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備後の歴史を歩くコミュの「浦上四番崩れ」と福山

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 キリスト教が日本に伝来したのは、天文18年(1549)8月15日、宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことに始まる。織田信長は鉄砲をはじめ進んだ西洋文化を受け入れたが、豊臣秀吉は一転し弾圧した。江戸時代においても引き続いてキリスト教を禁教とし、全ての国民はいずれかの寺の門徒に属し、寺に戸籍を管理させるという寺請制度を始めた。キリシタンは表向きは仏教徒を演じながら、隠れてキリシタンを貫いた。見つかれば厳しい罰を受けるが、それに屈することなく信仰を続けた人々は「隠れキリシタン」と称された。隠れキリシタンは組織的な弾圧を受けることを「崩れ」と称した。過去三回の「崩れ」の後、明治維新を前後に想像を絶する「崩れ」が起こった。長崎県浦上地区での出来事で、この弾圧を「浦上四番崩れ」と称する。

 頑なに鎖国政策を続ける江戸幕府は、唯一長崎をオランダや中国の窓口として認めた。ところが嘉永6年(1853)、ペリー来航を機に開国の流れが進み、安政5年(1858)にはアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5カ国と修好通商条約を結ぶに至った。一気に欧米の新風が日本に流れ込んだ。その条約の条文には「日本国内でそれぞれの5カ国は自国の宗旨を自由に信仰でき、その居留地へ宮柱を建てることを妨げない」という内容が明記された。これに従ってフランスは元治元年(1864)、長崎の南山手居留地内に教会を建てた。「大浦天主堂」である。豊臣秀吉によって殉教した26人を偲び「二十六聖人教会」と命名された

 大浦天主堂建立が契機となり、地下深くに潜伏していた隠れキリシタンは少しずつ表に現れるようになる。天主堂は地元では「フランス寺」と称され、門前は見物人で溢れた。長崎奉行所は門前に番所を構えて見物人の挙動に目を光らせた。浦上村は村全体が組織的な隠れキリシタンであった。見物人を装った浦上の隠れキリシタン達がついに天主堂の前に現れた。

 浦上村の檀那寺は浄土宗聖徳寺である。死人が出ると聖徳寺は読経をし納棺まで立ち会うが、村民は納棺が終わり僧侶が帰ると直ちに棺を開けて、仏教的な印を取り除いてからキリスト教に順って埋葬し直していた。後に聖徳寺に知らせることなく埋葬したことが判明し問題となった。これが「浦上四番崩れ」の発端となる。

 開国という新時代を迎え、天主堂のマリア像を目の当たりにした浦上の隠れキリシタンは慶応3年(1867)、聖徳寺による葬式だけではなく、寺請制度それ自体を拒否しキリシタンであることを宣言した。長崎奉行所は6月13日、男女合わせて68名の浦上村民を捕らえた。これに対し外国の公使達は猛抗議した結果、宣教師の浦上への立ち入りを禁止する代わりに捕らわれた人たちを帰村させることで決着したが、江戸幕府は大政奉還し禁教政策を残したまま明治新政府へと引き継がれた。明治政府は「切支丹邪宗門之儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者之有レバ、其筋之役所ヘ申出可 御褒美下被可事」として、邪教禁止政策を続けた。これにより浦上の中心的信者26名を捕らえ改宗を迫るが、全員が殉教覚悟でまったく改めなかった。三条実美・木戸孝允・伊達宗城・後藤象二郎・由利公正ら政府要人は改宗にどうしても応じない浦上村民に対し、ついに3,380人の配流処分を決定し、備後福山藩には96人名の浦上村民が送られてきた。

 第一陣として114人の中心的人物が移送された。移送先と人数は、萩・66人、津和野・28人、福山・20人である。明治元年5月26日に鞆で受け取ったという受取状が遺っている。浦上のキリシタンは流罪のことを「旅」と称した。長崎を出航し下関で萩に送られる66人が下船。尾道で津和野に送られる28人が下船。残りの20人は鞆に向かった。福山に送られてきた20人のうち19人は改宗したというが、ただ1人「茂市」だけは改宗に応じていない。その茂市は明治4年に脱走し全国に指名手配された。その手配書が愛媛県に遺っている。

 国家神道を掲げる明治政府は、どんな拷問にも屈しないキリシタンを許そうとはしなかった。しかし、諸外国は明治政府が行う宗教弾圧に黙っていない。世界各国から非難され猛抗議が続いた結果、明治6年2月24日に切支丹禁制の高札が撤去。3月14日、ついに「長崎県下異宗徒帰籍」が命じられた。これを受けて4月7日、和歌山県に収監されていた53人を先頭に1,930人が浦上に帰された。流配された3,380人中562人は死亡し、改宗に応じた者は1,212人であったという。福山に送られた総員は96人。改心者3人は前年に帰村が許され、明治6年は帰村87人、逃亡1人、死亡7人、誕生2人。「いよいよ故山の土を踏んだのは陽暦4月18日であった」と記録されている。

 明治4年、外務大丞楠本正隆が、信徒を預けた諸藩について状況を調査した報告書が国立公文書館にある。それによると福山分は次の通りである。

○楠本外務大丞外一名御預藩々巡回処分ノ儀届各藩報告、福山県報告90人(男45人・女45人)で、その内訳を記すと、?新町脇元疂役所・12畳10室、便所4室と5室の2カ所、手業場、教諭場、風呂、釜屋、番人兼焚出場、人数不明記。?笠岡町続元船入場・20畳部屋、異宗徒改心之者7人、子供2人、三畳畳所、合計9人。?東堀端元割所・8畳5人、15畳8人、12畳5人、17畳18人、10畳8人、10畳8人、焚出場2室、風呂2室、便所3室、番所、土間2室、合計52人。?深津村元坐床・番人詰所、便所5室、風呂、18畳異宗徒之者16人、12畳7人、12畳5人、焚出場、合計28人。以上4カ所に別けられて収監された。90人から人数明記分を差し引くと1人となる。この1人は脱走した茂市とすれば、この報告の時点で新町脇元疂役所には1人もいなかったことになる。茂市の脱走は明治4年4月11日であり、この報告書の日付は明治4年7月となっている。後にこの場所へ一家族ずつ移された。

 さて、福山における浦上キリシタンの流罪生活はどんなだったのだろう。

○異宗門徒人員帳 (明治4年現在)
「明治元年戊辰年五月御預異宗徒二十人」
但男二十人同月廿六(二十六)日 当管下鞆津ニ而受取
「明治二己巳年十二月御預異宗徒七十六人 内男二十九人 女四十七人」
同月十二日 当管下鞆津ニ而受取

○福山藩請け取り状(明治元年5月26日)
従 朝廷御沙汰御坐候 此度御惣督御書付之通異宗信仰茂市他十九人、当国迄預け被仰付無相違請取申候 以上

「明治元年戊辰年五月二十六日御預異宗徒二十人」は次の通りである。
黒蔵47歳・寅吉41歳・徳蔵39歳・茂十郎64歳・茂市34歳・順右衛門65歳・甚右衛門47歳・兼蔵24歳・吉蔵44歳・茂作36歳・光蔵54歳・利助64歳・吉郎治53歳・金三郎32歳・宇太郎29歳・仙吉25歳・吉松32歳・吉松54歳・多八(歳未記載)・定助44歳

 この20人の中で、茂市は明治4年4月に脱走。また順右衛門65歳は明治2年2月25日、吉蔵44歳は明治3年10月朔日、宇太郎29歳は明治3年6月22日に死去。明治2年に送られてきた中では、徳蔵39歳の母「きち68歳」が明治2年12月16日に死去している。鞆での受取日が12日であるから、その4日後ということになる。冬の長旅が原因したのかもしれない。葬地は城下寺町大念寺・深津郡三吉村専故寺とある。専故寺は昭和20年の福山空襲で焼失、以来廃寺となる。大念寺にはなにか証明できるようなものが遺っているのだろうか。

 明治2年12月に送られてきた76人の中には?黒蔵47歳の妻まき39歳・母みせ68歳・倅藤之助15歳・娘けい22歳・わき20歳・みさ18歳・ふじ11歳・みす8歳・すみ6歳がおり、黒蔵の家族は福山で一家揃って再会を果たした。他に家族が揃ったのは、?茂十郎64歳、妻きさ55歳・倅茂市34歳・二男峰吉24歳・娘わい21歳。?竹松44歳、妻てい41歳・倅松次郎14歳・二男松蔵9歳・娘まつ6歳・さい4歳、?光蔵54歳、妻みつ49歳・倅市次郎37歳・二男吉太郎27歳・娘きみ25歳・きみ娘わき6歳・妹この36歳・姪すか5歳・市次郎妻いと35歳・倅豊吉12歳・娘きの9歳・娘つね7歳・きち4歳。?利助64歳、もせ64歳・市右衛門24歳・米三郎22歳・この19歳。?吉郎治53歳、妻たい41歳・倅忠三郎15歳。?仙吉25歳、母えん48歳・妹うた26歳。以上7家族45名である。男性名は漢字で、女性はひらがなで表記してある。竹松44歳は一家揃って明治2年に送られてきた。また大浦天主堂を見学し、そこでプチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを告白した「エリザベトゆり」の名も福山藩異宗門徒人員帳に見える。ゆり58歳の夫は記されていないが、息子・幸太郎29歳は信者ではなかったために浦上に残ることができた。しかし戸籍上は切支丹となっていたので、1ヶ月ほど遅れて伊賀の上野へ送られたが、早速改心の続きをし自由の身となり、上野で所帯を持ち浦上には帰らなかったという。その妻「みと31歳」の当時15歳になる娘「せつ」が福山での「旅の話」を語っている。送られた各地で語られた「旅の話」を浦川和三郎氏がまとめて「旅の話」を著された。それを抜粋要約して紹介する。

 「旅の話・・・婦女子67名は明治2年12月7日、久留米藩帆船に乗船し8日朝出帆した。14日暮れに鞆着。10人ずつを一組にして腰縄を入れ鞆の寺院へ案内された。福山の役人は高木甚五右衛門という。鞆から福山までは三里ばかりもある。船がよいか陸行にするかと希望を問われて、一行中には老人もいれば子供もいる。陸行では難渋します。どうぞ船にしていただきたいと願った。船には子供のためにとて蜜柑を積み、便器までも備えてある。なかなか用意周到である。夕方芦田川を遡って福山に着いた。2年前に流された男子は川の土手に出て歓迎した。城の門を二つも通り抜け、堀端のワルショ?とかいう備後表を納める大きな蔵の中に入れられた。坐床とは半里以上も隔てている。蔵の中は真っ暗。一年有余の間というものはまったく燈火を見ることができなかった。実は燈油・木炭・ちり紙等、日常生活に必要なものは一切支給されたのであるが、役人達が着服して、信徒の手に渡さなかったのだ。もっとも福山の役人は比較的心掛けの善良な方で、食物だけは無暗に削らなかった。女には四合、男には七合ずつ支給した。副食物は梅干しの種ばかりになったのや、生大根の漬け物やで、別に五人前に味噌一斤を与え、十五日に一度ずつは味噌汁もすすらせてくれたので、飢渇に泣くような憂いはなかった。夜具は二人に一枚ずつ備え付けてあり、衣服も夏と冬にはそれぞれ着せてもくれ、他藩から見ると頗る厚遇した方である。・・・」

 福山は厚遇したとある。その裏付けとなる資料もある。それは他藩は「改心」した人が多い中で、福山だけは収監96人中全員が異宗門徒人員帳に「不改心」と書き込まれている。「不改心」でも許されたのだろう。他藩では厳しい取り調べや拷問が語られている中で、福山での話にそれらは一切出てこないのは「旅の話」を読んでいて救われる。「改心」を強いることはなかったようだ。

 「旅の話・・・改心を取り消したからとて、何等の咎めもなく、燈油にせよ、木炭にせよ、不足なく給付した。退屈だろうから内職でもするがよい、と許可してくれたので、男子は網結を、女子は綿種の選りだしをやり、夜になると室を抜け出て、二里三里の遠方にでも売り歩いたものだ。不自由があれと思うことがあれば何でも申し出よ、と云ってくれたが、もう不自由はない。戦いは終わったのだ。なるほど随意に室を出ることだけは許されない。御用も始終あった。然しそれは単に形式だけで、「改心しません」と言いさえすれば、それで済む。一つも面倒なことはなかった・・・役人の中にも松本と云うのは特に心の善い人で、信徒に深く同情を寄せ、頼みさえすれば何でも懇ろに周旋してくれる。・・・ある日のこと彼(松本)は「みとさん(エリザベトゆりの娘)、必ず改心するな。改心してもせぬも帰国させられるのじゃ。改心せずにいると、勝ちの旗を立てて帰れるじゃないか」と言ってくれた。こんな塩梅で番こそ附いているが取り締まりは至極ゆるやかだった。門側に劇場があって、信徒は四十人ずつ無料入場を許されていた。信徒の中には隠れて神戸へ走り、告白をするものもあった。明治六年帰国の命が下ったときも、幾人かは神戸へ行っていたので、やむを得ず、その旨を告げて猶予を乞うた・・・」

 「明治二年、福山藩預けとなったのは多く前者の家族で、男子九名、婦女子六十七名であった」とある。前者とは明治元年の男子20人であるが、明治2年の正確な男女の内訳は「明治二己巳年十二月御預異宗徒七十六人 内男二十九人 女四十七人 同月十二日 当管下鞆津ニ而受取」である。9人は成人男子で12月4日に先発し、残り20人の男児と47人の女性を合わせた婦女子が67人ということである。その9人の成人男性は先の20人と同じ坐床に収監された。国立公文書館の「深津村元坐床」番人詰所、便所5室、風呂、18畳異宗徒之者16人、12畳7人、12畳5人、焚出場、合計28人と一致する。1人足りないのは脱走した茂市だ。また、「芦田川を遡り・・・」とあるが、入り川の間違いだろう。入り川の先端に「坐床」があった。その前を67人の婦女子を乗せた船が通ったのだ。また、「茂市一人を除いて他は悉く改心した」とあるが、翌年に家族が送られてきて再会が叶うと改心を取り消した。「男女を畳会所の蔵に移して、一家族ずつ住むことにした」とある。この「畳会所」とは「新町脇元疂役所」で、12畳10室、便所4室と5室の2カ所、手業場、教諭場、風呂、釜屋、番人兼焚出場。人数は不明記であるが、部屋割りは家族ごとであろう。

 福山に着いた67人の婦女子が最初に連れて行かれた「城の門を二つも通り抜け、堀端のワルショ?とかいう備後表を納める大きな蔵の中」この「ワルショ?」は「東堀端元割所」の「割所」を指した言葉だと思う。「文化財ふくやま第45号」で佐道弘之氏は、福山駅前に発掘された舟入遺構を検証し、「舟入部分の埋め立てであるが、舟入より御水門に上がる雁木は、新しく石垣を設けて封じ、舟入の堀は何是か旧来の石垣の天井まで埋めずに1.9mの差を持たせて、堀の水位よりわずか30cmの高さの埋め様であり、また石垣に沿った部分は水路状にして埋めていない。要するに埋められた部分は石垣と水路に囲まれた状況−風通しの悪い低湿地であったことが想定される」とし、この場所が何に利用されたのかについて3つの推定をされている。その3番目に「長崎(浦上)のキリスト教徒の収容所か」とした論考を記されている。「廃藩直前福山城絵図」によると「会所(絵図?)」は現在福山駅前の釣人銅像のあたりに所在した。「ここに子女達は移されたのではないか。明確な資料をさがし得ないが居住状況を推察させるものを次に記すこととする」とあり、東京阿部家文書の中から「一、男子之分座床へ差置 婦人小児之分は元割処へ差置いつ連茂番人附置取締向厳重申付置候事」を示されている。国立公文書館が所蔵する「東堀端元割所」の建物図面と、舟入遺構から発掘された建物跡が一致すればそれは証明できるだろう。また同絵図に「新町脇元疂役所(絵図?)」と「深津村元坐床(絵図?)」も描かれており、場所は特定できる。「笠岡町続元船入場」は絵図?が御船入で配流キリシタンの墓所となった大念寺(絵図?)にも近く、この付近であろう。

 絵図?は「獄舎」と記入されているが、土肥勲氏は「文化財ふくやま第26号」で大日本外交文書第4巻より「右懸庁より十町餘懸隔せし笠岡町井堀割又廰より十五町餘を相隔て深津村元座床三ヶ所の明き建家の内え先に間切りいたし配分有之候処聊不都合の廉も有り之候間右廰官共申談新町に有之元畳役所明き居候間営繕を加え右三ヶ所人数盡く右場所え引纒候様いたし置候事」から「笠岡町井堀割と場所を指定しているので獄舎では決してない。・・・井堀割とは水野家時代の城下町形成に伴いつくられた上水道用の堀割(小溝)であり、これに沿って配流者を収容する適所としては、俗に「大露地(おおろじ、絵図?付近)」と呼ばれていた一画が存在していたのである。・・・東と南からの入り口を封鎖すれば、全くの袋小路となるこの一画は、明治新政府から預かった配流キリシタンを収容するには、外部との接触を断つにも格好の場所であり、明治四年(1871)楠本正隆の巡視後、住吉神社東隣りの畳会所へ移されて家族と一緒になるまで、この場所に第二次配流の男子九名は過ごしたと確信している・・・」と大露地を比定されている。しかし、国立公文書館の「笠岡町続元船入場」建物図面は南北に長く画かれており、土肥勲氏の示された東西に長い「大露地」とは異なる。南北に長いのは、やはり「獄舎(現大黒座付近)」ではないだろうか。さらに「この場所に第二次配流の男子九名は過ごしたと確信している」とあるが、第二次配流の男子9人は成人男子であり、「笠岡町続元船入場」は「20畳部屋 異宗徒改心之者7人、子供2人、三畳畳所」とあるように、この報告書が出された明治4年時点で改心したもの7人(男女不明)と子供2人のあわせて9人が収監されていたことになる。

 今から140年ほど前、長崎県浦上の全村民3,380人が総流罪に処された。そのうちの96人が福山に送られ、帰村が許された明治6年までの6年間、この地で収監生活を強いられた。人としての生き様があったはずであるが、福山市民から忘れ去られた。土肥勲氏は「文化財ふくやま第26号」に記された「配流福山のキリシタン物語」補稿を「ただし、この一画(大露地)にキリシタンが囚われていたという話はまったく伝わっていない」という言葉で結ばれている。この事実を忘れてはならないのだ。

 浦上に帰村を果たした信徒達は、明治13年(1880)に浦上山里村の旧庄屋「高谷屋敷跡」を買い取り、地道な勤労奉仕と献金活動を続け、ついに大正3年(1914)3月、浦上天主堂を完成させた。しかし、この天主堂は昭和20年(1945)8月9日、アメリカによる原爆投下により壊滅。12,000人の信徒のうち8,500人が被爆死した。これをいうなら「浦上五番崩れ」であろう。

参考
片岡弥吉「浦上四番崩れ」
浦川和三郎「旅の話」
「文化財ふくやま」第25・26・45号
「芸備キリシタン史料」

コメント(33)

廃藩直前福山城下地図(部分)

?会所「東堀端元割所」か・・・?
?畳役所「新町脇元疂役所」確定
?座床「深津村元坐床」確定
?御船入(埋立とある)
?大念寺
?獄舎「笠岡町続元船入場」か・・・?
?大露地「笠岡町続元船入場」土肥勲氏比定地

明治4年
楠本外務大丞外一名御預藩々巡回処分ノ儀届各藩報告に添付された建物図面
国立古文書館所蔵

左:「東堀端元割所」
右:「新町脇元疂役所」
明治4年
楠本外務大丞外一名御預藩々巡回処分ノ儀届各藩報告に添付された建物図面
国立古文書館所蔵

左:「深津村元坐床」
右:「笠岡町続元船入場」
訂正

誤 国立古文書館所蔵−> 正 国立公文書館所蔵

コメントの修正機能が欲しいです・・・。



?会所ですが、こちらは侍用だと思われます。
町人用には、町方会所というのがありまして、上記についてはこちらではないでしょうか。
東堀端というのも、外堀東側沿いということですので、位置的にも一致しています。
>たましんさん

「旅の話」に「城の門を二つも通り抜け、堀端のワルショ?とかいう備後表を納める大きな蔵の中」とあります。ここをを国立公文書館の「東堀端元割所」に比定しました。旅の話だと「ワルショ」は城内ということになります。

備陽六郡志に「割所」は「築切の南の木蔵」とあります。地図では築切りの東に米蔵があり、その隣がたましんさんご指摘の「町方会所」です。

旅の話は遠い記憶に基づいていますから、入り川を上って築切りで下船し、城の門を二つも通り抜け城内にて収監等事務処理後「割所」に移動させられたとも考えられます。

また、御舟入遺構で見つかった建物跡の寸法と「東堀端元割所」図面を精査する必要があります。

東京阿部家文書の中にこの一件に関わる文書がありまして、「護穀庵」という新たな収監場所の記載も確認してます。そちらも現在精査中であります。


収容先の地元には、何故かこの話は一切伝わっておりません。

収監場所に限ってもう少し考察し、うまくまとまれば「文化財ふくやま」に寄稿してみようかと思ってます。


「東堀端元割所」は位置的に「町方会所」が濃厚ですね。

となると、土肥・佐道両氏の考察に反旗を翻すことになります・・・。






旅の話は見たことないのですが、会所を三の丸に比定すると藩主や家老屋敷の隣に百姓を収監することになり、不自然に思えます。そもそも、その周囲には蔵藩主御屋形内にしか蔵があった記録が見当たりません。

備陽六郡志にある「築切の南の木蔵」はたぶんここ(作事小屋)のことだと思います。ここは廃藩直前絵図ではなくなっていますので、おそらく東堀端に移転したのかな?と思ったりします。
東堀端とはっきり場所を示していますからね。


埋められた御舟入遺構に発掘された建物跡ですが、図面とトイレの位置が一致しません。あそこが埋められたのはいつでしたか・・・?

明治元年から明治六年ころ、福山藩は長州に攻められている頃ですから、ここを埋め戻す暇はまだなかったでしょう。


>図面とトイレの位置が一致しません。
御舟入遺構は第1次発掘調査報告書以外に資料を持っていませんので、トイレがどのようなものかはわからないのですが、
御舟入遺構の埋められた時期についていえば、私は大正初期だと思っています。
というのは、明治末期ごろの写真をよ〜く見ると御舟入のあたりに建っている家屋の床が真っ黒ですね。これは、たぶん写真2のように半水上に建てられているからなのかな?と想像しています。そして、明治末期の写真をみると御舟入が少なくとも少しは残っているのがわかります。
以上から、明治時代までは先の発掘調査時に近い状態で残っていて、埋められたのは外堀と一緒の時期ではないかと推測した次第です。
舟入内遺構説明図をアップします。

キリシタンの収容所だったという佐道説は、「明治維新にすでに埋められて、そこに建物が建てられていた」ということが大前提となります。

やはり不可能ですね・・・。

第1次発掘調査報告書「福山城跡」によると、御船入部分が埋められた一番早い時期は、山陽鉄道買収の明治22年ですね。

大正2年には東外堀が「辻の坂」切り下げの土で埋められています。
話題からそれて申し訳ないのですが、以上に書いたことも含め、私なりに御水門周辺の遺構の変遷をまとめると次のようになります。
1.少なくとも明治2年までは枡形堀は完全な形で残っていた。
→これは古写真から明らかです。
2.御水門周辺の堀(枡形堀)の北側部分(福山駅側)が埋められる(図の赤線部分)。
→枡形堀は本来正方形に近い形状でした。御水門の階段が封鎖されたのもたぶん同時期でしょう。推測ですが、なぜ北側のみが埋められたのか?御水門の階段をなぜ封鎖する必要があったのか?ということを考えると、福山駅設置に伴う工事というのが最も理解しやすい。そのため、この部分が明治22年に築造されたと考えるのが妥当に思えます。
3.枡形部分に盛土が行われ建物が建てられる(図の茶色線部分)。
→発掘調査で検出された堀のトイレなどはこの段階と考えています。そうすると、先の御水門の辺りが凹んで描かれた地図が明治41年、写真が明治末のもので、前回「半水上」と書きましたが、「半地下」ですね。訂正します。
4.御水門の堀が完全に埋められる。
→地図を追っていくと南東堀が埋められたのは大正3〜6年と比定されます。これ以前に御水門部分のみ完全に埋めるとすると、外堀に面した部分を石垣等で塞ぐ必要がありますが、そうした痕跡はありませんので、同時期と見なすのが妥当ではないかと思います。
「深津村坐床」と「新町脇元疂役所」については場所は特定できますが、「東堀端元割所」と「笠岡町続元船入場」については不明です。

福山市文化財保護審議会の佐道会長は「東堀端元割所」を駅前に発掘された御舟入遺構を比定(文化財ふくやま第45号)され、また福山文化財協会土肥会長は「笠岡町続元船入場」を笠岡町「大路地」に比定(文化財ふくやま第26号)されました。

「東堀端元割所」については「旅の話」に「城の門を二つも通り抜け、堀端のワルショ(?)とかいう備後表を納める大きな蔵の中」と場所が示されていますが、特定には至りません。一方「笠岡町続元船入場」は「旅の話」にまったく記載されておらず不明です。ただ、改心者9人が収監されていたことが今回判明しました。

佐道氏の説は、たましんさんが示された御舟入遺構埋め立て時期で、また土肥氏の説は国立公文書館所蔵「笠岡町続元船入場」図面により違っていることが証明されました。

これらの事実をまとめて「文化財ふくやま」第46号に寄稿してみようと思っています。

収監先であった笠岡町や伏見町?辺りに、この話がまったく遺っていないこいうとが非常に寂しく思えてなりません。「旅の話」を読んで、福山ではさしたる拷問はなかったというそのことに唯一救われました。


「割所」について引き続いて何か情報があれば検討をお願いします。

土肥会長が比定された「笠岡町続元船入場」と笠岡町「大路地」の図面を載せておきます。

(文化財ふくやま第26号)

「大露地」の実寸がよくわかりません。
東西に長い「大露地」の部屋割りが図面のように南北に配置されていたのかもしれません・・・。となると、土肥氏説は正解かもしれません。
建物図面と土肥氏の比定される位置を地割、道幅などから大雑把に推測した値を見比べると合致する位置がないように思えます。
また、シンプルに「笠岡町続元船入場の大露路」を言葉通りに読み取れば、
「笠岡町⇒船入場にある大きな広場」となりますので、獄舎の位置が妥当な気がします。こうした疑問点があるにものかかわらず、「獄舎では決してない。」と言い切るのはどうなんでしょうね…
土肥氏は第2陣として先発した男子9人を「大露地」に収監されたとしていますが、阿部家文書には長崎を先発した男子9人は婦女子67人と「同日着」とあります。多分、鞆で2〜3日の時間調整の後、一緒に福山に連行されたのでしょう。そしてこの9人は「旅の話」にあるように「座床」に収監されたのであって、「笠岡町続元船入場」ではない。国立公文書館所蔵の「笠岡町続元船入場」図面に、はっきりと「改心之者七人、子供二人」と書き入れてあります。この図面をご存じなかったのでしょう。



「文化財ふくやま第26号」で土肥氏が示された疑問

?第1次配流の男子20名と、第2次のうち男子9名は共に座床の長屋に収容されているとばかり思っていたので、笠岡町にも配所が設けられていたとはまったく意外であった。それだけに収容された人と場所はどこか、これがまず第1の疑問である。

?第2陣の婦女子67名が芦田川を遡って福山に着いた。前年に流された男子20人は川土手で歓迎しているが、この出迎えの中に第2陣として先発した男子9人がいないのはなぜか。


土肥氏の見解
第2陣で先発した男子9人は「座床」ではなく「大露地」に収容された。

反論
?については国立公文書館所蔵の「笠岡町続元船入場」図面が教えてくれる。収監者は改心之者七人、子供二人である。場所については上記の通り判明しない。

?は阿部家文書が教えてくれる。先発した男子9人は阿部家文書に「同日着」と記されていることから、後発した婦女子67人とどこか(鞆?)で合流したか、合流していないにしても時間差はなく同日福山に着いたことがわかる。したがって川土手で歓迎したのは第1陣の男子20名のみである。この9人は「座床」に収監された。

「東堀端元割所」には方位が記されていません。
御舟入遺構の実測図があったので概略を描いてみました。
一間=1.8m

方位を東西に合わせると建物位置は一見合いそうですが、はみ出すことが判明しました。

一部修正しました。
>御舟入遺構の実測図があったので概略を描いてみました
建物だけでなく、この周囲の「垣」を考慮するとさらに合わないですね。

そもそも、御水門は福山城の玄関脇ともいえる位置で重臣の屋敷が立ち並ぶ場所です。そこに一時的に預かった罪人を収容するという目的のために、わざわざ手間も時間もかかる堀を埋めるという手法で新規に施設を建設することがあるのでしょうか?しかも、福山藩が金も暇も絶望的にない時期にです。また、実証的な面でも否定的な資料は多々あれど、肯定するものは見当たりません。
以上から、佐道氏の説は荒唐無稽に思え、正直なところ、このような説が文化財保護審議会会長から出されることに驚きです。
>たましんさん


いわれる通りです。先日お邪魔してお話しし、また私が書いた初稿にも目を通していただきました。


佐道氏はこれを含めて3説を披露されています。
ついでに紹介しますと・・・。

?紡績工場の女子寮か
?遊郭・料亭の所在か
?長崎(浦上)のキリスト教徒の収容所か

です。


低く埋められた場所は何に使われていたのでしょうかね?

?は「福紡」と書かれた皿、?は源氏名が書かれた杯が出土したことから推測されたのでしょうか?
それならば、同時に出土した多くの徳利から女主人の酒屋であった可能性も指摘できるはずで、要するに遺物のみから推測するのは無理があるように思います。
まず、事実として人家の痕跡が複数ある。
そして、半地下という場所に100坪程度の空間ですから、まともな家屋が立ち並ぶ姿は想像できません。また、堀の売却はまとまった単位で行われており、御水門の周辺のみ細切れで売却されることがあるのか?という疑問があります。
また、私としては先に述べましたように、堀に突出して家屋が立ち並んでいたのではないか、と思っていますので(写真1のようなかんじで)、おそらくそうした周辺住民が堀の中も使えそうじゃの〜といった感じで不法利用していたのでは?と想像しています。
参考までに外堀が残っている時代の駅前の写真をアップします。左側に御水門周囲が写っているはずなんですが…
東堀端元割所は町方会所に、また笠岡町続元船入場は獄舎に比定し、「文化財ふくやま第46号」についに投稿完了しました。

採用されますかね・・・?

46号は福山市文化財協会の発足50周年記念誌だそうです。


今回、私の目玉は国立公文書館所蔵の収監場所4カ所の間取図面です。佐道・土肥両氏はこの存在をご存じなかったようです。

たましんさんのご助言もかなり参考にさせていただきました。




「福山城に見る歴史のロマン」
発行 社団法人福山観光協会
初版 2010年11月1日


この写真が掲載されてました。
『備陽六郡志』
築切南側
木蔵 水野の御代、諸士知行百石に壹(一)人つつ役之者と名付、普請中間を差出し、此所にて毎朝場所割をしける所なり、今に至りて老人などは割場という。

この場所が明治初年頃には「元割所」と称されていたのでしょうね。
7年も経過しましたが、未だにこだわっています・・・。

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