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備後の歴史を歩くコミュの安国寺恵瓊と安芸安国寺(不動院)

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不動院 広島市東区牛田新町
真言宗 別格本山 山号 新山
本尊 木造薬師如来座像(国重文)

 不動院は新山安国寺と号する真言宗の寺である。安国寺は「暦応元年(1338)足利尊氏・直義が夢想疎石の勧めにより、国ごとに安国寺と利生塔を建立した」として、その数は全国68ヶ寺におよぶが、それとして現存しているのは42ヶ寺で、あとは未詳もしくは廃寺となっている。夢想疎石は臨済宗の禅僧であったため、創建当初の安国寺はすべて臨済宗である。一方、利生塔は臨済宗以外の寺院に建てられた。備後国は尾道浄土寺の五重塔があてられたが江戸時代に焼失後再建されていない。千葉県成田市大慈恩寺の利生塔は明治35年(1902)まで建っていたが、暴風により倒壊し、今は礎石が遺るのみだ。現存する利生塔は京都法観寺「八坂の塔」で、室町中期永享12年(1440)室町幕府第6代将軍足利義教が再建したものが唯一である。

 国宝不動院金堂は、天井に描かれている龍と天女の絵に「天文九庚子・・・」と書かれていることから天文9年(1540)頃の建立と推定されるが、建立地は山口県内大内氏の数ある菩提寺の中の一つと考えられ、それを天正年間に安国寺恵瓊によって現在地に移築された。元々どこの寺の仏殿だったのかははっきりしない。不動院では、大内義弘の菩提寺「香積寺(現在の瑠璃光寺)」といい、また、大内義興の菩提寺「凌雲寺」だという説もある。香積寺は大内義弘が自身の菩提寺として建立した寺で、慶長9年(1604)に毛利輝元が五重塔以外を解体し萩に移転させた。その五重塔は大内盛見(もりはる)が兄義弘の霊を弔うために香積寺に建立を開始したが、盛見は永享3年(1431)に完成を見ず戦死。室町中期嘉吉2年(1442)になって完成した。その跡地に瑠璃光寺が建てられ、瑠璃光寺の持ち物として国宝に指定され現存している。その盛見の菩提寺は国清寺で、次代持世(もちよ)は澄清寺。教弘は闢雲寺、政弘は法泉寺、義興は凌雲寺、義隆は龍福寺というように、大内氏は当主別に菩提寺を建立している。こうしたことが金堂の建立地をわからなくしている原因となっているのだろう。ポイントは、恵瓊によって寺の本堂が移築され無くなったわけだから、天正年間に立派な本堂を残して消滅していた廃寺であろう。とすると、消去法でいけば凌雲寺ということになろうか・・・?

 広島県では「天井墨書から天文9年(1540)頃建立と推定されている。大内義隆が周防山口に建てた建物を安国寺恵瓊が安芸安国寺仏殿として移築したと伝えられる」とあり、文化庁も建立年は室町後期天文9年として「不動院はもと安芸の安国寺で、大永年間兵火にあい、建物はほとんど焼失した。現存の金堂は天正年間山口市より移建したと伝えている。その建立年代は明らかでないが天井墨書に天文九年とあり、その頃竣工したものと思われる。唐様として現在最大の遺構であり、優れた意匠と特色ある架構は注目すべき建築である」と紹介している。

 金堂の建築様式を見てみると、身舎は桁行三間、梁間四間で、一間通りの裳階が造られる。したがって裳階は正面五間、側面は六間となる巨大な仏殿だ。その前方一間分は壁板が張られず吹き放ちとなっている。正面は両端に花頭窓、中の三間は桟唐戸が開く。礎石の上に礎盤をのせ円柱を立て、頭貫で固定し台輪を置く。柱上、中備とも出三斗の詰組で、裏側は手挟みを置き、繋虹梁で身舎とつなぐ。詰組は両端は一つ、中の三間は二つ置かれている。側面は前方一間は吹き放ちで、二間目は桟唐戸、三間目と五間目に花頭窓を飾り、四間目と六間目はタテ板張りとなる。頭貫と飛貫の間は弓欄間、三斗組の詰組で、軒は二軒扇垂木の配列である。背面は七間を造り、真ん中に桟唐戸を置いて、他はタテ板を張る。身舎正面は頭貫の上に台輪を置き二段に尾垂木を入れた三手先の詰組で各間は二つ並べられている。軒は大きく反らせた二軒繁垂木で、配列は禅宗様特有の扇垂木。妻飾りは虹梁大瓶束に三花懸魚、屋根は裳階ともに柿葺である。

 国指定重文の山門(三門)は、三間一戸の本瓦葺き入母屋造の二重門で、尾垂木に「朝鮮木文禄三((1594)」と書かれていることから、秀吉の朝鮮出兵に同行した恵瓊が朝鮮の良木を持ち帰り、それを使って建立したと思われる。同じく国重文の鐘楼は、中備の間斗束に「永享五(1433)」と、入母屋破風板の内側に「天正十六年(1588)」と書かれていることから、永享五年に建立されたものを天正十六年に修繕したと考えられる。修繕はもちろん恵瓊によってであろう。柱や木組は朱、連子窓は緑。羽目板と袴腰は白に塗られた鐘楼は、素木造の金堂とは対照的な存在である。しかも、建築様式は和様が基調になっているから尚更だ。屋根は金堂と同じ柿葺だ。中に吊される梵鐘は朝鮮高麗初期(900年代中頃)の作といわれており、これも国指定重文である。

 昭和20年に広島市内に落とされた原子爆弾により、多くの尊い人命と貴重な文化財が一瞬にして消滅した。爆心地から3.9kmの不動院は背後の山が爆風を遮り最小限の被害だけで遺った。奇跡としかいいようがない。被爆し怪我をされた多くの人は助けを求めてここに集まったという。原爆被災史には「山門前では衛生兵や地域の住民が出て被爆者の救護のためドラム缶入りの大豆油を用意して火傷の治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ちきれず息絶えた人も多かった」とある。本堂に収まる薬師如来に導かれたことがせめてもの救いだったのであろうか。不動院金堂は広島市内唯一の国宝であり、その価値は計り知れない。

写真

左:山門(三解脱門)
中:側面
右:下の屋根は二軒平行繁垂木、上は二軒扇垂木である。


地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=476905.159&Y=123925.694&SCL=597

コメント(8)

不動院

写真

左:国宝の金堂
中:側面
右:背面 
不動院

写真

左:鐘楼
中:〃
右:金堂の木製礎盤 
不動院

写真

左:金堂
中:〃
右:御朱印
大正12年編纂「広島県史 第二編社寺志」には「号、新日山(一に新山)安国寺・・・利生塔も当寺中に置かる・・・秀吉によって厳島亀居山に奉納せらる」とある。厳島亀居山とは大願寺のこと。明治までは千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心をなしていた。また、不動院の裏手には塔の段(塔の丘)と称する塔の址があり、今はここに十三重の石塔が建てられている。厳島神社に建つ檜皮葺の五重塔の建立年は応永14年(1407)といわれている。また、相輪に天文2年(1533)の刻銘がある。恵瓊による不動院(安芸安国寺)からの移築説にもうなずける。
http://www.ttec.co.jp/~fudouin/ekei/ken/k.html

真言宗不動院(広島県真言宗教団)の金堂(国宝)は戦国時代末期、当時の往職・安国寺恵瓊(えけい)によって山口市の香積寺(現在の瑠璃光寺)から移されたことが明らかになった。

金堂があった元の寺はどこかという長年のなぞを解明した関口欣也・横浜国立大名誉教授(建築史)は、とりわけ恵瓊を「けた外れの普請道楽、建築マニア」と形容する。



この記事はいつかわかりませんが、その根拠が知りたいですね。香積寺が毛利輝元によって五重塔以外を解体移転されたのは関ヶ原の後です。仏殿(本堂)はすでに無かったということでしょうか。

不動院に問い合わせてみましょう。



>5

問い合わせに対して次の通りさっそく返答をいただきました。


金堂の件ですが、関口先生(現在の所属は不明)が天井に書かれている、「前建長○○○」の解釈をされてこの結果となったようです。鎌倉建長寺の文書の中から解明されたように聞いています。
専門的な事はよく解りませんが・・・・・・
それに恵心が住職をしていた関係もあり、移築したということが考えられます。以上です。



いまいちパッとしませんね。
本堂(金堂)はすでにない。五重塔は現地に残した。では輝元は香積寺のなにを萩城下に移転させたのでしょうかね。


もう一つ、恵瓊が安芸安国寺の方丈を京都建仁寺に移築していますが、この方丈は大建築でありまして、現不動院にその跡地は残っているのでしょうかね。

もう一度問い合わせてみます。

それは、以前から思っていたことですが、恵瓊は文禄3年(1594)広島市内に新たに「安国寺」を創建しています。今の国泰寺です。安芸安国寺(不動院)の方丈を建仁寺に移築したのは慶長4年(1599)のこと。ひょっとすると恵瓊は国宝の金堂をも建仁寺に移築させる考えがあったのかもしれない。国泰寺を創建した意味はなんだったのでしょうか?方丈は「新安国寺」だったのかもしれないですし・・・。

「新安国寺」は福島正則によって「国泰寺」と改称され、恵瓊が建立した伽藍は残念なことに原爆で全壊しています。現国泰寺には恵瓊の遺髪塚があるそうで、ぜひ行ってみなければ!!





2回目の問い合わせについての回答をいただきました。


方丈の移築を建仁寺にしたことは、応仁の乱以降荒れ果てた建仁寺再興のためといえると思います。恵瓊が武田氏の遺児と言うことを前提にすると、若狭武田氏の出である永甫英雄が建仁寺の住職をしていたので何か頼まれごとがあったのかも知れません。恵瓊とすれば、金堂に似つかわしい伽藍の形成の為、いづれ瑠璃光寺の五重塔、方丈なども移築する予定だったような気がします。志泣かばの死というような気がします。
国泰寺については城下が出来て新しい寺が必要だったのでしょう。城下の威厳を保つ必要性を感じます。安国寺の支店を立派に造ったような気がします。新寺建立です。しがらみの無い寺ということですか。
方丈の跡は定かではありません。以上です。




不動院に方丈の跡は定かではないと言うことですが、巨大な建造物ですのでどこかにあるはずでしょう。

国泰寺の「城下」という意味がよくわかりません。
国泰寺は上記したように恵瓊が新案国寺として建立したのを福島政則が改称したものです。やはり、現不動院の金堂も建仁寺に移築させるつもりだったのかもしれませんね。

今後、国泰寺の伽藍規模などを調べてみる必要がありますね。

鞆安国寺から始まり、広島、山口、京都と足を伸ばしました。
ついでにもう少し調べてみたいと思います。
不動院金堂と鐘楼の杮葺屋根が葺き替えられました。金堂は内部も修理されており、拝観は出来ませんが、お屋根だけは一足先にお目見えしました。

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