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備後の歴史を歩くコミュの城大明神社 御幸町下岩成

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城大明神社 御幸町下岩成に鎮座する。

 西備名区「下岩成村」の項に「城大明神社 宗岡成満の霊を祭る」とある。また、「宗岡城 平地にして、即、城大明神を祭る。社地彼城跡なり」 宗岡城の跡地に宗岡成満を祀ったのが城大明神だと書かれている。

 福山志料には「城ト云所ニアリ 宗岡播磨守成満ヲマツル 成満ハ此村ノ古城主ナリト云」「古城 今ノ城大明神ハ成満ノ城跡ニテ神ハソノ霊ナリト云」西備名区と同じ内容である。

 大正12年編纂広島県史第二編社寺志には「下岩成村」の項に、城大明神社の鎮座地字名を竹田とし、祭神はタケミカヅチとしている。タケミカヅチはフツヌシとともに出雲国譲神話に登場する。大国主命の次男タケミナカタと勝負し、これを簡単に負かした。タケミナカタは諏訪まで逃げて、この地から一歩も出ないことを条件にタケミカヅチに許しを請うた。そして諏訪大社の祭神となった。大国主命は出雲大社に鎮まり、それまで大国主命が治めていた葦原の中国はアマテラスのものとなった。同じ竹田地区に大国主命を祀った出雲神社があるのが面白い。

 さて、この近所には下岩成村の村社に列格した深草神社が鎮座する。A☆KIさんによると、深草神社は「下岩成の氏神様で、元禄10(1697)年、時の庄屋岡本伊右衛門と勘十郎が発起し、助五郎の所持する信塚といわれる屋舗を村中で買い取り、社殿を造営しました。この時、水野氏が使っていた宗岡の茶屋を壊し、材料を使ったと思われ、本殿には「抱きおもだか」の家紋のある瓦が今に残っています(御幸町の史跡散歩)」という。また、平井隆夫氏は著書「おもしろふくやま史」で「宗岡茶屋の地に深草大明神が建立されています」と記されている。

 この2説は深草神社の鎮座地について矛盾している。地元では「助五郎の所持する信塚に宗岡茶屋を壊し、材料を使ったと思われる」というし、一方で平井氏は「宗岡茶屋の跡地に建立した」といっている。

 私は、第2代福山藩主水野勝重が、寛永20年(1643)の6月中までに建てるようにと指示した宗岡茶屋と宗岡城、またその跡地に建立されたという城大明神は何か関連があるのではないかと想像する。たとえば、宗岡城趾に水野家により御茶屋が建てられた。元禄10年頃に御茶屋の廃材が下岩成村に下賜されて「助五郎の所持する信塚」に時の庄屋等の手で深草神社が建立された。そして宗岡城趾には城跡を示す城大明神が建立された。

 住宅地図で城大明神を探すと、竹田集会所の敷地に社名はわからないが1社ある。城大明神はこれに違いないと訪ねてみたが、それは大国主命を祀った出雲神社であった。他にあてもなく深草神社へ行ってみた。ゴミ置き場の掃除をされていた人に城大明神について尋ねたら「あれ」と言って指を指す。その方に目をやると、目と鼻の先にそれらしい社屋があるではないか。城大明神を示すものが何か無いかと検索していると、今は付近の3軒で管理されているというご婦人が出てこられ「ここが城大明神です」とお墨付きを頂いた。「竹田」という字名が気になりそれを確認すると、ここは「竹田」で間違いないとのこと。深草神社のある川向こうからが「下組」となるらしい。加茂福山線が竹田地区を分断している。

 ここが間違いなく宗岡城跡である。付近には大きなスーパーや民家が建ち並び、城跡を示すものは何一つ無いが、城大明神だけは今もこの場所に鎮座している。梁に棟札を見つけた。墨書であるがかなり薄く読めそうにない。それでも目をこらすと「奉再建 城大明神社 御覆?屋」「嘉永二年己酉歳 庄屋高橋吉郎意信 十二産子 大工川原濱蔵 四月吉祥日 遷宮○○○○」などが読めた。嘉永二年は1849年である。

 深草神社地が「信塚」で、ここ宗岡城跡に建てられていた宗岡茶屋の廃材を使って深草神社の社殿が建立されたのではないだろうか。そして宗岡城趾には城大明神が創祀された。それは水野家がお家断絶となる元禄10年頃のお話である。いかがであろうか・・・。


写真

左:社地と社殿
中:ご神体は宗岡成満かタケミカヅチか・・・?
右:棟札

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.21.0.278N34.32.17.308&ZM=10

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