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死生学 Thanatologyコミュの意見を聞かせてください

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はじめまして。東京の大学生です。
脳死、臓器移植に関して皆さんの見解を求めたいと思い、書き込みさせていただきました。

私が今考えているのは「脳死、臓器移植をめぐる人間模様」
脳死、臓器移植に関する医学的、科学的資料は溢れており、体系的な知識は大体のところ得られたと思います。
また、脳死、臓器移植に賛成、反対、両サイドの意見も次のようなものが多いことがわかりました。

◆賛成◆
・自分のでよければ使ってほしい、誰かの役に立てるならば
・どうせ焼かれてしまうのなら必要としている人のために使ってほしい
・本人の意思を尊重すべきだ


◆反対◆
・不自然な行為だ
・脳死判定自体に不安がある
・臓器移植してまで生きたいとは思わない


概して日本人は欧米に比べて臓器移植に対する抵抗感が強いと言われてきました。
何故か。突き詰めていくとそこには「日本人の身体に対する思い」があります。
大昔、日本人は身体にも霊性を認めていました。
魂と身体を別物と考えないということです。
山にも海にも神様がいて、木が涙を流すなんて表現があったりします。
日航ジャンボ機の墜落事故の際、家族の身体の一部を探し続ける姿は日本人のらしさの典型だとも言われています。「足がないと三途の川を渡れない」なんて感じで。日本人は「遺体へのこだわりが強い」

欧米では身体と魂は別物であって、身体は「入れ物」であって「部品の集合」という考えがあります。
背景にはデカルトの物心二元論だったり、新約聖書の「肉体<魂」という考えがあったりします。
それと相まってキリスト教には「無償の愛」「隣人愛」という考えがあります。
困ってる人は自分を犠牲にしてでも助けよう!ってことです。


ところが2008年の調査は臓器移植への抵抗が薄らいでいることがわかりました。
私はこれがメディアの影響によるところと考えました。
たとえば病気で臓器移植が必要な人がドキュメンタリーで取り上げられているとします。
視聴者の琴線に触れるような表現で「臓器移植は正しいことだ」と半ば洗脳してしまいかねない報道の仕方をしたとして、それを見た視聴者が安易に「臓器移植、賛成!」となってしまうこと。
臓器を待つ人々の描写、臓器の贈り物的表現が臓器移植を全面的に良いものだという考えに結びつけてしまうこと。

臓器移植をめぐる諸問題を知らずに
救済の側面ばかり重視され、臓器移植に伴うレシピエントや家族の苦しみを理解せずに、臓器移植賛成派の数が増えているならばそれって手放しで喜んでいいことなのかな・・・


そして、臓器移植に賛成(死んじゃうんだったら別につかってもらったらいいな、という具合に賛成の人)でも、いざその状況に直面したら、例えば家族が脳死になったりしたら、考えが変わるということがあり得る、というかそういうことが多いってことがあります。
そんなとき、先に述べた身体への思いが蘇ったりします。五体満足の状態で送りだしたい、大事な家族の体に傷をつけたくない・・・全体性が失われることへの抵抗です。
逆も言えて、反対だったけど家族が病気になったら意見が変わったとか。

私自身、ドナーカードは持っていませんが、「死んじゃったら別に使ってもらっていいかな」程度の認識でいました。しかし、勉強を進めたことで私のような無知な人間が簡単に賛成・反対の立場に立って良いものか、当事者にならなきゃわからないことって沢山あるんじゃないかと考えるようになりました。

不適切な表現、不快に思うような表現があればご指摘お願いいたします。
臓器移植を否定したい、臓器移植を必要とする方々を否定したいということではなく、それに関する私たちの認識についての話だということをご理解いただければと思います。
もし思うところがあればご意見をお聞かせください。

コメント(17)

母の母が、数か月意識がありません。

生きていてくれる、それだけでいい、
と母は言っています。

それを考えると、
たぶん、臓器移植をすれば、生きていられる、
肉体が生きている、ということになれば、
母はそれを望むと思います。

私も同じように思う気がします。
>ミツイさん

コメントいただきありがとうございました。

私ももし家族が同じ状態になったら、そう思うと思います。

>肉体が生きている、ということになれば

脳死に関しても同じことが言えます。
もし家族が、恋人が脳死状態になったら
私は臓器移植せずにそこに生きていてくれることを望むんじゃないかと想像しました。

臓器移植は絶対反対だ という友人に
もし自分が、家族が臓器移植を必要とする状態になったら意見は変わると思う?と尋ねてみると、彼はきっぱり変わらないと言いました。なんで言い切れるんだろうと思いました。意思が強いのとは少し違う気がしたんです。
リニアさん

コメントいただきありがとうございました。

友人は特定の宗教を信仰しているわけではなく、単に臓器移植という行為に嫌悪を示しています。
中には献血すら嫌という人もいました。

そのときにならないと何も言えない ごもっともですね

そのとき を必死に想像して、理解できるよう努力を続けること ぐらいしか今は出来ないかな と思っています
はじめまして、私は新渡戸稲造の『武士道』を読み、中でも武士道とは、

『生を賤(いや)しみ、死を親しむ』という一文があり、考えさせられました。


私はちなみに無宗教ですが、私の中には宗教の枠という概念自体がなく、どんな宗教でも良いとおもうところは頂く。という考えです。


なのでトピ主さんが書かれていましたが『無償の愛』英語ではアガペー(agape)も私は大変好きです。

ちなみに私もドナーカードを持つことを迷った時期がありますし、家族にも『俺がドナーカードを持ったらどうする?』


という質問をぶつけたことがあります。

帰ってきた返答は、

『あんたがそれでいいなら、そうすれば?』


というものでした。

ですが、現在ドナーカードは持ってはいません。


どこからが人間の行いを超えた行為なのか。ということを考えてしまいます。


私は過去に手術を受けたことがあり、輸血は受けています。しかし、臓器となると。

今は踏み込むことが出来ません。


もし、将来自分に子どもが出来、子どもや妻が臓器移植が必要な場を迫られたら。考えは変わるかもしれません。


長文と曖昧なコメント失礼しました
イ〜ライさん

コメントいただきありがとうございました。
私の姉はカードを持っていますが、母は同意しないかもしれないと言っています。親ってそういうものなんですね。私も今カードを持つか考えていますが、家族とよく話し合いたいです。

無事出産を迎えられますよう、お祈りしています!



R .I .Pおじいちゃんさん
コメントいただきありがとうございました。
どこからが人間の行いを超えた行為なのか、これは生殖補助医療の問題にも絡んできますね。
私もいまカードを持つことを考えています。家族とよく話してみようと思っています。






臓器移植一応賛成ですが、ケースバイケースかな
どうせ、朽ち果てるなら役にたつほうがいいでしょうし。
でも、自分が移植してまで生きるかは微妙。
死ぬときゃ死ぬ。
60とか70なら死んだほうが良いと思うし。
親がもし、60とかで移植して生き延びれるとしても
移植してまで延命しようと思わないですね。
でも、臓器提供って順番なのかな?
絶対じゃなければ若い人に譲ってほしい所ですが。

人間の行いを超えた行為ですか…
人間が研究の末に可能になった技術なら人間の行いの範疇だと思ってしまいますね。
たぶん車ができた当時も「危ない!そんなに早く移動する必要ない」とか
言う人もいたんでしょうし。
人の体の事だからより神経質になってしまうんでしょうが
自分が良いと思っていて、妻や恋人も良いと思ってくれてれば自分の体は使って
頂いて構わないと思っています。
というのが『人間の行いの範囲』云々という点に関しての意見です。

親がもし移植を待つ状況になっても親の意思に任せます。
脳死状態になったら提供しても構わないと思います。
恋人だったら提供は受けたいし、脳死判定されてもどなたかに提供したいとは思いません。
ケースバイケースというどっち付かずな意見ですみません。
長文、駄文失礼致しました。
ごく個人的な意見ですが、移植そのものには賛成です。
でも、寝たきりの人の髭が伸びているとき等、死ってなんだろう?
とも思います。

僕らが僕らでその境界を判断するのはいいのか。。。
ドクターでも何でもないですが、そんな思いもあります。

話が逸れてしまいましてすいません。。。
やはり、だれかの命を救う術を否定は出来ません。
断片的にいくつか…

○キリスト教系の原理主義的宗派には、輸血に極端に否定的で、投薬にも懐疑的なところもあります。「キリスト教の根本原理とは何か?」と考えると、安易に「キリスト教の影響」とも言いがたい気がします。「多数派としてのキリスト教徒の人たち」という意味で言えば影響は大いにあると思いますが、どれくらい「キリスト教的」なのかは難しいところではないでしょうか?

○日本の臓器移植報道で一番インパクトがあるのは、子供の臓器移植のために多額の募金を募っての海外渡航の場面だと思います。

○それに付随しての私見ですが、日本が子供の臓器移植に消極的なのは、一端には「子やらい」の風習があった民族だからかもしれないと思うのです。
「子やらい」とは、産まれた子供をムラという共同体の子供として育て、7歳になると初めて親のものになるとう風習です。七五三の起源とも言われています。
日本人とは「子供」という対象に対する感性のどこかにそんな思いが残っている民族なのではないでしょうか? 「まだムラの子供だから、親には最終決定権はない」という「子やらい」の感性に裏打ちされた周囲の視線と「あのウチの子供はかわいそう」という思いはリンクしている気がします。同じ理由で、親の側も「私たちが決めていいんだろうか?」という不安が沸いてくる気がします。
日本人にとって「子供」って何ですか?という視点から「子供からの臓器移植はかわいそうだから」の「子供だからかわいそう」という感情を、他民族のその度合いと比較した場合、一つの切り口として考えてもいいかもしれないと思います。「最終決定者は『周囲の視線』」という日本文化。もっとも、子供からの臓器移植に消極的なのは、そういった感情面からだけではありませんが。(読みづらい文章だ…)

○江戸時代の民家の土間に、産まれた子供の胎盤を壷や箱に入れて埋めて子供の健康を願うという風習があった地域があります。胎盤という不用になった臓器にさえ霊性を感じる民族なのでしょう。日本人にとって臓器は元来神聖なものなのかもしれません。

○中国から台湾への直行便ができて間もないですが、台湾へ手術に行く人の報道があり、今後そういう人が増えることが懸念されるとのことでした。台湾は臓器不足になるのでは?

○私自身の体に詰まった臓器に対する思いですが、どうしてか自分のものは「他人に提供するのにふさわしくない、汚らわしいもの」と感じてしまいます。なので、ほしい人がいれば提供したいと思いますし、ドナーカードも持っていますが、できれば使われたくないという思いです。体を切り刻まれたくないという思いとは違うものです。

※民俗学的な視点で臓器移植を考えてみたのですが、参考になりましたでしょうか? だらだらと長文でごめんなさい。



ひとは…「臓器の集合」ではない、でしょう。。。


ひとは…「部分」ではなく「全体」。。。



「脳だけ」が、「思う」わけでは、ないのでしょう。。。



どこからが生?どこからが死?ひとの生死に線引きはできない。。。



遺体は死体ではない。。。








などなど。。。








平成21年6月19日、臓器移植改正法が衆議院を通過しました。
このまま参議院を通過すると、
・脳死は人の「死」となります。
・0歳児からの臓器移植が可能になります。
・臓器移植提供意思カード(ドナーカード)が不用になり、家族の同意だけで移植できます。

人の「死」が「政治的」に定義付けられることになります。
コーディネーターがいるとはいえ、臓器移植に関しては、家族がその最終決定者になります。
臓器提供者、被提供者の家族の決断は重いものになり、これまで以上に、家族が責任の矢面に立たされることになります。

私は政治家が党議拘束なしで投票する場面を見て、違和感を感じました。
それならば国民投票にするべき事例ではなかったのではないでしょうか?

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