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備後の歴史を歩くコミュの知将 杉原盛重を語る会

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ここでも紹介した山陰在住の歴史作家伯耆坊俊夫氏が、山手銀山城主から毛利氏に抜擢され神辺城主になり、毛利対尼子では敵地の山陰に乗り込んで戦った戦国武将杉原盛重を題材に「知将杉原盛重」を書かれた。その伯耆坊俊夫氏と島根県史の第一人者である藤岡大拙氏のお二人による「杉原盛重を語る会」が10月26日(金)午後6時から尼子氏縁の鳥取県西伯郡南部町金龍山雲光寺で開催される。備後の武将が敵地でどのような評価がされているのかはすでに立証済みであるが、備後ではなく敵地伯耆で開催されるという大変興味深い講演会だと思います。これに杉原盛重の菩提寺である山手三宝寺の村上住職と、杉原氏末裔で銀山城イベントでも現地を案内していただいた杉原氏のお誘いを受けて私も参加することにしました。講演会と懇親会が付いて会費は3,000円です。予定は、金曜日の朝、福山を出発し山陰での盛重縁の寺を2カ所ほど回り会場に向かいます。懇親会後はどこか安宿で一泊して、翌土曜日は村上住職は法事があるらしくて、午前中には福山に着くように帰ってくる予定です。私の車で往復しまだ乗車可能です。どなたか行ってみたい方は事前に申し込みが必要なのでここで連絡をください。ご一緒しませんか。

「知将杉原盛重」についてはこちらです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21298624&comm_id=1818324


コメント(13)

その1「大安寺」

10月26日(金)に鳥取県米子市で開催された「知将 杉原盛重を語る会」へ行ってきた。ご一緒するはずだった三宝寺村上住職は当日急用が出来たらしく残念ながら欠席され、杉原氏と私と二人での米子行きドライブとなった。福山を朝8時に出発し約3時間で鳥取県西伯郡会見(あいみ)町の曹洞宗「大安寺」に到着。この寺は杉原盛重が中興開基した寺で、盛重の位牌が安置されている。立派な位牌堂の一番奥に金色に輝く位牌が安置されており、そのヨコには古そうな箱が置かれていて、この日はご住職が不在で残念ながら見せていただけなかったが、中には盛重の兜が収められているようだ。位牌に刻まれた戒名は「見性院殿大安宗広大居士」。裏手の墓所の中には立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、これは盛重の三回忌に供養のために建てられたものとされている。盛重は天正9年(1581)、伯耆国八橋城(やばせ)にて病死しているが、その墓所は伝えられていない。この大安寺の立派な宝篋印塔が墓とも考えられる。あとで立花出版の楪(ゆずりは)社長から聞いた話では、上の方にもっと大きな宝篋印塔が建っていて、「こっちが本当の盛重の墓かも知れない」と言われていた。

杉原盛重の菩提寺は福山市山手町にある曹洞宗「三宝寺」だ。この三宝寺は鳥取県倉吉市にある定光寺の末寺で、盛重にとっては山陰と備後を繋ぐ唯一のコネクションだった。毛利対尼子の戦の中で先鋒を任され敵地山陰に出向いていった盛重は、まずはじめにこの定光寺を訪ねている。敵将の参拝に定光寺住職は驚いたが、三宝寺との縁、そして老廃を余儀なくされていたこの地の曹洞宗寺院を盛重は再建することを約束すると、住職はうち解けて大変喜んだという。盛重は敵地の曹洞宗派を取り込んだのだ。その一つの寺院が大安寺ということになる。

写真
左:大安寺の入り口
中:杉原盛重の位牌、左横の箱には盛重の兜が入っている。
右:大安寺の裏に建つ宝篋印塔。盛重の墓かも知れない・・・。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480093.626&Y=127302.878&SCL=1000

その2「経久寺(きょうきゅうじ)」

 大安寺から少し西の方に「仙寿寺」というのがあり、ここには盛重の母親が祀られているらしく、やっとの思いで訪ね当てたが庫裏から出てきた人物は「そんな物はここには無い。もっと西に在所する経久寺の事だろう」とのこと。経久寺を探し当てて行って見ると、ここは盛重ではなく尼子経久(つねひさ)の菩提寺であった。頂上には2基の宝篋印塔が並んで建ち、これは経久夫婦の墓と伝わっていた。仙寿寺の件は今となっても不思議だ。夜の懇親会の席で伯耆坊俊夫氏と楪氏にこの件を確認すると「仙寿寺に間違いないですよ。出てきた人が知らなかったのだろう」と言われた。経久寺・・・よく読めば尼子経久のそのままだった。


藤岡大拙先生によると、尼子経久は尼子全盛期を築いた優れた武将で、一代で山陰に大勢力を確立させた。毛利元就も一時は経久の下にいたが、離反したことで経久の勢力が一気に衰退していった。離反した側とされた側の浮沈・・・。盛重はその経久の統治をよく知っていた。それが毛利一途に貫き通した盛重の生き様に表れているという。もしかしたら尼子氏再興は盛重の夢でもあったのではないか。あまりに強くなった盛重を一番恐れたのは毛利氏ではなかったのか。そのことが戦で討ち取られたというのではなく、八橋で病死したはずの盛重の墓がないということに結びつけて考えると、毛利氏は盛重を手厚く葬ったとは決して言えない。このあたりが大変に興味深いところである・・・。


写真
左:経久寺本堂。この辺りはこのような瓦葺きが多い。どの民家も立派な作りでお寺と見間違う。
中:由緒書
右:尼子経久の夫婦墓と伝わる物

地図
仙寿寺(盛重の母親の墓所)
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480030.635&Y=127272.565&SCL=1000

経久寺
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480000.163&Y=127220.572&SCL=1000



その3「観音寺」 

 会見町にはもう一つ、尾高城に近いところに「観音寺」という盛重によって再建された寺がある。ここも訪れてみた。入り口には「小鷹山観音寺」、隣に「小鷹城主 杉原盛重公菩提寺」という2つの石柱が建てられる。その山頂には2基の五輪塔が並んで建てられていた。向かって右には「見性院殿大安宗江大居士」、左には「小鷹院殿栄山元盛大居士」と掘られているから、盛重とその長男元盛の供養塔だ。盛重の戒名の中の「広」という字が、こちらでは「江」に置き換えられているがまちがいない。「小鷹」は現在は「尾高」となったが、ここに盛重が在した「尾高城(泉山城)」にちなんだものだろう。盛重は織田信長が死ぬ1年前の天正9年(1581)12月に八橋城で病死した。その家督は長男である元盛(もともり)が継いだが、次男景盛(かげもり)がそれを不足に思い、翌年天正10年(1582)に兄を誅殺してしまう。その景盛も毛利に攻められて自刃し杉原氏の栄華はここで幕を閉じた。

写真
左:入り口の石柱
中:観音寺の本堂
右:盛重と元盛親子を祀った五輪塔。中央の石柱は、開基である盛重の400回忌を記念して、昭和55年秋彼岸に観音寺の総檀家により建てられたもの。盛重に対する思いは今も続いている。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480280.158&Y=127510.997&SCL=1000

その1「大安寺」追加

大安寺に建てられた宝篋印塔の説明書き
南部町の文化財となっていました。

これによると盛重の戒名は「江」が使われています。
安置されている位牌は「廣」が彫られているから「広」としたのですが・・・。


その4「尾高城跡(おだか)」

 観音寺をあとにして尾高城跡へ向かう。西伯耆の軍事上の中心地であったこの地に尾高城は築城された。城郭としては鎌倉時代にまで遡るらしい。室町時代には山名氏が支配し、行松正盛が城主であった。尼子経久が進出すると行松正盛は追い出され吉田光倫が城主となり、毛利支配に替わり再び行松正盛が入城するも病死。その後を受けて永禄7年(1564)、杉原盛重がこの城を任された。尾高城は標高50mほどの小山の上にある。上がってみるとその敷地は広い。造られた郭は合計8カ所で切り堀や土塁で囲まれる。綺麗に整備されており約8万平方メートルの敷地内には梅園、桜園、紫陽花園、日本庭園の他、武家屋敷跡基礎復元、体育館、テニスコート、ゲートボールなどが併設され、本丸跡には「シャトーオダカ」なる保養研修施設も新設オープンしていた。本丸手前の広場には多数の五輪塔が並ぶ。尾高城を巡って戦い死んでいった戦士を供養したものだろうか。

 この城を語るには山中鹿介は必修である。尼子を再興させることのみに命をかけた武将で、最後まで毛利に立ち向かったが、その都度、盛重にやられている。盛重は毛利に一生を捧げた。鹿介は尼子に一生を捧げた。尼子の主城は月山富田城だ。永禄8年(1565)から尼子が支配していた石見銀山の利権をめぐって毛利は尼子の富田城に総攻撃を仕掛けた。尼子経久が山陰を支配し富田に入城したのが文明18年(1486)。しかし、永禄9年(1566)11月、尼子義久はついに毛利に降伏し城を明け渡した。ここに尼子氏は滅亡した。しかし鹿介は尼子の血脈を繋ぐ勝久を擁立させて再び毛利に挑むが、元亀2年(1571)末石城にいた鹿介は捕らえられてしまい、盛重のいる尾高城で牢獄された。何とか逃亡したい鹿介は自分で股を切り出血させて牢番に「血便が出た。トイレに行かせろ!」と一晩で100回以上もトイレに行ったという。あきれた牢番は最後は付き添わず、今がチャンスと肥だめからまんまと逃げてしまったのだ。それから7年後の天正6年(1578)、勝久は播磨上月城で毛利に追いつめられて自害。享年26歳。鹿介は自害せず、当時、鞆にいた毛利輝元と足利義昭のもとへ護送途中備中高梁で殺害され、首だけは検分されるために鞆に運ばれた。享年34歳。その後、鞆の住民により供養され首塚が建てられた。首を清めた井戸の横に今も鞆の地に残る。盛重は天正9年(1581)山陰八橋で亡くなり、数カ所に供養塔が建てられた。ライバルの鹿介は備後鞆の浦に首塚が建てられた。これも因縁としか言いようがない。

写真
左:本丸付近に建つ多数の五輪塔。
中:堀切や土塁
右:屋敷跡の基礎部分

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480293.574&Y=127503.335&SCL=1000
尾高城は鳥取で一番訪れてみたい城跡です
うらやまし〜
それにしても鹿介の脱出手段はまさに兵法三十六計の第一計、瞞天過海ですね^^;
相手を油断させて作戦を実行するってやつです。
鹿介を捕らえたのは吉川元春で、毛利のほとんどの家臣達は鹿介の改心を信じて疑わなかったが、盛重だけはこの男はまた反旗を翻して立ち向かってくると進言したそうです。元春はならばお前のところでその真意を確かめてみろということで盛重のいる尾高城に移送されてきた。そしたら案の定逃げた。これは盛重がわざと逃がしたとする説にもうなずけますね。

「尻から血が出た。これは赤痢だ。お前らにもうつってみんな死ぬぞ!!」と牢番を脅したそうです。


その5 大神山神社

 懇親会場までの送迎は、夕方5時20分に米子駅前にバスが迎えに来てくれる手はずだ。まだ時間があるので尾高城本丸で次はどこに行こうかとガイドブックを開いてみた。すると、ここからすぐ近くに式内社「大神山神社」がある。「おおみわ」と読ませる場合が多いがここは「おおがみやま」と読む。カーナビに行き先をセットすると約800mほどの距離だ。ここでで式内社に出会えるなんてとほくそ笑みながら向かった。広い境内に立派な拝殿が見える。神話の故郷は出雲だろう。それを物語るように出雲には式内社も多い。伯耆国はどうだったか?こんなに時間があるなら式内社について下調べをしてくれば良かった。そんなことを思いながら鳥居をくぐる。正面には切妻屋根で三間一戸の神門が建つ。柱は総て角柱。長押と頭抜きで固定され柱間中央には平三斗。さらにそれを挟むようにカエル股が施される。拝殿は五間社入母屋造りと大型だ。正面に千鳥破風が付き、向拝は向唐破風造りと見る者を圧倒する。正面に掲げられた神名額は最後の鳥取藩主となった池田慶徳公の書だ。本殿は2間社の切妻造で妻入りとなり大社造り風の社殿だ。床を2mくらい持ち上げて見上げるように建つ。四方を縁がまわる。屋根は苔むした檜皮葺で、身舎柱は総て正規の丸柱が使われる。柱は長押と頭抜きで固定され、さらに台輪を巡らせ組物は出組で一手先。間には支輪が施され軒は二軒。妻飾りは二重虹梁大瓶束。最上部はイノコサスと称される古い建築様式で建てられる。棟には両端に千木と三本の鰹木が置かれる。祭神は大国主命であった。

大社造りとは、出雲大社本殿の建築様式を言い、切妻造の妻入りで2間社となる。2間社という事は柱は三本であるから、社殿の中央に一本の柱が立てられる。この柱を宇豆柱(うずばしら)といい、それは大棟まで届く。そして中央に建つその柱が邪魔をして本殿の入り口は中央には造られず左右どちらかに寄せなければならない。出雲大社は向かって右に寄っている。ここ大神山神社の本殿は、中央の柱は大棟まで届かず台輪で止まっているから正規の大社造りとは言えない。入り口の切り妻の庇は左右両方に二つ造られ、さらにその真ん中から拝殿へ向けて唐破風が幣殿の屋根となり、しかも下方向に曲線を出して曲げられ接続するという凝った向拝と幣殿を造っている。見応えのある社殿だった。午後4時が近かったが社務所の呼び鈴を押すと中から若い神職が出てこられ、御朱印を書いただいた。そろそろ時間も無くなってきたので米子駅前に予約していたホテルに向かうことにした。雨は本降りとなってきた。今夜のサブタイトルは「観月の会」と付けられていた。今思えばちょうど十五夜だったか。それで観月だったのか・・・。はたして月は出てくれたのか。
次はいよいよ「知将 杉原盛重を語る」だ。

大神山神社は盛重とは関係はなかった・・・。

写真
左:拝殿
中:本殿
右:社殿 ヨコから

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480277.707&Y=127491.531&SCL=1643
追伸

備後の式内社では、その何処かに「五郎川」という千社札が貼られているのを目にする。以前、私の日記にそのことを書いたら、千社札で検索されたのか私のその日記を読まれた人から、「五郎川さんは東京在住の人で、全国の式内社をまわられています」というコメントを頂いたことがある。

大神山神社でも拝殿の軒で「五郎川」の札を見つけた。
今も何処かの式内社をまわられているのだろうか・・・。

金龍山雲光寺 

 大神山神社から米子駅前に予約したビジネスホテルに直行した。部屋に入り送迎バス出発時間の5時20分までテレビを付けてヨコになっていたら、いつの間にか寝てしまった。毎日の習慣になっている昼食後の昼寝も出来なかったしな・・・。杉原氏に起こされてバス乗り場に出かけた。相変わらず雨は降っている。傘は車から下ろすのを忘れた。地下道の入り口で雨を避けながらバスを待つ。時間通りにバスは来た。米子駅前で乗り込んだのは私達を入れて4人。この人数でこのバスは大きいなと思ったら、しばらく走って停車。7名ほどが乗ってきた。よく見ると「知将 杉原盛重」の著者、伯耆坊俊夫氏もその中にいらっしゃる。その作家先生が自らバス代を徴収された。「すみません。予算がないものでバス代1,000円を徴収します。お名前をどうぞ。」そりゃそうだろう。懇親会の飲食付きで3,000円の会費だから・・・。「福山から来た杉原とあまのです。今日はよろしくお願いします」「後藤(伯耆坊氏の本名)です。わざわざ福山から良くお越しくださいました」など、一通りの挨拶を終え、これから始まる会に期待して胸が膨らむ。次はお寺さんの前で停車した。ここでも5,6名が乗られ、さらに2カ所ほど停車して20数人乗りのマイクロバスは、いつしか補助席まで出し満員となった。会場は金龍山雲光寺。尼子経久縁の寺だ。経久が、出雲が光り輝く国であるようにと命名した。明るいうちに伽藍等を見ておきたかったのだが陽はとっくに暮れてしまい、周囲の景色も見ることが出来なかった。雲光寺のパンフレットには、立派な鐘楼門と綺麗な庭が写っていた。本堂は焼失したために、江戸時代天明期に再建された。ここは尼子氏縁の寺だが、盛重の菩提寺である三宝寺と同じで、倉吉にある曹洞宗定光寺の末寺という関係で、支配は尼子から毛利へと替わり、天正5年(1577)に寄進を受けたときの田畑寄進状が現存している。伯耆の曹洞宗派は盛重により再建された。今回の「盛重を語る会」には雲光寺をはじめ角磐山大山寺、天寧山伝燈寺、梅翁寺のご住職をはじめ家族、護持会、門徒衆も大勢参加され、総勢は97名を数えた。本堂が会場となった雲光寺ご住職は「観月の夕べということですが、あいにくの天気で月が出ておりません。かわりといってはなんですが、寺の坊主が多数来られているようで、坊主の頭を見て観月といたしましょう」・・・笑わせる挨拶をされ雰囲気が一気に和んだ。曹洞宗はみな剃頭である。大山寺については、僧兵が毛利軍と戦っているのではと思っていたが、ここも盛重から領地の寄進を受けている。盛重が、敵地でありながらこの地で行った統治は、400年以上経った今でもこの地に根付き受け継がれているということを、ここに集まってこられた住職達を見て実感がさらに深まった。講演会の前に雲光寺ご本尊の前で全員で般若心経を唱えた。4人の住職と2人の副住職に先導され97名の般若心経は圧巻であった。ほとんどのみなさんが暗唱された。同行の杉原氏も立派に暗唱された。私は経本が欲しかった・・・。

さて、いよいよ基調講演が始まった・・・。

地図
http://www.chizumaru.com/business/?x=480145.852&y=127227.618&scl=1375
その7 講演会と懇親会

 伯耆坊氏は時代背景をふまえて一通りの盛重の生き様を語られた中で、今回、盛重を題材にした小説を書こうと思ったいきさつも語られた。山陰の人は、大体が尼子びいきなのだそうだ。特に、伯耆坊氏は猛烈な尼子ファンなのだ。尼子滅亡の最たる原因を上げると、どうしても盛重の存在が大きい。吉川元春から絶大なる信頼を受けた盛重は、その期待以上の働きをして元春に仕えた。毛利が尼子の主城である月山富田城を落としたのも盛重の功績が大きい。しかし、元春は富田城を盛重に任せなかったのだ。あのとき、もし富田城に盛重を置いたならばどうなっていただろうか。これを考えたのが書くきっかけになったいう。つまり、あまりに強くなりすぎた盛重を元春自身が気がつき、恐怖を感じるようになったのではないか。盛重は山陰の曹洞宗派を取り込み、敵地でありながら神辺殿と賞賛されている。これは400年以上経った今でもそうだった。東伯耆羽衣石城には南條宗勝という人物がいたが、尼子経久に追われ山名氏を頼った。そして羽衣石城の奪回を図るが失敗する。毛利が尼子を攻めると南條氏は毛利方について参戦し、ついに30年ぶりに羽衣石城の奪還に成功している。「羽衣石南條記」には宗勝は隠居後元春と杵築(出雲)大社へ参拝し、大山に登拝した後、尾高城の盛重を訪ねている。盛重は酒宴を開いてもてなしたのだが、宗勝は帰城後変死している。死に際に「盛重に毒を盛られた」というのだ。この変死事件で同じ毛利方の南條氏と盛重は一触即発の事態になった。もし、ここで盛重は鹿介以下尼子の残党を結集し対南條に名を借りてついには打倒毛利を宣言するという事態も考えられるのではないか。しかし盛重は、そんな事態が起こる前、天正9年(1581)八橋城で病死している。戦地で討ち死にしたのではなく、城内で病死したのに盛重の墓がどこにもないという事実。元春以下毛利方が、一番功績のあった盛重を手厚く供養した形跡がないのだ。もし盛重が尼子に就いてくれたら・・・。と結ばれた。

 藤岡大拙先生のお話は文句なく面白かった。下手な漫才を聞くよりも面白かった。こういう先生に歴史を教わりたかった。山陰歴史研究の第一人者だ。今、山陰ではNHK大河ドラマに山中鹿介をという運動が始まっているそうだ。山中鹿介という人物は、名前に「鹿」の文字が使われ、このことがカモシカに代表されるように、美男子で細くて俊敏でという人物的なイメージが作り出されている。もしこれが仮に「熊」だったらどうだろうか。山中熊之介・・・。でかくて毛むくじゃらで、色が黒くてごつくて・・・。実際の鹿介はまさしくこういう人物だったらしい。尼子の再興だけを夢見て最後は斬り殺された。負けても負けても立ち上がり、3度毛利に挑んだが、その都度、その前に立ちふさがったのは盛重だった。以前、大河ドラマで毛利元就をやったときに、それを代表する武将のはずの盛重には不思議に出番がなかった。ウキペディアで鹿介を引いても盛重に関する記述は一切ない。不思議でしかたがない。藤岡大拙先生は、「本当に鹿介をやるならポイントはただ1つ。それは幽閉された盛重の尾高城から逃亡するシーン。これは絶対にはずせません。さて、鹿介をやるとなったら、いったい誰がクソまみれになるのか・・・」毛利対尼子を語るとき、その主役は鹿介ではなく絶対に盛重であると言い切られた。

 備後でそだち山陰で活躍した戦国武将杉原盛重。福山市赤坂町に鎮座する赤坂八幡神社は盛重が亡くなる1年前に盛重により立てられた棟札が残る。正に遺作といえる。山手八幡神社も盛重が再建した。赤坂と山手の八幡神社の建築様式はどちらもうり二つだ。神辺城に転封してからは下御領八幡神社をはじめ4社ほどを再興させている。今一度、盛重が備後に残したその足跡を訪ねてみたい。そして山陰以上に、この地元でもっと盛り上がればと思った。

 懇親会の献立は貼り付けた写真の通りである。超辛口の日本酒に芋焼酎。使われた素材はすべて地元で収穫されたものだ。それを大山ホテル組合の板場が調理された。新そばもその場で打たれ出された。これも格別の味だった。現地の方の手作りでの懇親会には心温まるものがあった。尼子も毛利も、そして盛重もこの地のこの味に舌鼓を打ったに違いない。

今回の米子紀行・・・。
行って、見て、味わって、本当に良かった。

写真
左:伯耆坊俊雄氏
中:藤岡大拙先生
右:主催者、立花書院楪(ユズリハ)社長と同行した杉原氏

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