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備後の歴史を歩くコミュの社寺建築 柿葺

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柿葺(こけらぶき)

檜や椹(さわら)、栗、杉などの木材を厚さ2〜3mmぐらいに削って作った板を重ね、竹釘で固定し屋根材としたものを柿葺という。また、4〜7?の板を使用したものは木賊葺(とくさぶき)といい、さらに厚い10〜30?の板を使用したものを栩葺(とちぶき)という。檜皮葺と共に貴重な様式である。備後では福山市神辺町下竹田八幡神社、熊野町常国寺内の番神堂で見ることが出来る。また、美作国の総社宮では毛利元就が造営した中山造本殿は大規模で見事な柿葺を見ることが出来る。

写真
左:栩葺 覆屋内に納められている常国寺番神堂(福山市指定重文)
中:下竹田八幡神社
右:岡山県美作総社宮(国指定重文)積雪のためにこの写真ではよくわかりません・・・。

コメント(6)

柿葺(こけらぶき)

福山市蔵王町
蔵王八幡神社境内社
柿葺(こけらぶき)

福山市鞆町
沼名前神社能舞台

撮影 西又さん
沼名前神社能舞台全景と能舞台
(撮影2007年11月,能楽鑑賞にて)
柿葺

福岡県宗像市に鎮座する宗像大社(むなかた)。式内社で、旧社格は官幣大社。沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市の辺津宮の三社の総称と宗像大社というが、単に辺津宮を宗像大社というのが一般的だ。宗像大社の伝承による祭神は、沖津宮(おきつみや)田心姫神(たごりひめ)、中津宮(なかつみや)湍津姫神(たぎつひめ)、辺津宮(へつみや)市杵島姫神(いちきしまひめ)。この三女神を宗像三女神と称し八幡神社とも強い結びつきがある。辺津宮から朝鮮半島を結ぶ線上に沖津宮と中津宮がある。朝鮮半島と日本を結ぶ重要な地点に宗像大社は創祀された。それは天照大神の神勅によるものと日本書紀に記されている。

辺津宮の拝殿と本殿はいずれも柿葺である。拝殿は天正18年(1590)に小早川隆景が建てたものが現存している。三原城主だった隆景は毛利元就の三男に生まれ、小早川家の養子となった。次男は吉川家の養子となった元春である。織田信長が豊臣秀吉を引き連れて毛利氏が支配する中国地方にまで触手を伸ばしだしたころ、毛利氏は足利義昭を鞆に匿い織田勢とは敵対関係であった。しかし、信長亡き後、安国寺恵瓊(えけい)の奔走により毛利氏は豊臣秀吉と和睦。特に隆景は、秀吉の五大老の一人に数えられるまでになった。天正14年(1586)から秀吉の九州征伐で活躍した隆景は、褒美として筑前、筑後、肥前1郡の37万1300石を与えられた。この時に宗像大社の拝殿を造営している。正面は一間通りで桁行六間の大型妻入り切妻造の屋根は柿葺である。永禄12年(1569)に父親である毛利元就は美作国総社宮の本殿を造営しているが、こちらも柿葺である。

天正6年(1578)に大宮司氏貞が再建した本殿は五間社流造で、同じく柿葺だ。本殿と隆景が建てた拝殿ともに国指定重要文化財である。

写真
左:小早川隆景が建てた拝殿
中:五間社流造の本殿
右:本殿の背面

本殿拝殿ともに柿葺屋根である。
宗像大社

本殿の柿葺屋根
拝殿の柿葺屋根
柿葺

丹波篠山城
復元大書院
どでかい入母屋屋根は柿葺でした。
塀のお屋根も柿葺で、美しいカーブが確認できます。

総工費12億円の本格木造建築で平成12年に復元されました。
内部も素晴らしく、正に唸るような建築物です。

篠山城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)に天下普請で篠山藩5万石に築城。しかし、天守ははなから築かれていません。

大書院は篠山城築城と同時に建造されたと考えられ、藩の公式行事等に使用されていました。明治維新の廃城令により、他の建造物は取り壊されたが、大書院だけは残された。しかし、昭和19年、失火により焼失してしまった。

柿葺の屋根ですがサワラ材が使用されています。
銀閣(慈照寺)

2008年2月から2010年3月まで杮葺屋根の葺き替えなど大規模な修復が行われた。写真は2011年5月2日に撮影したもの。美しい柿葺屋根である。

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