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備後の歴史を歩くコミュの国竹城と有地石見守

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 芦田町の「天満」のバス停に降り立つと、かつて有地(あるじ)郷と呼ばれた同町の地形が良くわかる。視界の真中辺りを芦田川の支流有地川が大きく蛇行し、川に向かってなだらかな丘陵が行く筋も伸び、谷あいに水田が開けている。典型的な中世以来の谷田地帯だ。

 有地は「狩道(かりじ)」の転化だと言われる。狩道は古代備後国芦田郡の「里」の一つで古墳も多く大変栄えたところだ。

 中世に入ると、一帯は「福田庄」に編入されたと推定される。「福田」は、芦田町の東部の地名で、有地は別に「武満庄」と言う荘園であったとする説もあるが、ここでは取らない。

福田庄高須の地頭であった高須杉原氏の伝えた文書に、福田庄内の「名」で「国竹名」に関する記述がある。今回紹介する「国竹城」の「国竹」はこの「国竹名」から来ていると考えられる。有地の中心「国竹城」が福田庄に含まれる以上、一帯は「福田庄」に含まれ、「武満庄」は存在しないと考えなければならない。

 因みに、「福田庄高須」は現在の尾道市高須町にあたり、福田の遺名を伝える福山市芦田町大字福田と遠く離れているが、これは芦田町と高須町の間にある福山市本郷町が「新庄」として独立したためと考えられる。

 このように、国竹城の存在した「国竹」は、中世以来の国竹名の伝統を引き継いだ、庄内の中心に位置していた。したがって、城館がこの地に構えられたのは、相当古いと考えなければならない。

 国竹城の遺構は今でも良好に残っている。城は天満方面から北に伸びた丘陵の先端を利用して築城されたもので、現在一部が宅地となっている以外は、畑・雑木林としてほぼ往事の姿をとどめている。宅地開発されて民家の立ち並んだ部分を通り抜け、城跡に入ると、先ず目を惹くのは「土塁」だ。広さ50メートルに及ぶ本丸の西南を、鍵の手状に15メートルほど取り囲み、高さは2メートル弱、他にも東側にも断続的に小規模な土塁が残っている。「西備名区」に、江戸時代の元禄年間まで「築地」が残っていたとあるのは、この「土塁」のことであろう。土塁は、戦前の開墾でほとんどが破壊されたようだ。面白いのは、この開墾で「手水鉢」が出土したことだ。手水鉢は今も城跡の土塁の側に残っている。50センチ四方ほどの石で材質は花崗岩であろう、上面に水を貯めるための窪みが穿ってある。中々古拙な名品である。

 立地、構造から見て、国竹城は室町前期、或いは鎌倉期に遡る城館遺跡であろう。

 このような低い丘陵上に築かれた城館のことを「土居城」とも呼ぶ。中世の武士団はこの土居城を本拠に勢力を拡大し、やがて戦国期になると本格的な山城を築くようになる。

 国竹城は、戦国期、福山地方を代表する国人有地氏の初期の居館として知られているが、歴史はもっと遡るだろう。今は忘れられた国人に福田庄の庄名を負った「福田氏」がいる。高須杉原氏の家伝文書に、国竹名を一期分として譲与された「福田太郎」などが、有地氏以前の国竹城主にふさわしい。

 有地氏の初代石見守清元が、新市亀寿山城を出て、この地に城居したのは天文初年(1534頃)と伝わっている。

 だが、有地氏の菩提寺本泉寺の記録や他の史料によると、有地氏の歴史は清元以前に遡る。

本泉寺の位牌には、文明一八年に「山田軍端」で討死した「宮長門民部左衛門尉信定」が有地初代とある。信定は熊野町の常国寺の開基で、彼の墓と伝える宝筐印塔も同町に残っている。

有地氏は初め山田と呼ばれた熊野町を本拠とし、後に合戦に敗れて芦田町の有地に移り、在名を取って「有地氏」を称したとする方がよさそうだ。

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