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備後の歴史を歩くコミュの福山市芦田町 利鎌山城と福田氏(七)

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 状況証拠から見て、天文年間、或いは弘治元年、有地氏によって利鎌山城は落城し、福田氏は滅亡したという伝承は認めがたい。

 先ず、永禄十二年(1569)美作枡形城の福田盛雅は、自らを「備後国住」人と称していることだ(東作誌所収新龍寺棟札)。もし、盛雅が本拠地を美作に移したのなら、こんな書き方はしないだろう。

 毛利氏に従った備後国人で、同氏の命で他国の最前線の城の城代を務めた例は、福田盛雅だけではない。芦田郡久佐(府中市久佐町)の国人楢崎氏は豊景以来毛利氏に従っていたが、孫の弾正元兼は美作月田山の城代を務め、宇喜多氏や織田氏の兵と干戈を交えている。

 さらに有名な例では、神辺城主杉原盛重がいる。盛重は毛利氏の後援で神辺城主となるや、毛利氏の命で山陰方面に出動し、伯耆尾高城、同八橋の城主として八面六臂の活躍をした。

 楢崎、杉原両氏とも美作、伯耆の城を任されたとは言え、それぞれの本拠地の城を放棄したわけではない。楢崎氏では、本拠の朝山二子城(府中市久佐町)は、祖父豊景、信景、或いは叔父筑後守等によってしっかりと維持され、本領の久佐は慶長五年(1600)の関が原合戦まで楢崎氏が保持した(毛利氏八カ国時代分限帳)。盛重の場合も、彼自身「伯州の神辺殿」と敬称され、「家城」神辺城には、城代所原肥後守、重臣の横山備中守が居て、盛重の留守を守っていた。

 元兼、盛重は共に毛利氏の信任の厚い国衆であった。言い換えれば、厚い信頼を得ていたからこそ、他国の重要な城を任されたのである。盛雅も同様であろう。

 このように考えると、利鎌山城を有地氏によって攻め落とされた結果、福田氏は美作に移ったという説は、成り立ちがたい。盛雅は、「家城」利鎌山を維持しつつ、美作で活動したと考えるべきだ。

 このことは、現在残る利鎌山城の遺構からも言えることである。利鎌山城の最大の特徴は、その「畝状竪堀群」にある。城郭主要部を東西に区切る堀切群の城内側の斜面は、南北両側とも3条から7条に及ぶ畝状竪堀群によって厳重に防備されている。見事なものだ。

 備後南部の城に「畝状竪堀群」が構築されるのは、永禄から天正年間(1558〜93)のことと考えられる。亀寿山城、掛迫城、志川滝山城など、天文年間(1532〜54)まで使用され、その後に利用された形跡のない城には、この遺構は見られない。利鎌山城に畝状竪堀群が見られるのは、この城が永禄年間に入っても修築が繰り返されていたことの証拠だ。

 だが、この城には、今のところ「石垣」は発見されていない。備後南部の山城で「石垣」が残っている城は限られている。楢崎氏の朝山二子城、渡辺氏の一乗山城などだが、それらの城に共通するのは、何れの城も国人の本拠として、慶長五年の関が原合戦まで機能していたことだ。小なりとは言え、織田・豊臣城郭の特徴、「総石垣」の影響がこれらの城にも及んでいるわけだ。

 よって、利鎌山城は天正年間の後半には廃城になったと考えられる。その理由は、福田氏の改易か転封であろう。「毛利家八箇国時代分限帳」には、唯一人福田姓の給人として、「福田少輔七郎」なる人物が記載され、備後恵蘇郡、周防吉敷郡で166石余を領している。盛雅の後継者と見て良いだろう。この分限帳は年貢収納高で記載され、しかも「軍役高」と見られるから、福田氏の本領は江戸時代の村高で400石以上、ほぼ福田村の草高に匹敵する。

 福田氏が本領の福田を没収され恵蘇郡(現庄原市、或いは周防)に移された理由は判然としないが、有地・杉原の両氏も出雲に移されており、「国衆の在地性を奪う」という毛利氏の政策であろう。この分限帳は天正十九年(1591)の「惣国検地」の結果と言われているから、福田氏は天正十九年を以て名字の地「福田」を去り、その結果、利鎌山城も廃城となったのであろう。

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