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備後の歴史を歩くコミュの圓光寺 尾道市御調町今田

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圓光寺 尾道市御調町今田
真言宗 青龍山 西国寺末 本尊 不動明王
 『圓光寺縁起』 (http://www.enkouji.net/ より引用)「開基不詳であるが、承元二年(一二〇八)に四国讃岐の善通寺徒弟秀栄により再興されてから、およそ八百年以上の歴史を持つ真言宗寺院である。その後、歴代山主によって密教道場として栄え、現住職は三十世になる。建立当初は現在脇侍仏の阿弥陀如来が本尊であったが、永禄三年(1560)頃千葉豊後守入道が下総國(現在の千葉県)から招来した不動明王に本尊が代わり現在に至る。山号の「青龍山」は、農村地域であるゆえ五穀豊饒のため龍神に雨乞いの願いをこめて「龍」の字を用い、圓光寺が御調八幡宮の東に位置するため東方を意味する「青龍」を山号にしたと思われる。平成十六年に統廃合となった今津野小学校の前身である「開明舎」の創立当時に校舎となる」引用ここまで

 大正十二年編纂『広島県史第二編社寺志』には「千葉豊後(初御調郡栗原村に来住、後に今田に移る)建立という。芸藩通志には承元二年(1208)、僧秀栄讃岐より来たり再興すとあり」と記載され、その『芸藩通志』の全文を引くと「圓光寺 今田村にあり、青龍山と号す。傳云、承元二年(1208)、僧秀栄、讃岐より来たり、再興す、本尊仏は千葉豊後関東より携来たりて安置せりといふ。大般若経四百巻を蔵す、巻尾に尾張左馬頭有宗とあり」と紹介している。また、同書「天満宮の項に「今田村にあり、建保四年(1216)丙子、千葉豊後入道初めて建と云」とある。

 『芸備風土記 備後風土記巻之四御調郡』 (享和三年(1803)勝島敬輔著)には「今田村、青龍山、圓光寺は承元三年(1209)己巳、千葉豊後、関東より下り同郡栗原村に住す。夫より今田村へ来たり建立のよし。又、圓光寺の鎮守天神社も、建保四年(1216)丙子、右豊後の建立のよし」。『芸備風土記』と同じ頃に編纂された『西備名区』には「青龍山、圓光寺 承元三年(1209)、千葉豊後入道直翁建立とそ」また「今田村産社、天満天神社 建保七年(1219)己卯、千葉豊後入道建立すと」あり、天神社の創建年代が食い違ってきている。『芸藩通志』はこれらより後に編纂された。

 前記した円光寺ホームページに載せられた『圓光寺縁起』では、千葉豊後なる人物が不動明王を携えて下総国から来たのは永禄三年(1560)頃と記している。これだと相方猫地蔵で紹介した千葉修理之進の墓碑に刻字された「後裔千葉豊後守元胤は、下総国千葉郷に住す。文明10年(1478)、備後国三原城主小早川隆景公に招かれ、世羅郡栗原東西今田本城五百貫を賜った」の中の文明10年(1478)を永禄三年(1560)頃に直せば、ここにいう千葉豊後は千葉豊後守元胤ということになる。世羅郡栗原は御調郡栗原の誤記だと思われ、現在の尾道市栗原町であるが、同碑文には「天文17年(1548)7月10日卒去」また、千葉修理之進が猫退治をしたのが天正2年(1574)であるから、混乱は深まるばかりだ。それぞれの地誌は承元三年(1209)頃、関東から降ってきた千葉豊後の創建とし、さらに萩八幡宮なども創建したことが記されている。下総から栗原に来て今田へ移り、さらに芦田町潮崎山へと移った千葉氏の足取りをもう少し追ってみよう。

 『芸藩通志』に「今田村今田氏」として次のように記されている。「先祖、千葉豊後、関東より来りて、栗原村に居る。其に豊後、軍功ありて、上里實秀より、今田村及び、門田村の内を給す。よりて今田村に移り、氏をも改む。第五世肥後が代、農に降る、第六世、五右衛門より、世々里職をなす、今の来蔵まで、凡十一代、家に感状二通を蔵す、上里氏より、第五世の今田新五郎へ授る状なり。」これによると、千葉豊後の末裔は代々今田村に居たことになる。

 次ぎに『西備名区』「栗原村栗原城」の項、「千葉豊後入道直翁 傳云。建仁年中、梶原平三景時と一味せるより聞へて知行を削られ、本領千葉を収公せられ、備後国御調郡を賜り此に下向し城築て住す。本州千葉は此子孫なり。後、在名を称して栗原を以て氏とす。承元三年、今田村圓光寺建立す。建保七年、同村天神社建立す。後略」また同書「栗原豊後守」の項に、「同 左衛門尉元政 天文年中、毛利家に従い、芦田郡常村へ移るとそ。建仁より天文に至るまで三百四五十年、此の間十余世、其の名字闕(かける)。或云、千葉豊後入道、後、芦田郡有地村支村相方村に住す。此の子孫繁栄し、今凡五十余家、皆後藤と称す。天正の比、後藤修理之進と云う人あり、有地元盛に客居たりしと云。按に。千葉は平姓、後藤は藤氏(ふじわら)なり、二姓混同の説子細あるべし」

 千葉から備後国御調郡栗原村へ移り、次ぎに今田村へ、ここで圓光寺、天満宮、また萩八幡宮などを建立し、さらに相方へ移った千葉氏。弓の名手として名を馳せ、浄土寺での化け猫退治の昔話にも登場した。『西備名区』編纂の頃には後藤と称し、五十余家と繁栄したことは史実であろう。

 山門をくぐった正面に建つのは庫裡である。寛政元年(1789)に建立され現存している。その時の住持は円英阿闍梨である。残念ながら十八世以前の記録が喪失している。入母屋造の屋根は現在金属瓦で覆われているが、その下は茅葺である。小屋組を見せていただきたく呼び鈴を押したが、残念ながらお留守だった。庫裡の左側に「本尊不動明王」の扁額を掲げた本堂が建つ。庫裡と同じ入母屋造で、妻飾りは虹梁大瓶束。こちらの建立年はわからないが庫裡と比べると新しい。墓地の片隅に、発掘された古い五輪塔などの墓石が一まとめにされていた。千葉豊後の墓石もこの中にあるのかも知れない。

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.6.11.112N34.29.53.902&ZM=8

コメント(2)

『芸藩通志』に、栗原に「豊後塚」という古墓があり、これは千葉豊後の墓かという記述がありました。

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