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備後の歴史を歩くコミュの毛利元就と洞春寺

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 毛利氏が一丸となって尼子氏の月山富田城を攻めている頃、毛利元就は元亀2年(1571)6月14日、吉田郡山城下お里屋敷にて75歳で逝去した。翌日、元就の遺体は郡山城西麓にあった毛利家菩提寺である大通院に移され、三原妙法寺住職嘯岳鼎虎(しょうがくていご)禅師を導師として招聘し葬儀を営み、6月20日に初七日の法会を営んだ後、荼毘に附された。戒名は洞春寺殿日頼洞春(にちらいとうしゅん)大居士である。その火葬場跡は墓所とともに今も郡山城麓に遺る。毛利輝元は元就の三回忌である天正元年(1573)、墓所のそばに葬儀で導師を務めた嘯岳鼎虎禅師を開山として迎え元就の菩提寺「洞春寺(とうしゅんじ)」を建立している。その後洞春寺は毛利の本拠城が郡山城から広島城に移城の際一緒に広島城下に移され、関ヶ原の合戦以後、毛利氏防長移封にともない山口県萩城下に、また明治2年(1869)には山口市内の現在地に移されている。

○洞春寺
 山口市水の上町にある臨済宗建仁寺派正宗山洞春寺は、もとは国清寺と称し、大内氏26代大内盛見が応永11年(1404)に建立した寺であった。郡山城内に建立された洞春寺は上記したように、関ケ原の後、慶長8年(1603)に毛利氏の山口移封にともない山口に、次いで慶長11年(1606)に萩城内に移されている。幕末には長州藩第14代藩主毛利敬親が藩政を再び山口に移したのにともない寺も山口に移された。国清寺は後に毛利隆元の菩提寺「常栄寺」と称していたのをその時に譲り受けたという。現在の洞春寺本堂は、江戸時代に焼失して再建されたものだが、山門は国清寺創建当時のものとされ国指定重文である。本堂とは別に境内に建つ観音堂は上宇野令滝の観音寺にあったものだ。観音寺は大内持盛の菩提寺であったが、毛利の時代になってから吉田にあった毛利家の菩提所大通院を称していた。幕末には衰退して本堂一宇だけが辛うじて残っていたのを大正4年(1915)に洞春寺境内に移築したもので、こちらも国指定重文である。常栄寺の創建は、永禄6年(1563)に没した元就の長男である隆元の菩提寺として、安国寺恵瓊の師でもある竺雲恵心を開山として郡山城下に建立された。これも毛利氏の防長移封に従って山口に移り、国清寺を香山常栄寺と号した。現在は山口市宮野下に移され臨済宗東福寺派に属し隆元の菩提寺として現存している。このように当初郡山城下に建立された毛利氏関連の寺は、檀那である毛利氏防長移封にともなって移転し、現在吉田町にはそれらの跡があるのみである。

○洞春寺の山門と観音堂(いずれも国指定重要文化財)
 檜皮で葺かれた切妻造四脚門の山門は国清寺時代、応永11年(1404)ころの建立と考えられている。また、方三間の裳階付き一重入母屋造の観音堂は禅宗様建築物である。しかし禅宗様の垂木といえば扇垂木の配列となるのが定義であるが、この観音堂裳階の軒には垂木はなく天井板が張られている。また禅宗様の建物内は、厨子の真上を除いて天井は造らず、中心から四隅に向けて放射状に置いた扇垂木や尾垂木、また虹梁などを見せるのが一般的だが、ここは内部にも天井を張っている。厨子裏の板銘に永享2年(1430)建立ということが書かれており、それにより建立年は特定されたが、この天井板を張った軒始末が建立当初のものかは私にはわからない。昭和25年から行われた解体修理の際に、残念ながら柿葺から銅板葺に改められた。禅宗様ではお屋根は柿葺か檜皮葺が標準仕様である。堂内は禅宗様式標準の土間で四半敷き瓦である。桁行三間の正面は入り口で桟唐戸、左右に花頭窓が造られる。側面は前方一間に桟唐戸、真ん中に花頭窓、後方は経板が張られ、背面の両側には鞆の安国寺と同様な出っ張りが造られている。大屋根垂木の配列は本来の扇垂木ではなく鞆安国寺と同じ簡略型と言える平行疎垂木である。木製の礎盤の上に乗る粽が付けられた円柱は頭貫で固定され、さらに台輪を置いて、柱上と正面は2コ、両端は1コの平三斗が詰組となり丸桁を受ける。したがって禅宗様特有の天狗の鼻のような尾垂木は持たない。

○嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていご)
 洞春寺開山の嘯岳鼎虎禅師は建仁寺や南禅寺の住持を務めた大物禅師である。毛利隆元が大内氏人質時代にすごした山口で国清寺の住持だった竺雲恵心と出会い、恵心は毛利氏とのつながりが強まった。その恵心の弟子にいた安国寺恵瓊との関係が出来たことは、善し悪しに付けて幕末まで途切れることなく続いた毛利家にとって影響は多大だったと思う。嘯岳鼎虎禅師は京都五山を極めた臨済宗の僧だ。嘯岳鼎虎禅師がいたと伝う三原妙法寺は謎である。妙法寺は日蓮宗の寺銘に思えるし、現在三原に臨済宗妙法寺なる寺は見あたらない。郡山城内に建つ嘯岳鼎虎禅師の墓の説明書には「三原妙法寺」の「三」を消して「竹」と直し「竹原妙法寺」となっている。大正12年編纂「広島県史社寺志」で竹原を調べてみたら、小早川隆景が建立したという「西方寺」の項に「もと禅寺の妙法寺があったが慶長7年(1602)に火災で焼失し、翌年、妙法寺跡のこの地へ西方寺が移り、浄土宗に改宗した」とある。また境内の高台に位置する場所に普明閣と称する仏堂がある。京都清水寺を模して宝暦8年(1758)に建立されたという仏堂内に妙法寺のご本尊である木造十一面観音立像(県指定重文)が祀られている。また、本堂の須彌壇は浄土宗の寺でありながら禅宗様式だと紹介されている。ここも一度見てみたい。

 嘯岳鼎虎禅師が導師を務めた毛利元就の葬儀はどうだったのだろうか。吉川元春は対尼子戦で山陰を離れることが出来ず死に目に会えていないが、小早川隆景や毛利輝元は帰ってきている。恵心も同席しているが恵瓊は何をしていたのだろうか。河合正治著「人物叢書 安国寺恵瓊」では、上洛中の恵瓊に対して京都の名医をよこすようにと命令されたとあり、また三宅孝太郎著「安国寺恵瓊」には恵瓊が死に目に同席している様子が書かれている。もっともこちらは小説であるが・・・。嘯岳鼎虎禅師と恵心や恵瓊、もっと大きくとらえれば戦国時代と禅宗僧の関係や、禅宗とともに栄西がもたらした建築様式の仏殿を訪ねる旅は興味が尽きない。

写真
左:観音堂 創建当初は柿葺だった。
中:山門
右:山門は檜皮葺

地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.18477194&lon=131.47359194&sc=3&mode=map&pointer=on&home=on

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洞春寺

写真
左:山門内に掲げられた扁額
中:鐘楼門
右:元就の菩提寺だけに、いたるところに毛利氏の家紋が施されている。
洞春寺

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左:本堂
中:観音堂
右:観音堂の側面
洞春寺

写真
左:観音堂の背面
中:裳階の軒は天井板が張られ、入母屋屋根の軒は疎な平行垂木
右:観音堂内部の大瓶束に「深小川」・・・。
洞春寺

写真
左:観音堂の向かって左には菩提樹の下で瞑想するお釈迦様。
右:観音堂の内部 土間でこれを四半敷き瓦といい、禅宗様の標準仕様だ。
吉田町郡山城内「洞春寺跡」の説明と嘯岳鼎虎禅師の墓
2008年11月23日撮影
吉田町郡山城内

毛利元就火葬場跡
「三原妙法寺」とある。

毛利元就の墓

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