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備後の歴史を歩くコミュの「ささやき橋」

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鞆の浦ミステリー?
「ささやき橋」

「山中鹿介の首塚」を鞆の浦ミステリー?として、今回は「ささやき橋」を取り上げて見ようと思う。

鹿介の首塚から東へ数十メートルのところに、小さいアーチ型石造りの欄干のみが残る橋があり「ささやき橋」と称されている。現地案内板は「鹿介の首塚」と併記し、それには次のように記されている。

応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・竹内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓・江の浦(えのうら)は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語りつがれています。



延宝年中(1673−1681)に記された『あくた川のまき』には、「鞆、常観寺と申す寺の下、又、妙蓮寺という寺の巽(たつみ・辰と巳との間で南東)にそいて、西又東に渡りし橋これなりと。あるかいわく、府中にありと。いとおほつかなし」とし、さらに、「密語橋は妙蓮寺の南にそいて東西に渡る二歩で渡れる小さき石橋なり。この橋をささやきと名付ける物語は、昔、鞆源左衛門という人買いがいて行き交う人をかどあかしてこの橋のたもとで耳元でささやくように値踏みをして人身売買をしていたからささやき橋といいけるなり」さらに、古記を紐解いてみたら鞆源左衛門は元は武士だったらしく人身売買をするような人ではない。さる、承久5年6月14日宇治橋合戦の時(承久は4年までしかない。宇治橋合戦というのは承久3年(1221)の承久の乱で、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に討幕の兵を挙げて敗れた戦いで、6月13日から始まった宇治川での決戦をいったものと思う)官軍に味方して参戦するが、幕府軍の児玉なにがしに生け捕られて六条河原で首を刎ねられるときに、息子の源太正氏が身代わりとなり処刑され、源左衛門は鞆に帰った。しかし、承久記を見ても六条河原で処刑された者の中に源左衛門の名はないし、時代も合わないから人身売買の源左衛門とは別人。この源左衛門は古城山の乾(いぬい、戌亥・北西)に住人で、人身売買をして死刑になったこの霊が人々を悩ましたという。以来、鞆の人は恐れおののいて源左衛門という名を付けなかった。橋はなくなったが、寛永年(1624−1644)の末頃に古い橋の残骸を掘り出して跡を残し、今は石橋が渡してあると記す。この中に「竹内臣和多利と江の浦」の話はどこにも出てこない。

次に延享(1744−1748)寛延(1748−1751)のころに著された『鞆浦志』には「密語橋」として『あくた川のまき』を参照し記している。「竹内臣和多利と江の浦」はここにも出てこない。

『備陽六郡志』はどうだろうか。「妙蓮寺の脇、静観寺の前に渡せる小さな石橋。井戸があり、その脇に笹が一株生えたり」とし、これも『あくた川のまき』を参照し鞆源左衛門を載せている。

『西備名区』は鞆源左衛門正友、源太正武親子(あくた川では正氏)の宇治橋の合戦を承久3年と記し、「密語橋は紀州に同名あり。また府中の栄明寺前の音無川にかかる」その後はやはり『あくた川のまき』と同じである。

『福山志料』は「耳語橋」として、こちらもおおよそ『あくた川のまき』の内容で「竹内臣和多利と江の浦」は全く出てこない。

現地案内板にある悲恋物語は、大正12年に編纂された『沼隈郡誌』で初めて紹介されている。『沼隈郡誌』は『あくた川のまき』の鞆源左衛門の物語とともに、「竹内臣和多利・江の浦」の恋物語を載せている。また、『備陽六郡志』に記された「一株の笹」は阿部正邦が正徳(1711−1716)の初めに鞆に遊びに来たときに植えたものと記している。さらに、「橋のたもとに遊女がいて、行き交う人の袖をとらえてささやきける」から「ささやき橋」というとも。

『沼隈郡誌』にしか記されていない「竹内臣和多利と江の浦の恋物語」・・・。

ささやき橋の人身売買伝説がなぜこの物語と結びついたのか、全く以て不明である。



写真
正面のお寺が静観寺。手前に鹿介の首塚があり、右手のお寺は妙蓮寺。小さい石の欄干が「ささやき橋」です。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480177.858&Y=123775.636&SCL=432

コメント(10)

 ネット上にころがってた文章

「5世紀(大和朝廷の頃)
鞆の浦は今のような陸地ではなく
7島(ななしま)とよばれる中州で構成された地形で
それぞれの中洲は橋でつながっていた。

西暦405年
百済から王仁博士(わにはかせ)が来日。
当時中国や朝鮮半島から
多くの帰化人が来訪し,大陸
の進んだ文化や技術を伝えた。
王仁博士もその内の1人で,
1行の中には金属加工技術者や
醸造技術者,機織技術者の1団を
つれていた。

瀬戸内海のほぼ中央に位置する
鞆の浦は瀬戸内海の潮流が東西に分かれるため,
古来より潮待ちの港として栄え,
朝鮮などからの使節団が必ず寄航することから
大和朝廷から
接待官が派遣されていた。
武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)もその接待官の1人。
(以下略)」

405年ぐらいの話が書かれている書物があったりして?
武内臣和多利に恋敵がいて、そいつから使節団が到着する時間をウソを教えられた。王仁博士一行が到着しても姿を現さない和多利は江の浦と密会中であった。謀られたことを悟った和多利は江の浦と心中した。

という物語でしょ。

江戸時代の書物に、ささやき橋との因果関係がどこにも記されていないのだ・・・。



江戸時代より前の書物に記されているとかは??
江戸時代より前の書物・・・


だとすると、江戸時代の書物に必ず引用されていると思います。
江戸時代の「ささやき橋」伝説は、トピックで紹介したように、人買いがこの橋のたもとで、耳元でささやくように値踏みした「人買い伝説」だった。その源左衛門という人物の出自まで調べて書いています。

ところが、大正時代になって「竹内臣和多利と江の浦の恋物語」は、降って湧いたようにいきなり登場しているのです。
鶴賓…さん……?げっそり

悲恋物語は今や通説ですよね…… (^◇^;)
そういえば・・・

広島県府中町の町長さんは和多利さんですね。

そういえば…

鞆には江の浦町ってありますね。
江の浦は、福島正則が町割をしたときに付けられた町名だと沼隈郡誌にあります。
町名が先か、伝説が先か……

さて……ミステリー

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