ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日記ロワイアルコミュの甘党のかじるクッキーの音

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「君の絵を描かせてくれないかな」

 彼に声をかけられたのは、ある夏の昼間のことだった。田舎の丘の道の上で、路上画家が手招きをしていた。
 何かの物語に巻き込まれたような心地がした。
 大きな木の下に置かれた小さな椅子に腰掛けると、彼は赤ちゃんかお年寄りのように目を細くして私に笑いかけた。

「ありがとう。もし君に断られていたら、もうぼくは知らない人に声をかけることができなくなっていたかもしれない」

 彼は私と画板を見比べながら、左手でするすると鉛筆を走らせた。
 彼が鉛筆を置いて筆を取り、右手にパレットを持つまでの間、気づけば私は彼に自分のことをいくつも話していた。

 ヨシノという名前であること、最近この町に引っ越してきたこと、リチという白猫を飼っていること、近所の商店街に買いものに行き帰る途中であったこと。

 彼はなにか聞くたびに面白がり、また次の質問をした。私は一つずつ答えながら、そのたび彼の頭に入っていく私の情報が、いま描かれている絵にどんな色を落とすのだろうかと夢想した。

 もしいつか誰かに断られたとしても、人に声をかけること、やめないほうが素敵だと思う。

 私がそう言うと、彼はこそばゆいように笑って分かった、と返した。

 彼は色付けの作業に入ってしばらくすると、手を止めて、私のほうを見て不意に謝った。

「ごめん。いま完成させるつもりだったけれど、思ったよりぼくは筆が遅いようだ。もし良かったら、明日またここに来てくれないかな。その時にはきっと、完成した絵を見せるから」

 私は了承した。
 立ち上がって、でも少しだけ見せて、と覗き込むと、彼はまだいけないと首を振って絵を抱き込んだ。

 次の日は朝から雨が降っていた。
 この天気の中で彼が昨日の場所にいる確信は持てなかったが、リチに彼はいるかしらと聞くとニャアと鳴いたので行ってみることにした。

 木陰には昨日設置されていた椅子も画板もなく、代わりに傘を差している彼が居た。

「来てくれてありがとう。それなのにぼくは約束を破ってしまった。絵は完成したけれど、雨に濡らしたくなくて、持ってこれなかったんだ」

 絵を見られないのは残念だったが、私を描いた絵を大事にしてくれているのは嬉しかった。仕方ないと宥めたが、彼はまだ申し訳なさそうに俯いていた。

 それから雨宿りの場所を求め、私たちはどちらからともなく歩き始めた。やがて近所の商店街に辿り着くと、アーケードの下で濡れた傘を畳んで、二人とも歩調を緩めた。

「ヨシノは前はどんな町に住んでいたの。尊敬する人は。一番好きなことは。将来の夢は何だい」

「そんなに一度に訊かれると答えられない」

「そうか。つい。だって、ねえ、ヨシノはゆかしい人だと誰かに言われたことはないかしら」

「初めて言われた」

 商店街を中ほどまで歩いたとき、私たちの前を白猫が横切った。リチだ。リチは私が家を出た後で散歩に出るとき、私の来た道を辿ってきてくれることが時々ある。だからこうして出先でばったりと出会うことも、昔から間々あった。
 私がリチ、と呼ぶと、彼女は振り返ってナーオと鳴いた。私の猫なのだと彼に話そうとしたとき、彼の表情の変化に驚いた。

 さっきまでただ楽しそうだった彼は、唇をわなわなと震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「どうしたの」

「いや、えっと、ああの」

 歯切れの悪い彼の返事にも察しがつかず心配でいると、「ヨシノ、笑わないでね」と前置きして、溜め息をついて彼は告げた。

「ぼくは、あの猫が好きだ」

 あの猫、とはリチのことだろうけど。
 一大告白のように言われても、私にはいまいち真意が飲み込めなくて、そうか、としか言えなかった。
 それは、リチも喜ぶと思う。と付け加えると、彼はそうかな、と縋る目で私に訊ねた。
 彼なりの冗談なのかとも少し思ったが、どうやらそうではないようだ。
 うん、きっと、と答えて、また歩き出そうとすると
「待って、ヨシノ。良かったら、少し時間をくれないかな」
と、彼はフルーツパーラーを指差した。

 店内はまばらに賑わっていた。
 彼は店主らしき人と知り合いのようで、入るなり面白そうに言葉を交わして紅茶を注文した。
 彼は角砂糖を三つ放り込み、何度も息を吹いて冷ましながらカップを傾けた。それでも熱いと悲鳴を上げて皿に戻す彼を見て笑いながら、私は冷たいコーヒーをストローで啜っていた。

「ぼくが好きになる人はいつも、多くの人は好きになることがないような人らしいんだ」

 彼はやがて言葉を選びながら切り出した。

「初恋は――と言ってもそんなに昔のことじゃないけれど――ぼくの家のはす向かいに住んでいた女の人だった。
その人といると自分を全て肯定できる気がするくらい温かくて優しい人だった。でも周りから、そんな恋はやめろと言われ続けた」

「どうして。そんなに素敵な人なのに」

「だろう? でも結局、ぼくが想いを伝える前に、彼女は老衰で亡くなってしまった」

 私は驚いて彼を見た。彼はスプーンで紅茶をかき回しながら話を続けた。

「このままではぼくも死にたくなると思い、気を紛らすために色んなことを始めてみた。気がつけば、絵を描くことが好きになっていた」

 そんな理由があるとは思わなかった。
 コーヒーの苦さが、今頃になって喉にじわりと染みてきた。

「それからは自分が好きだと感じたものを、ひたすらに絵に残すことにしたんだ。そんなある日、道端であの猫を見た」

 リチと会ったときの彼の表情が蘇ってきた。

「一目惚れだった。気高いのに、あどけなくて、真っすぐな目をしていた。あの子なら何を話しても分かってくれそうだと思った」

 その言葉がしっくりと胸に落ちて、そうね、と彼に返した。
 私もいつもそう思ってリチに話しかけているのだ。

「あの子を描きたい、と思ったけれど、彼女はすぐに何処かへ去ってしまった。あの子に再び会うためぼくはここのところ、ずっとあの丘の道で待っていたんだ」

 私はあの木の下で待ち続けていた彼や、自分に向けられた切ない想いをを未だ知らないリチのことを思った。

 それはとても眩しい想像だった。

「お願いがある」

 もちろんあの丘にリチを連れて行ってあげようと思った。そして彼の綺麗な恋が、せめて絵として昇華されればいい。

「彼女に、ぼくのことを話してくれ」

「え」

「ぼくが待っていることを話して、明日あの場所に来るように頼んでほしいんだ。もし彼女が来なかったら、ぼくはもう彼女を追うことをやめようと思う」

 私は戸惑った。リチは猫だ。言葉で話しても分かるはずがない。
 しかし私だって、無意識にではあるが今までずっと、伝わると信じて話しかけてきたのだ。リチには分からないはずだ、とはとても言う気になれなかった。

「やってみる。でも、出来るかどうかは分からない」

 充分だ、本当にありがとう、と言うと、彼はやっと冷めた紅茶を啜った。

 その晩、リチが家に帰ってくると、私は彼女の前に正座し、精一杯の誠意をもって彼のことを話した。

 彼女は落ち着きなく歩いたり伸びたり丸まったりしていたが、時折私の目をじっと見てくれることもあった。

 何だかんだで話を最後まで聞いてくれたリチに、私は驚かされた。話に興味を持ってくれたのだろうか。
「リチにも好きな男の子はいるの?」
 尋ねながら撫でてやると、彼女は夢見るような目つきでころころと喉を鳴らした。
 彼もリチもロマンチシストか。相性が良さそうだ。
 ふと浮かんだ茶目た考えに、思わず笑みがこぼれた。

 翌日は、昨日の水たまりがきらきらと光る快晴だった。

 リチはいつも通り散歩に出掛けたが、行き先は私には分からない。今日こそ絵を見るために、私も彼の所に行きたいという願望もよぎったが、それは野暮だろうと自分を諫めた。

 夕方、商店街に行くときにも、私は丘の道を通らずに迂回した。無遠慮に覗き込むと、繊細な物語が途切れてしまう気がしたからだ。

 彼とリチのことに対するさまざまな予想や不安が浮かんできて、その日はすぐに帰宅できず、昨日のフルーツパーラーにふらふらと入って長居してしまった。

 店が閉店準備を始めたことに気づき慌てて店を出ると、外のショーウィンドウの上に見慣れた影を発見した。

 リチだった。
 呑気に欠伸をして、冷たいガラスの上で夏を満喫していた。
 この商店街に居るということは、おそらくあの丘の道を通ってきたのだろう。
 では、彼と会えたのか。
 安堵と感激が胸に上ってきた。
 ありがとうリチ、と言うと、彼女は振り返ってナーオと鳴いた。

「お嬢さん、あの画家の人の知り合いかい」

 昨日彼と話していたフルーツパーラーの店主らしき人が、店のシャッターを閉めながら話しかけてきた。

「じゃあ彼が惚れたって猫はこの子かな」

 昨日の会話はそんなに聞こえていたのかと驚くと、店主らしき人はかぶりを振った。

「いや、昨日君たちが話している内容は聞こえなかったけどね、一昨日彼が、惚れた猫の飼い主を見つけたと私に言いに来たんだ。その翌日に君を連れてくるから、もしやと思ってさ」

 話を聞くと、彼は最近のこの店の常連らしい。ところがある日、猫に恋をしたと宣言してからぱったり来なくなっていたという。変なことを言うものだと首を捻っていたら、一昨日突然、その恋が叶うかもしれない、と喜び勇んで戻ってきたので再び驚かされたのだそうだ。

 では私が、彼の想いびとの飼い主であることに、彼は一日目から気づいていたのだ。
――ゆかしいのは私じゃなくて、リチだったんじゃないか。

 なあんだ、と声が漏れた自分に思わず苦笑した。
 分かっていたはずであった。
 物語の主人公は彼とリチで、私はずっと、純粋な傍観者であったのだ。

 明日はあの丘に行こうと思った。
 彼とリチが会えたことへのお祝いと、私を描いてくれた絵へに対するお礼をしなくてはならなかった。

 明くる朝は入道雲が空を覆っていた。
 リチはひょいと塀を渡って早くも散歩に出掛けてしまった。
 私は彼のため、家にあったクッキーを紙袋に詰め、水筒にアイスティーを注ぎ込み、傘を持って、天気が変わる前に急いで丘の道へと向かった。

 辿り着いた木陰には、椅子も、画板も、傘を差している彼も居なかった。
 代わりに少し離れた草むらの陰に、彼の差していた傘だけが、開かれたまま、まるで捨てられた動物のようにぽつんと座り込んでいた。
 傘を開いたままでこんな場所に置き忘れるだろうか。不思議に思いながら、私は木陰に腰を下ろして彼を待った。

 待てど暮らせど彼は来なかった。重い色の雲はいつしか雨を零し、抜け殻のような彼の傘は私を空しくさせた。
 次第に風が強くなり、彼の傘も飛ばされそうだったので、私は草むらまでそれを拾いに行った。そのとき、その下に隠されていたものを初めて見た。

 私の絵だった。
 綺麗に額縁に入れられて、丁寧に板の上に置かれていた。
 絵の中の私は、私の知っている私より、気高いのに、あどけなくて、真っすぐな目をしていた。

 私は言葉をなくした。
 彼を探さなくては、という思いが胸を貫いた。
 しかし、大声で名を呼ぼうにも、考えてみれば私は彼の名を知らなかった。
 彼は何処かに消えてしまって、私はこのまま二度と彼に会えないのではないかという気がして途方に暮れた。

「ヨシノ」

 呼ばれて振り返った。
 丘の下に、ずぶ濡れで立っている彼が居た。
 そう言えば彼はこういう声だった。雨に沁み通るような快い発音ではなく、少し舌足らずに、不器用に音を紡ぐのだった。

「どうしたの」

 彼の名を知らない私は迷った末そう返しながら、傘を返すために丘を下りた。
 彼は私が抱えている絵に気づき、よかった、ちゃんと見つけてくれたのかと言った。
 こんなに素敵に描いてもらったのは初めてだと返すと、彼は赤ちゃんかお年寄りのように目を細くして笑った。

「きっぱりと、もうこの丘に来ることはやめようと思ったけれど、この絵はどうしてもヨシノに見せたかったから、ヨシノに分かるように置いておいたんだ。でもこの天気で汚れたかもしれないと思って、心配で様子をみにきたところ」

「この丘に来ること、やめるの」

「うん。失恋したからね」

「え」

 驚いた。
 リチは彼と会ったものかと思い込んでいた。

「リチ、来なかったの」

「本当を言うとぼくも、心のどこかではわかっていたんだ」

 彼は目を眇めて空を見た。

「でも諦めたくなくてさ、気付かないふりして駆け回ってみたけど、やっぱりだめだった。ヨシノ、この世界は、物語ではないんだね」

 彼の口から言われるとどうしようもなかった。
 彼に物語を託していたのはほかならぬ私だったのだ。

「ヨシノにはほんとうにお世話になった」

 すべてが収束する音がした。
 傍観者でいいから、その夢を、もう少し横で見ていたかった。
 私は何かを言おうとしたが、言葉が見つからなくて口を噤んだ。

「ぼくの恋はこれで終わりだ。だからこれからは、やっと対等な立場でヨシノと話せそうな気がする」

「対等?」

 その言葉を聞いた瞬間、主人公だとか、傍観者だとか、そういう言葉が頭の中からすらりと消えていった。

「ぼくの名前はミキモト。ヨシノと同じく、最近この町に引っ越してきた」

 雨が薄くなったのか、周りの景色がやけに近く見え始めた。

 ミキモト。

「よろしくおねがいします」

「よろしく、お願いします」

 空が晴れたら、もう一度丘に上ってクッキーを食べよう。
 虹が架かったら、それをミキモトに絵にしてもらおう。
 私はそう決めたとき、何かの物語を紡ぎ始める心地がした。

コメント(74)

素晴らしい作品に一票。
掘りだしてくれた読み手さんにも感謝の一票。
小説みたい
このはなしすきです!

1票
あー…
たまらなく、いいです。

一票
一票です。
情景が目に浮かびます。素敵でした。

ログインすると、残り42件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日記ロワイアル 更新情報

日記ロワイアルのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。