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備後の歴史を歩くコミュの松本清張『山中鹿之助』

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松本清張、幻の作品が初単行本化!

主君・尼子家の再興を願い、大敵・毛利に果敢に挑み暴れた、山陰の戦国猛将・山中鹿之助の、短くもドラマチックな生涯を生き生きと描く。
没落しつつあった尼子家一筋に全てを捧げ、月山富田城を取り囲む毛利元就の大軍を、その抜群の勇力と才智により何度も跳ね返し、武名を高めた鹿之助だったが、最終的に尼子義久が毛利の軍門に下り、富田城を明け渡すことになった。
その後、牢人をしながらも尼子家再興を使命とし、尼子勝久を擁立し、幾度の苦難を乗り越え、石見国入りし新山城を占拠するも、毛利勢との戦に敗れ富田城へ入城することは叶わなかった。
さらに、10年後、織田信長の毛利攻めに乗じ、再び、尼子軍を再興した鹿之助だが……。
100度打ちのめされ、1000回も挫折を味わう壮絶な鹿之助の人生、しかし、進むことはあっても退くことはなかった、その義勇の名は、天下に鳴り響いた。
弊社雑誌「中学生の友」に1年間連載された、松本清張、幻の作品。著者が代表作「点と線」を執筆した頃に同時に描いた、名作が50余年の時を超えて甦る。

http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%B9%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9-P-BOOKS-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%B8%85%E5%BC%B5/dp/4093522014/ref=lh_ni_t?ie=UTF8&psc=1&smid=AN1VRQENFRJN5




予約しました。

コメント(9)

鹿介と備後の繋がりはこちらを参考にしてください。


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27686038&comm_id=1818324
 福山市鞆町に建立されている「山中鹿介の首塚」について、その経緯や鞆に至った経路など軍記物を中心に調べ、福山市文化財協会が発行している『文化財ふくやま』第47号に寄稿したのは2012年のこと。その時に参照した文献は次の通りである。

『尼子物語』『山中鹿介幸盛』『新雲陽軍実記』『月山史談』
妹尾豊三郎・ハーベスト出版
『山中鹿介紀行』藤岡大拙・山陰中央新報社
『山中鹿介のすべて』米原正義編・新人物往来社
『新釈備中兵乱記(中国兵乱記収録)』加原耕作編著・山陽新聞社
『安西軍策』石黒吉次郎・勉誠出版
『陰徳太平記』米原正義校注・東洋書院
『備後叢書』『続備後叢書』歴史図書社
『備前軍記』国会図書館電子書籍
『小説山中鹿之介 英雄にっぽん』池波正太郎・集英社文庫
『山中鹿之介』高橋直樹・文春文庫
『山中鹿介』童門冬二・人物文庫

 これらを参照し、鹿介の行程を自分なりに論考、結論して発表したのである。そして2015年5月25日、小学館から松本清張『山中鹿之助』が新たに発売された。どういうことかというと、1957年4月から小学館『中学生の友3年』〜『高校進学』に1年間連載されたのが今回初めて1冊にまとめたれ出版されたのである。まぼろしの1冊が手元に届いた。 池波正太郎、高橋直樹、童門冬二などの小説家の記述は、最大の疑問点をまったく疑問としていないのであるが、さて、松本清張はいかがであろうか。

 私の言う最大の疑問とは、播磨上月城で捕らえられた鹿介はどこに護送されようとしたのか。ほとんどが備中一宮から高梁川を上り備中松山城を目指したことになっており、殺害現場の「阿井の渡し(高梁川と成羽川の合流地点)を渡れば松山城はすぐそこである」などという記述もあるくらいだ。松山城は高梁川の東岸にあり、総社から高梁川の東岸を進んできた鹿介は、阿井の渡しで西に渡る必要などまったく無いのである。西側が殺害現場とされ、その場所に鹿介の墓が建立されており、このことが矛盾を引き起こしている。

 矛盾を解決する方法は二つある。行き先を松山城から鞆の浦に変えるか、『備前軍記』に唯一記された作州路説を採るかである。私は前者「鞆の浦説」採った。

 松本清張『山中鹿之助』では問題のシーンの記述は一番最後にあった。引用すると「合の渡し  落合を過ぎ、北房を通って松山へ出た。松山は高梁とも言った。・・・松山から備後を経て、安芸へ至るのであるが・・・」

 清張さんは松山を目指せば備中経由だと矛盾することをちゃんと把握されている。さすがである。そこで矛盾しない『備前軍記』の作州(美作)路説を採られた。そして目的地は松山城ではなく、あくまで毛利の本拠地である安芸吉田である。この論考は距離的にも全く無駄がない。それは私も承知しているが、これを採用すれば他の軍記物の記述が大嘘となるのである。私が採用した『中国兵乱記』説はなぜダメなのか是非聞いてみたい・・・。
「山中鹿介首塚」(鞆町)の謎    

 天野 公士郎 

「戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿之助は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578(天正6)年、岡山県の高梁川阿井の渡で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の阿井の渡には胴塚があります」これは静観寺(福山市鞆町)門前に建てられている鹿介首塚の案内書である。山中鹿(しかの)介(すけ)が阿井(あい)の渡(わたし)(高梁市落合町)で殺害された経緯やその謎について、軍記など関連書籍を照合し考察してみた。

〈尼子対毛利〉
戦国時代、月山(がっさん)富田(とだ)城(島根県安来市広瀬町)を本拠とした尼子氏と、吉田(よしだ)郡山(こおりやま)城(安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利氏は、中国地方の覇権を賭して戦った。毛利氏は永禄8年(1565)から本格的に富田城攻撃を開始。永禄9年(1566年)11月、ついに富田城は落城。当主尼子義久は円明寺(安芸高田市向原町長田)に幽閉され勝負が決着した。富田城に立て籠もっていた武将らは浪人となり各地へ散って行った。その中に山中鹿介がいた。ここから鹿介は尼子再興に執念を燃やすことになる。

〈打倒毛利〉
尼子再興は言い換えれば打倒毛利である。鹿介は織田信長・羽柴秀吉の力を借りて永禄11年(1568)、尼子勝久を新たな当主に擁立し再興作戦を開始する。その戦は都合3回行われたが、1・2回とも失敗。3度目の正直で挑んだ播磨上月(こうづき)城合戦(兵庫県佐用郡佐用町)でついに息の根が止められた。天正5年(1577)、織田信長は毛利征伐の総大将に羽柴秀吉を任じ、鹿介ら尼子勢に上月城を任せた。この時、尼子の兵力はたったの二百余り。秀吉は自身の兵八百を与え、加えて上月城には、かつての尼子の残党が続々と集結、その数二千とも三千とも記される。備前の宇喜多直家は、尼子の拠る上月城を攻め奪取に成功。鹿介らは城からかろうじて脱出する。天正6年(1578)3月、総勢二万一千騎を従えた秀吉は、その内の五千騎を鹿介に任せて先陣をきらせ、再度上月城に攻め上がる。上月城奪還に成功した秀吉は、鹿介らに二千五百騎を与えてここを守らせ姫路城に帰陣した。今度は黙っていないのは毛利方である。4月、毛利輝元三万騎、吉川元春二万三千騎、小早川隆景は二万八千騎を従えて上月城へ出陣。毛利に従った宇喜多忠家は一万騎を引き連れて先鋒を務め陣を敷いた。十重二十重(とえはたえ)に取り囲まれた鹿介ら尼子勢は、為す術なく3度目の正直もついに叶わなかった。この敗戦で勝久は自刃。鹿介は毛利に降った。尼子氏は滅亡、鹿介は毛利の総大将輝元がいる備中松山城へ向けて連行中7月17日、高梁川と成羽川の合流地点阿井の渡で殺害された。享年34才。殺害現場とされる場所には石碑が建てられた。首は鞆に運ばれ、胴体は観泉寺(高梁市落合町阿部)住職によって埋葬された。

〈播磨上月城からどこへ〉
文献から鹿介の状況を照合すると、上月城落城は天正6年7月3日である。同日、勝久は26才で自刃し、鹿介は7月10日に上月城を出発している。『陰徳太平記』は、毛利輝元は鹿介の手勢六十ばかりを五百余騎にて守護し「備中松山へ召具し下るべし」『雲陽軍実記』は、吉川元春は鹿介を「備中松山に召し連れよ」『備後太平記』は「備中松山へ召具し下すべし」「鹿之助が首は備後の鞆の津へ送り、女性小者は芸州吉田へ送りける」『三備史略』は「山中幸盛を備中河部に殺す」『沼隈郡誌』は「阿井の渡を過ぐ時に」「上月攻撃陣の首脳は鞆に引き上げ、鹿之助の首も義昭、輝元、隆景の検視に供すべく鞆に送られた」とある。妹尾豊三郎著『尼子物語』は、「阿井の渡に着いた。ここを渡れば備中松山はすぐなのである」同著『山中鹿介幸盛』では、鞆にある首塚に触れ「婦女子を安芸に連行する際、鹿介の首も携行したのを途中鞆の浦で埋葬したものと思われる」と記す。「途中鞆の浦」と、鞆を単なる通過点としているが、これは毛利の首脳が鞆に集結していたという記述が山陽側の地誌のみに記されているからで、山陰の研究者は、移送先はあくまで備中松山城という認識である。経路について『備前軍記』は「鹿之介は作州路を経て芸州に趣とて備中国河部川阿井の渡にて」と、作州路(美作経由)とし、『中国兵乱記』は備前一宮から総社を経由した行程を記す。それ以外は具体的な記述はない。ではどこで殺されたか。阿井の渡であることは違いないが、高梁川の東岸か西岸かがはっきりしない。『陰徳太平記』は、鹿介の手勢を先に渡し、鹿介は最後に残って岩に腰をかけているところを後から不意に討たれたとあるから、殺害現場は東岸ということになる。この東岸説を採用している書籍は多い。これに対し『中国兵乱記』や『桂岌円覚書』は、最初に渡ったのが鹿介だと記している。これだと西岸ということになる。これを裏付けるように、殺害現場に建てられたという石碑は西岸にある。

〈疑問〉
鹿介の移送先は備中松山城だったことは間違いない。移送や殺害を命じたのは輝元か元春か、どちらでも大したこととは思わない。殺害現場は阿井の渡である。では東岸か西岸か、これも大したことではない。私が抱いた疑問は次の2つ。まず、首を鞆に送ったという記述が『中国兵乱記』『備後太平記』などにしか出てこない。本当に鞆に送られたのか、首塚建立も含めて謎である。そして最大の疑問は、阿井の渡を東から西に向けて渡ろうとしていたことである。なぜならば、松山城は高梁川の東に位置する。西に渡る必要など全くない。これらの疑問が解けるかどうか次に検証してみたい。

〈検証〉
『中国兵乱記』は、経山(きょうやま)城主(総社市)中島大炊助元行が、元和元年(1615)に著したもので、天正10年(1582)、秀吉が備中高松城を水攻めにしたときに、高松城主清水宗治と共に籠城していた人物である。また元行の奥さんは宗治の娘で、宗治の切腹を一番近いところで見ていたと考えられ、その様子をかなりの紙面を使って述懐している。それに記された鹿介の移送経路は次の通りである。まず、足利義昭は芸州に下る道中で鹿介を討ち果たせと命じ、天野五郎右衛門を討手に決め「備中高梁川の辺で討ち果たす」と、出発前にすでに決定していたことが記されている。鹿介ら一行は、備前一宮(吉備津彦神社)で休憩を取る。そこへ清水宗治から酒肴の差し入れが届いた。その後「板倉郷の轟橋を右へとり鼓山・蛙が鼻を過ぎ行くと、高松城の大手門口で林三郎左衛門と荒木三河が出迎えた。鹿介は宗治に酒肴のお礼を申して欲しいと懇ろに頼み、高松を過ぎ行き、稲荷山を右手に観て馬揃に行き着いた。大井川を上り、刑部郷の鬼塚・松鼻を過ぎ経山の麓に着くと、郷主中島大炊助より家臣の中島与助と湯浅新蔵が酒肴を持参した。鹿介はここで暫く休憩し、峠坂を越えると日羽郷であり、右を見ると宍粟の白木城、左の川向こうを見ると荒平白滝城が見えた。日羽村に入ると天野五郎右衛門よりの馳走として川村新左衛門、田中藤五郎、その他数輩が酒肴を持参し暫く酒宴が行われた。阿井の渡し場に着くと鹿介は最初の船に乗って対岸に渡り、石に腰を掛け、休息しながら待っていた」ここから鹿介殺害の様子が具体的に記述されるが、ここでは省略する。


〈追跡〉
地形図で『中国兵乱記』に記された地名を追ってみた。まず「板倉郷」は備中一宮吉備津神社付近である。「鼓山(122m)」はすぐ北に位置し、「蛙が鼻」は秀吉による高松城水攻めの時に堤防が築かれた場所で、高松城はすぐそこである。「稲荷山」は最上稲荷であろう。高松城を過ぎて「馬揃」は確認できる。「大井川」は「足守川」のこと、現在も地名は残っている。西に進むと「松ヶ鼻」があり「刑部」も確認できる。かつての刑部郷は現在の総社市刑部(おしかべ)である。「経山・(372・6m)」の西麓は高梁川だ。この辺りは著者元行の地元であり、自身が家臣に命じて酒肴を差し入れて休憩を取らせている。高梁川に沿って上ると「宍粟(しさわ)」「日羽(ひわ)」が確認できる。そこに至る「峠坂」とは東塔坂峠もしくは西塔坂峠であろう。高梁川を挟んで東(252m)西(190・9m)に城山がある。白木城趾と荒平白滝城趾である。この「左の川向こう」という記述は、鹿介一行が高梁川東岸の道を進んだことを証明している。ここから阿井の渡まであと17�卍�だ。残念ながら『中国兵乱記』にはここから先の行程は記されていない。地形図を高梁川に沿ってさらに進むと、美袋(みなぎ)、種井、広瀬と辿り、いよいよ阿井の渡「東岸」に着くのである。上月城から移送されて来た鹿介が、阿井の渡の東岸から松山城に行くのに、なぜ西に渡る必要があったかという疑問は依然として解けない。藤岡大拙氏は著書『山中鹿介紀行』で、経路について『中国兵乱記』説と『備前軍記』の作州路説、また上月城から南下し瀬戸内海に出て船で鞆に来た。鞆から国道313号を備中松山に進んだのではないかという藤岡説を示されている。しかし、作州路説や藤岡説を採用すると『中国兵乱記』の記述は大ウソとなってしまう。

〈結論〉
私が出した結論は『中国兵乱記』を支持する。妹尾豊三郎著『月山史談』には、「当時、高梁川は今の流路と異なって、現在の市街地である東側の山麓を流れ、つづいて高倉山の山麓を大きく迂回して流れていたので、現在ある俗称下山(高倉山)の西側の道はなかった。この道は後年水谷氏の時代に出来たものであるから、当時備中を東から松山に入るには一度阿井の渡で川を渡り、稲荷神社東麓の道を近似(ちかのり)に進み、更に城下の近くでもう一度川を渡らなければならなかった」という地元の金岡武氏の説が紹介されている。また『備中兵乱記』には、毛利方が三村方の「広瀬の陣屋を打ち破ろうと玉の渡・四条原・魚(や)梁庭(なば)に轡(くつわ)を並べて攻撃すると、広瀬の陣屋は持ち堪えられず、軍兵は松山を目指して引き退いた」とある。広瀬の陣屋から松山城に逃げ帰るのに、まさか地元説にあるように阿井の渡で川を一旦西に渡り、更にもう一度東に渡り直して帰城したとでもいうのだろうか。広瀬陣屋を広瀬東方の山頂付近に推定すると、そこからは川など渡らずとも、一目散に逃げ帰れる山道がどこか必ずあったはずだ。事実、法林坊から鶏(けい)足山(そくさん)(585・5m)への道や、そこから松山城下への道は存在している。また、首について『備後太平記』は、備後国鞆津猿楽能之事に「左は毛利、右は小早川の軍勢、御前に毛利輝元、小早川隆景、河野道直、毛利元清。次に左の桟敷には」と上月落城後、輝元は足利義昭がいた鞆に来ていたことを記す。輝元は松山城に帰陣した後、鞆に来たと考えられる。輝元がいたはずの松山城に向けて連行された鹿介だが、輝元は鹿介の松山到着を待たずして鞆へ移動したとすると、鹿介の行き先も鞆へと変更され、目的地が松山城でなく鞆ならば、阿井の渡を東から西に渡った、もしくは渡ろうとしたということはまったく問題ではなくなる。とするならば、陣屋があった広瀬辺りに松山城登城の分岐道があったのではないだろうか。手前の種井からも鶏足山中に道は続いている。経山麓から高梁川に沿って松山城を目指すには、広瀬もしくは種井辺りから進路を右手の山中に取り、鶏足山系から高倉山を経由し北進すると松山城下に通じる。一方、分岐道を川沿いに進むと、阿井の渡で道は途切れ、西に渡るしかなくなる。そう考えると、一行が分岐道を山ではなく川沿いに進んだということは、その時点で、行き先は松山城ではなく「鞆」だったということになる。だから首はそのまま鞆に運ばれ検分された。2つの疑問は一気に解けた。鹿介が辿った道順を地形図上に照合し再現すると、このような結論が見えてくるが、いかがであろうか。
〈 鹿 介 紀 行 〉

○首塚 福山市鞆町 静観寺門前
この首塚について、『鞆記』『あくた川のまき』『鞆浦誌』『備陽六郡誌』『西備名区』『福山志料』など江戸時代に著された文献や、明治28年に発行された『備後国鞆浦名勝記』などをめくってみたが、不思議なことに首塚の隣にある「ささやき橋」は記されていても、いずれにも記載がなかった。確認できたのは大正12年編纂の『沼隈郡誌』で、いつ頃の建立かは謎のままである。今建てられている首塚は、昭和10年7月17日に改修され落慶式が行われた。それまでは自然石の墓標だけが道ばたにポツンと置かれていたという(備後史談第11巻8号・浜本鶴賓)。静観寺には鹿介の位牌があり、それに記された法号は「幸盛院殿大誉浄了大居士」で、これは津和野亀井家の法号と同じである。

○首塚 庄原市東城町菅 徳雲寺
首塚はもう一カ所存在する。それは庄原市東城町曹洞宗徳雲寺にある。鞆に埋葬された鹿介の首を、従者が密かに掘り出して徳雲寺に運び、持っていた勝久の遺髪と共に埋めたというのだ。尼子晴久によって新宮党が誅殺されたときに、幼かった勝久ただ一人が逃がされて匿われた。そこがこの徳雲寺だった(当山の歴史抄)。上月城合戦で、勝久は鹿介の目の前で腹を切り死んだ。従者は、せめて鹿介の首は勝久縁の地にと考えたのか。二人が京都で出会ったように、あの世でも再会できたのだろうか。

○墓碑
高梁市落合町「備中松山城へ護送される途中、この阿井の渡場で不意打ちにあい斬殺されました(現地案内板)」

○胴墓 高梁市落合町 観泉寺付近
「毛利輝元の本陣である松山城へ護送される途中の阿井の渡(現落合町阿部)で暗殺。その首は輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊(さん)牛(ぎゅう)和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み瓶に収めて埋葬し、墓碑を建立したもの。位牌は観泉寺に祭られていて幸盛院鹿山中的居士霊位とある(現地案内板)」

○広島市西区草津 浄教寺
広島市西区草津駅付近に正信山浄教寺という浄土真宗本願寺派の寺がある。毛利氏の家臣児玉周防守就方の居城草津城に出入りしていた御用商人吉和屋孫左衛門義兼の菩提寺であった。浄教寺は元は禅宗で、鈴ヶ峰正信谷の観音寺が現在地へ移り、天正20年(1592)に浄土真宗に改宗して山号寺銘を正信山浄教寺に改めたという。この改宗は、毛利氏が織田信長に攻められていた石山本願寺に兵糧を入れたことに由縁する。天正4年(1576)7月、毛利輝元は信長と対峙する石山本願寺を支援するため、村上水軍を使って兵糧の搬入に成功した。そのときの陣所となったのがこの寺で、お礼に本願寺から阿弥陀如来を下付されたのが改宗のきっかけとなった。鹿介の首と一緒に連行された鹿介の婦女子達は、鞆から安芸に送られた。娘盛江は吉和屋孫左衛門義兼に嫁ぎ二男をもうける。二人は母方である山中姓を名乗った。長男は山中弥右衛門範信と名付けられ吉和屋本家を継いだ。孫兵衛と名付けられた次男は、大阪に出て財を成し鴻池を名乗った。盛江は孫左衛門とともに吉和屋の菩提寺浄教寺に葬られた。

○広島市西区草津 海蔵寺
昭和12年、吉和屋73代山中弥右衛門三郎により、吉和屋墓所が浄教寺から曹洞宗海蔵寺へ移葬された。現在、浄教寺の吉和屋墓所跡には、昭和52年(1977)、鹿介400年忌を記念して建立された石碑が建つのみである。それには鹿介の観泉寺法号「幸盛院殿鹿山中的大居士」とともに、津和野亀井家の法号「幸盛院殿大誉浄了大居士」も併せて刻字されていた。海蔵寺は草津城主児玉氏の菩提寺である。盛江と吉和屋孫左衛門は児玉周防守の仲人で結婚しており、その縁があって三郎氏は吉和屋本家の墓所をこの海蔵寺へ移したのであろう。また浄教寺には、鞆静観寺門前に埋葬された鹿介の頭蓋骨を掘り出し、草津に運んで盛江の墓下に埋めたという話が伝わる。昭和12年、吉和屋本家の墓を海蔵寺へ移葬する際、盛江の墓を掘り起こすと、下から頭蓋骨が出てきたという。これは鹿介だろうということになり、海蔵寺の新たな盛江の墓裏の松の根元に埋めたという。この話を浄教寺の奥様に尋ねると、「かつて草津には当寺しかなく、この地で亡くなった人は皆ここへ土葬されました。したがって、境内を掘れば頭蓋骨などはあちらこちらから出ます。本堂改修の時も出る度にお経をあげました」と笑って答えられた。ここにいう鹿介の頭蓋骨が本物だとすると、徳雲寺のはというのは野暮というものだ。

〈法号について〉
鳥取県鹿野町に幸盛寺という寺がある。亀井新十郎茲矩(鹿介の妻の妹婿)は、鹿野にあった光盛寺に、備中観泉寺から鹿介の遺骨を分骨し、鹿野山幸盛寺と改称して鹿介を弔った。その法号は観泉寺の「幸盛院鹿山中的居士」とは異なり「幸盛寺殿潤林浄了居士」である。元和3年(1617)、その子亀井政矩の時、津和野へ転封となった。その津和野亀井家で奉祀されている鹿介の法号は「潤林院幸盛寺殿大誉浄了居士」という。

〈最後に〉
「しかのすけ」は「鹿介」であって「鹿之助」や「鹿之介」ではない。彼の自筆状にそのように自筆しているのだから異論の余地はない。しかし、現在でも中央の出版社から出される高名な学者や作家の書物には依然として鹿之助や鹿之介が用いられている。彼らは鹿介自身の署名より、江戸時代の軍記物の方が正しいとでも思っているのだろうか。地方の研究成果を汲み上げようとしない中央の態度を悲しく思う。という言葉で藤岡大拙氏は『山中鹿介紀行』を結ばれている。鞆に建つ「山中鹿之助首塚」の表記も訂正したほうが良いのではないだろうか。鞆から始まり鹿介を追いかけてあちらこちらを訪ねてみた。目を閉じると、高梁川の白い河原は血と涙で染まり、川面に流れる風音やせせらぎさえ怒号と化した。その恨み辛みはすべて終わった過去のこと。ノーサイドであってほしいと願うけど、その問いかけに答は返ってこない。
参考書籍
『尼子物語』『山中鹿介幸盛』『新雲陽軍実記』『月山史談』
妹尾豊三郎・ハーベスト出版
『山中鹿介紀行』藤岡大拙・山陰中央新報社
『山中鹿介のすべて』米原正義編・新人物往来社
『新釈備中兵乱記(中国兵乱記収録)』加原耕作編著・山陽新聞社
『安西軍策』石黒吉次郎・勉誠出版
『陰徳太平記』米原正義校注・東洋書院
『備後叢書』『続備後叢書』歴史図書社
『備前軍記』国会図書館電子書籍
『小説山中鹿之介 英雄にっぽん』池波正太郎・集英社文庫
『山中鹿之介』高橋直樹・文春文庫
『山中鹿介』童門冬二・人物文庫


『文化財ふくやま』第47号

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