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備後の歴史を歩くコミュの風雲の神辺城 山名理興の登場(その5)

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 理興は山名氏の一族であったが、惣領家の出身ではなかったらしい。

 備後守護としての山名氏は、時煕の代、応永八年(一四〇一)に、将軍義満から守護職を拝領したことに始まる。以後、備後国守護職は、時煕から次男の持豊(宗全)に、次いでその次男是豊に受け継がれて行ったが、応仁の乱で是豊が父に反抗して東軍に応じたため、守護職は持豊の末子政豊に与えられた。

 政豊は父亡き後山名氏の惣領として大乱の後始末にあたったが、嫡子俊豊と対立し、俊豊と但馬・備後の支配をめぐって合戦を繰り返した。この戦乱は俊豊、政豊の相次ぐ死去によって治まったかに見えたが、後を相続した致豊、その弟誠豊に往年の実力はなく、備後には北から尼子氏、西から大内氏の勢力が侵入し、山名氏の守護職は名ばかりとなった。

 しかも、山名氏の備後支配は、守護代を派遣するのみの極めて間接的なものであった。すなわち、山名氏惣領家は但馬国(現兵庫県)を本拠とし、備後には既に紹介した犬橋満泰や宮田教言、さらには太田垣氏を守護代として派遣して国内の「仕置」にあたらせた。

 ただし、一族の中には備後国内に土着した者もあった。備後杭城主と伝わる山名豊澄は、「毛利家文書」等に登場する実在の人物であったし、「但馬村岡山名家譜」には、時煕の末弟氏之の子煕之の嫡男氏明は備後神辺城主となり従五位下、宮内少輔に任官、その弟氏宗は「村尾十郎」と称し大内氏に属したと伝える。

 時煕の末弟氏之の孫山名氏明が神辺城主となり「宮内少輔」に任官したという伝えは重要である。「但馬村岡山名家譜」は氏之を時煕の弟としているが、山名家の他の系図では、氏之(幸)を明徳の乱で滅ぼされた山名義幸の弟としており、その子孫が煕之、教之、豊之と続く「伯耆守護家」であった(但馬村岡山名家譜では煕之、豊之を兄弟とする)。

 ここに郷土史書の伝える八尾城主山名氏と伯耆山名氏との「接点」が見えてきた。山名氏之の子孫の一流が備後神辺城に居城したのは、歴史的事実と見て間違いない。氏明の弟氏宗が後世には失われた神辺城の当時の名称「村尾」を名字としているからだ。

 理興は、「西備名区」が伝えるように伯耆山名氏の血を引く八尾山名氏の生まれで、同じく伯耆守護の一門神辺山名氏を継承し、神辺城主となったのであろう。それはおそらく大永末年から天文元年(一五二八〜三二)にかけてのことであった。

 大永末年と推定される備後の実力者宮実信の書状に「然りと雖も神辺和談の時に候間」とあり、神辺を巡って権力者間の妥協がなったことを国人衆に報じている(閥閲録遺漏4の2)。この「神辺和談」こそ、八尾城主であった理興が神辺城に入城し、備後南部に号令することとなった出来事ではなかろうか。因みに、この宮実信書状こそ「神辺」に関する最も古い信ずべき史料である。

 こうして理興は神辺城主となった。そして、その地位は備後守護、或いは守護代に準ずる地位であったろう。天文九年(一五四〇)理興は備後一宮吉備津神社に銅鐘を寄進した。その銘に云う「社務大願主山名宮内少輔源理興」、国々の一宮を「社務」として支配するものこそ、当時在地最高の権力者「守護」であった。

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