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備後の歴史を歩くコミュの今田天満神社 尾道市御調町今田

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今田天満神社 尾道市御調町今田
建保七年(1219)千葉豊後入道直翁の創建で、享保十九年(1734)川南天満の田中より現在地に遷座したと伝える。(広島県神社誌)

『芸藩通志』には「天満宮 今田村にあり、建保四年(1216)丙子、千葉豊後入道初めて建と云」とあり、同書「圓光寺」の項に「圓光寺 今田村にあり、青龍山と号す。傳云、承元二年(1208)、僧秀栄、讃岐より来たり、再興す、本尊仏は千葉豊後関東より携来たりて安置せりといふ。大般若経四百巻を蔵す、巻尾に尾張左馬頭有宗とあり」という。

また『芸備風土記 備後風土記巻之四御調郡』(享和三年(1803)勝島敬輔著)には「今田村、青龍山、圓光寺は承元三年(1209)己巳、千葉豊後、関東より下り同郡栗原村に住す。夫より今田村へ来たり建立のよし。又、圓光寺の鎮守天神社も、建保四年(1216)丙子、右豊後の建立のよし」とある。

『西備名区』は「今田村産社、天満天神社 建保七年(1219)己卯、千葉豊後入道建立すと。青龍山、圓光寺 承元三年(1209)、千葉豊後入道直翁建立とそ」とある。

千葉豊後入道直翁なる人物は、新市町相方猫地蔵の浄土寺で猫を退治した千葉修理之進の先祖と考えられる。下総(千葉県)から御調郡栗原村へ移り、さらに今田村へ移った。菩提寺として承元二年(1208)か承元三年(1209)頃圓光寺を建立し、その守護神として今田天満神社を建立したのだろう。その年代は『芸藩通志』では建保四年(1216)、『西備名区』では建保七年(1219)である。さらに千葉豊後入道直翁は仁治2年(1241)、萩八幡宮も建立している。千葉氏は元は桓武平氏であるが、後に源頼朝に与した。

以下http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htmから部分引用
鎌倉時代の建仁年中に梶原景時に一味同心した千葉豊後入道直翁が、下総国の所領を没収されて備後国御調郡栗原村に移り住み、栗原を称した。承元3(1209)年、御調郡今田村の円光寺を建立したと伝わる。さらに建保7(1219)年には今田村に天神社を建立している。一方、今田には小城千葉氏を祖とするとされる今田氏がいたという。千葉豊後入道直翁はのち、芦品郡有地村の支村・相方村へ移り住み、子孫は後藤を称したという。有地元盛の配下に後藤修理進がいたという。千葉豊後入道直翁の子孫で芦品郡常村の芦浦城主・栗原左衛門尉元政がいた。彼は毛利家に属して「元」字を給わったのだろう。毛利家より芦浦城を給わった。その一族と思われる栗原左京亮は、天文20(1551)年、毛利元就に従って尼子氏の支城・備後国瀧山城攻めで功績を挙げたという。引用ここまで

上記にあるように、下総の所領を没収された千葉豊後入道直翁は、小城千葉氏を祖とする今田氏を頼って備後国御調郡まで遙々やってきたのだろうか。今田天満神社はこんもりとした社叢の頂上付近に鎮座している。まるで古墳のようであるが、左側に携帯電話の鉄塔が建てられた。本殿は一間社流造である。左右に軒を支える補強材が施された。

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.6.3.350N34.29.55.060&ZM=10

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