日記ロワイアルコミュの【商品レビュー】ウッディ犬舎　AWK-610　ダークブラウン

夏の日、月の綺麗な夜だった。

俺はいつものように、アコースティックギターを背負って、駅に向かっていた。高架下で路上ライブをするためだ。

ミュージシャンになると決意して１８才で上京したものの、チャンスの欠片すら見つけられずに８年。今ではギターに触れている時間も減り、滞納した家賃を払うためのアルバイトばかりに時間を費やしている。

「２５までに芽が出なかったら帰るからさ」

父に言った手前、どの面下げて帰ればいいのかも分からず、うだつの上がらない日々を過ごしていた。猶予期間はもうとっくに過ぎている。俺は、１週間を生きてしまった蝉と同じように、今の生活が崩れるその時を、ただ待っているだけなのかもしれない。

そんな俺がミュージシャンになるための最後の悪あがきとして続けているのが、週に一度の路上ライブだ。毎週金曜の夜、高架下の“俺の場所”にあぐらをかいて、客を待つ。

がちゃがちゃとギターをかき鳴らせど、行き交う人々はこちらに目をくれようともしない。そりゃそうだ、一週間の激務が終わり、早く家に帰りたい一心なのだろう。

そんな大衆の中に、死にかけの蝉に興味を持つ人間がいるなんて最初っから思っていない。思っていないのに、この時間に、この場所に来てしまう俺はなんなんだ。哀れな蝉の習性か。

終電の時刻まで、あと１時間。

この時間帯になると、また客層は変わってくる。頬が紅潮し、吐息は臭く、ふらふらとした足取りの人間が増えるのだ。酒は人の理性を狂わせる。ＮＯしか言わない人間が、酒を飲んだことによりＹＥＳと言い出す可能性だってある。俺の音楽もまた然りだ。

自作曲の合間に、一昔前に流行ったような洋楽のカヴァーを交ぜて演奏しているときだった。ペンキまみれのニッカを履いた、職人風の小汚いおっさんが、俺の前で歩を止め、酒気を帯びた声で話しかけてきた。

「懐かしい曲だな。もっと聴かせてくれ」

酔っぱらいだろうがしらふだろうが、瀟洒な人間だろうが小汚い人間だろうが俺の音楽を認めてくれた事に変わりはない。俺はすっかり心を許し、音楽の話から身の上話まで、べらべらと喋り始めた。今夜はとても気分が良い。

音楽はもう諦め、本来なら実家に帰らなければいけない自分を蝉に喩えて話し始めたときだった。おっさんが顔つきをがらりと変え、俺にかみついた。

「なにが１週間生きた蝉だ。お前はまだ卵か、土ン中にいる幼虫だ。まずは、地上へ出て、羽化してみろ。がちゃがちゃ鳴くのはその後だ」

ハッとした。考え方を少し変えただけで、俺の心にあった負荷は一気に軽くなった。まあ、完全な解決ではなく問題が少し先送りになっただけなのだが。

「あ、ありがとうございます」

自然と言葉が出た。

「いいってことよ。まあ、手に職付けてたはずがクビんなって、ピーピー言ってるおっさんの戯れ言だからよ、礼なんかいいんだよ。そんなことよりもよ、俺に、ちょっとそれ貸してくんねえか？　なんかよう、俺も今なら人の為になる良い仕事ができるような気がするんだ」

言って、おっさんは俺のギターを取り上げ、自分のかばんから調音に使うような何かを取り出した。

「さまになってるだろ？　俺は昔から何をやらせても器用な方だったんだ」

８年間、毎日触っていたギターは「こんな音も出せるのか」と思うくらいに、全く聴いたことの無い音を奏で始めた。その音は駅構内に響き渡り、おっさんの周りをオーディエンスが取り囲み始めた。最前列にいたはずの俺はいつのまにか押し出されて、輪の外に出てきてしまった。

そこでふと、遠くに目をやると、駅前広場に植えられた針葉樹から一匹の蝉が飛び立ったのが分かった。

「俺もあんなふうに飛べるかな」

蝉を目で追いかけると、まんまるな月が視界に飛び込んできた。
今夜、俺の中で何かが変わった気がした。

３０分後、俺のギターはおっさんの巧の技で、犬小屋に仕立て上げられていた。