで、そんな顔で、94歳の人が、30歳に言うているのである。

そんなばあちゃんは、客間に置いてある仏壇に、毎日朝晩、念仏を唱えている。毎日朝晩、欠かさずである。これを我が家では『お勤め』と称している。
実家に帰ると、僕はいつも客間に寝泊まりするので、ばあちゃんのお勤めと遭遇することも多く、その時は隣に座らせてもらって手を合わせるのだけど、過日、手を合わせ終えたあと、なんとなくばあちゃんに「いつも何をお願いしてるの?」と尋ねてみたら、ばあちゃんが完全に停止した。

あ、死んだ、と思った。

少しして、ばあちゃんは「あんた、何を言うの?」と、心底信じられないもの、UMAを見ているような目で問いかけてきた。 そしてばあちゃんは、僕にこう言った。


「お願いなんてしとりゃせんよ、感謝をしとるんよ」


朝は「今日も新しい一日を迎えることができました、ありがとうございます」、夜は「今日も一日、無事過ごすことができました、ありがとうございます」と言うているのだそうだ。

「そうなんや、てっきり『見守ってください』とか『みんな元気に過ごせるように』みたいなこと言うてるんかと思ってた」と言うと、「そんなこと、おじいさんに言うても仕方ないが」とだけ、ばあちゃんは言ったから、僕はハッとして、なるほどなーと思って、「そうか、じいちゃんやもんなぁ」と返すとばあちゃんは「ザッツライト」的な顔になっていた。

僕は愕然、悄然とした。自分史におけるコペルニクス的転回かもしれないと思った、ウソ。「コペルニクス的転回」という単語を使ってみたかっただけ。コペルニクス的転回はウソだけど、でもびっくりした。

毎日念仏を唱えるくらいだから、何かを願っているのだと思ったら、願っているのではなく、感謝していると言う。
つまり、念仏に「お願い」を載せてそれに対する『効果』を仏壇に求めているのではなく、むしろ「生きている」という『効果』が先にあり、そのことについて、念仏に載せて「感謝」を返しているのだ。先攻と後攻が逆だったのである。

ばあちゃんは、仏壇の向こう側に、なんの期待も願いもしていない。それなのに仏壇の向こう側からの行為を勝手に創造して、それに感謝している。何も願わず、何も期待せず、それでも今生きているのは、仏壇の向こうのお陰だと感謝する。

「なぜ願わないのか?」と訊くと「おじいさんにお願いしたって仕方ない」と、死んだ爺さんを生前のままのスケールで認識し、つまり、爺さんごときに「救う」も「見守る」もできるわけがない、あの人にできるのは庭いじりとお茶を点てることぐらいだと、ばあちゃんは判断しているのである。

いつもなにかにつけて都合よく、行く末の願いや祈り、具体的には「お金ください」とか「こないだのテストやってしまったので、そちら側でなにとぞ」とか「空を飛びたい」といった投資的未来像ばかり仏壇にぶちまけていた僕の隣で、ただ純粋に、現在までの自分の来し方を振り返り、毎日欠かさずひたすら感謝しているばあちゃん、それは美しく、「何をお願いしてるの?」と訊いたときの、あの純度100%の「何を言われたのかわからない」という顔、一点の曇りもない表情を浮かべる94歳を前に、僕は思った。

こら勝てねーわって。

ばあちゃんは、毎回僕が実家を去る際に「あんたと会えるのも、もうこれで最後だ」と言う。もちろん僕は「それ言うのは、何回目だ」と返すけれど、でも94歳である。
年々、ない話ではなくなってきている。

ばあちゃんはきっと近いうちに死ぬだろう。来年かもしらんし、5年後かもしらんけど、30年は生きられるわけがないし、今からさらにそんなに生きさせるのもなんだか可哀想な気がする。

つまり、ばあちゃんは「人生をきちんと生きてきた人」なのである。生きたくても生きられなかった人もいるし、死にたくて死んでいった人もいる。優劣の話ではなくて、これは純粋な事実として、ばあちゃんはそのどちらとも違い、まぁ「生きた人」なのである。ばあちゃんが死んだら悲しい。みんな泣くだろう。でも、ばあちゃんはきっとそう遠くない未来、死ぬだろう。 周りから、当然のようにそう思われていることはある意味悲しいが、凄まじさも、そこにはあるような気がする。自他共に認める「全部を生きた人」なのである。

全てを乗り越えて、全てを終わらせて、本当に、字義通りの「余生」を送るばあちゃん。

そしてその尊い姿。今、まさにこの日記を書いている僕の場所から、連結する隣の部屋で、ばあちゃんは今、『暴れん坊将軍』を見ていて、襖が開け放してあるので、僕から、その尊い存在であるところのばあちゃんの姿は丸見えなのだけど、こういう日記を書いていたから、すこし感慨深い気持ちになってきて、だからばあちゃんをなんとなくジッと見ていたら、ばあちゃんはばあちゃんで、なんか急にこっちを見てきて、それがけっこう、グイグイの眼力で見てくる。
たしかに先に見たのはこっちやけど、あれ、ばあちゃん、あれ? え? なんか…なんか、めっちゃこっち見てきてへん? あれ? なんで?  どして?

つって、たっぷり1分は見つめ合い、ようやく我慢できなくなった僕が「どしたん?」と訊いたら、「あんた悪いんだが、その、携帯電話でパチパチするのが終わったらでいいから、おじいさんに挨拶させてもらっていいかな? 毎日しとるもんで」っつって、ばあちゃんが、至極申し訳なさそうに言うてきた。

僕は「いやいやいやいや、ごめんごめんごめんごめん、全然やって、全然やって、こんなんどうでもいいから、やってやって」と謝って、そしたらばあちゃんは笑顔満開になって、でも膝が悪いからゆ〜っくり今、こっちの部屋に入ってきて、仏壇を開いて、そろそろ毎日恒例の「感謝」に満ちあふれた静かなお勤めが始まりそうだから、こんな下らない日記はおしまいである。

僕も隣に座らせてもらおう。そして『感謝』を送ろう。
じいちゃんだけじゃなく、僕の隣で静かに生きているばあちゃんにも送ろう。

コメント(156)

1票 気持ちいいですね、凛とした昔の日本人がいる
そんなおばあちゃんになりたい。
一票です。

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