ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

工藤夕貴コミュの井沢八郎氏

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
愛娘・工藤夕貴ショック…「あゝ上野駅」井沢八郎さん死去

 女優、工藤夕貴(36)の父で、「あゝ上野駅」の大ヒットで知られる歌手、井沢八郎=本名・工藤金一、写真=さんが17日午後11時18分、食道がんのため東京都台東区の永寿総合病院で死去した。69歳だった。平成17年秋に食道がんが発見され、食道の全摘出手術を行うなど1年3カ月にわたり闘病生活を送った井沢さん。離婚や隠し子騒動など波乱万丈の人生だったが、亡くなった17日は奇しくも夕貴の誕生日。愛娘へ「おめでとう」と“最期の言葉”をかけ、天国へと旅立った。





 またひとり、昭和の名歌手が永遠の眠りについた。

 井沢さんの実妹、蝦名(えびな)愛さん(64)らによると、井沢さんは平成17年9月に胸焼けがしたため検査を受けたところ、食道がんが発見された。同年10月17日に声帯だけを残して食道を全摘出する手術を受け同11月に退院。しかし、昨年5月にリンパ節にがんが転移しているのが見つかり、通院しながら放射線治療などで完治に向け励んでいたが、昨年11月に再入院した。

 妻の美代子さん(45)が付きっきりで看病にあたり、娘の夕貴もちょくちょく病院を訪れた。夕貴は自身の誕生日だった17日午前中に病院を訪れた際、普段ほとんど話ができない父から不明瞭ながらも「おめでとう」と2回も祝福され、感激していたという。

JR上野駅前に建立されたヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑を前に同曲を熱唱する井沢八郎さん(平成15年7月)
 が、喜びもつかの間。同日夜になって容体が急変。夕貴は仕事のため、いったん病院を離れ、急いで戻ったものの、15〜20分の差で臨終に間に合わなかった。最期は妻の美代子さん、愛さん、愛さんの夫と3人に看取られて旅立った。安らかで穏やかな顔だったという。遺体は東京都八王子市内の自宅兼事務所に搬送され、夕貴は「(自身の)自宅で待機中」(所属事務所)という。

 井沢さんは昭和38年に「男船」でデビュー。翌39年、集団就職した少年たちを題材にした「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一)が大ヒットし、人気歌手の仲間入りを果たした。のびやかで張りのある歌声が魅力で、清酒のCMソングなどでも知られた。

 一方、私生活は波乱続きだった。昭和60年に16歳少女との淫行騒動、62年には隠し子が発覚。別居状態が続いていた夕貴の母で元妻の納紀子さんとは、夕貴が高校を卒業した平成元年に離婚した。離婚当時、夕貴は「私にとってはパパ、ママは一番愛した人。これからも永遠に愛していく人です」と明るく話していたが、インタビューで家族の話になると、急にしんみりし、離婚を悲しむ素顔をのぞかせた。

 夕貴は昭和59年の「逆噴射家族」で映画デビュー。「親の七光り」と言われるのを嫌ってか、井沢さんの娘ということを当時オープンにしていなかったが、やがて明るみに出て注目を集めた。それ以降、次々と発覚する父親のスキャンダルは、当時アイドルタレントとして売り出し中の夕貴にダメージを与えた。

 が、夕貴は心の傷を乗り越え成長。ハリウッド映画「ヒマラヤ杉に降る雪」(平成12年)のヒロインを熱演し国際派女優として脚光を浴びた。

 井沢さんが臨終の前に夕貴と交わした“父娘の会話”は、詫びと今後の活躍を願う気持ちの表れだったのかもしれない。井沢さんは天国で娘の活躍を見守り続けることだろう。





■井沢 八郎(いざわ・はちろう)
 本名・工藤金一。昭和12年3月18日、青森県弘前市出身。幼いころから歌が得意で、弘前高校中退後、歌手を目指して上京。同38年「男船」でデビュー。翌39年、当時の社会情勢だった集団就職で上京してくる等身大の若者の心情を歌った「あゝ上野駅」が大ヒットし、代表作に。「男傘」「北海の満月」などヒット曲多数。その一方で、60年に16歳の少女との淫行事件、隠し子発覚などが原因で平成元年に前妻と離婚。5年に声優の青羽(あおば)美代子さんと再婚。工藤夕貴は前妻との間にもうけた長女で、長男は元俳優でDJの正貴(33)。






★夕貴「神様のような人」−HPでコメントを発表

 2007年1月17日、父である井沢八郎が食道癌により永眠しました。 いつも元気だった父で、ずっと長生きしてくれると信じていただけに、未だに信じられません。

 歌手としての井沢八郎は、まっすぐな姿勢で常に努力を怠らない、素晴らしい芸人でした。昔から、舞台に立つ父は私にとって神様のような人で、今もずっとその姿が私の心に焼きついています。ある時は、盲腸でも舞台に立とうとした父の姿に、プロとしての自覚や、どれほど一生懸命に、芸に対して真摯でなくてはならないかを学びました。

 2005年9月に父の癌が判明して、本当に久しぶりに父と再会しました。以来、父は愛妻である美代子さんと家族ともに闘病生活を送ってきました。まわりを安心させようと気を遣う父の姿が印象的でした。闘病中の一年と約三ヶ月は、優しい父と最後の貴重な時間を過ごすことができました。美代子さんには最後の最後まで沢山の愛で父を支えて貰った感謝で一杯です。父が永眠した1月17日は、私の誕生日でした。私が仕事前の朝、病院に行った時、ほぼ昏睡状態だった父に「今日は私の誕生日なんだよ。パパに会って誕生日祝って貰えるなんて何十年振りだろうね…こうしてパパに会える事が私にとっては最高のプレゼントだね」と語りかけると、何も話せないくらいに衰弱した父が、「おめでとう」と、必死で2回も応えてくれました。

 その時私は「父は私の誕生日を祝うために頑張っていてくれていたのかもしれない」と、あまりの父の愛情に涙が止まらなくなって、「パパ、ありがとう、本当にありがとう」と痩せた父に抱きついて、父の温もりを感じながら号泣してしまいました。

 今、父には感謝の言葉しか出てきません。

 もう生の歌声を聴くことはできませんが、歌手としての井沢八郎は生き続けています。父の功績、軌跡を、娘として家族と共に生ある限り守っていきたいと思っています。

 そしてファンとして、父を支え続けて下さった皆様、ご心配を掛けて本当にすみません。そして父を長い間応援して下さりありがとうございます。家族と共に、心から感謝の気持ちを述べさせて頂きたいと思っています。

 今、長い闘病生活が終わって、家族とともに、父のことを静かに思い出しています。お通夜まで、そっと見守っていていただけると幸いです。どうか父のご冥福をお祈りください。


2007年1月18日 工藤夕貴



(原文通り)






★「とても残念」CMの清酒メーカー

 井沢さんが昭和34年から「清酒白雪」のCMソングを歌っている清酒メーカー、小西酒造(兵庫県伊丹市)はサンケイスポーツの取材に対し、「まだお若かったですし、あの力強い歌声がもう聴けなくなるのはとても残念です」とのコメントを寄せた。

 清酒業界として初のテレビCMだったが、同社の地元関西では当時、井沢さんの歌声が画面から流れ出すとお風呂屋さんがガラガラになったというエピソードも。日本酒ブームの流れに乗り「白雪」の売り上げも上がったという。




芸能紙面一覧愛娘・工藤夕貴ショック…「あゝ上野駅」井沢八郎さん死去
「家では甘えん坊」妻・美代子さん、井沢八郎さんとの思い出語る
「どろろ」世界制覇目前!アジア、欧州に続き米でも配給決定
腫瘍摘出アグネスが涙の復帰会見「一生懸命生きようと思った」

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

工藤夕貴 更新情報

工藤夕貴のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。