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備後の歴史を歩くコミュの豊臣神社 (福山市山手町)

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豊臣神社(とよとみ) 福山市山手町に鎮座する。

豊国大明神とも太閤霊社とも伝わる。福山市山手町は戦国時代、杉原盛重が在城した銀山城の城下町だ。その杉原氏の菩提寺大鏡山三宝寺の門前町ともいえる。その三宝寺の下には太閤屋敷跡と伝わる場所がある。これは豊臣秀吉が九州下向の時、この地に宿陣したと伝わる場所だ。

『備陽六郡誌』には、「三宝寺は街道より一丁ほど西北の方に見ゆる山寺なり。其道の西の方を太閤屋敷と云。朝鮮征伐の節、秀吉公、九州御發向の時、御宿陣之所なり。元和の比迄池鯉鮒宮などの御茶屋のことく、築地有けるか、いつとなく崩て、纔なる草社一宇残れり、是則豊國大明神なり、九月廿七日を祭の日とし侍る。當時にては豊國といふ事を憚て荒神と称す。白塲と云所あり、御陣之節、米を擣たる所也・・・」と記されている。

『西備名区』では太閤御陣跡として、「太閤屋鋪と言ひて、三宝寺前にあり。太閤秀吉公、九州御下向の時、此処に御陣を居へさせられ、此邊の沙汰聞召れし其御滞留七十余日なりしとそ。其跡とて太閤屋鋪と称す。其地方一丁余、元和中迄築地ありし、其中に小祠を営み太閤の霊を祭る。九月二十七日祭りをなす・・・」2ヶ月以上滞在しているというが、記録上それは無理である。

豊臣秀吉の九州下向を『備陽六郡誌』の朝鮮出兵とすれば文禄元年(1592)のこと。島津征伐ならば天正15年(1587)となる。森本繁氏は『備後の歴史散歩(上)』では天正15年説を紹介されているが、三宝寺の由緒書は「文禄元年九州名護屋城に向かう秀吉が宿陣した」と』『備陽六郡誌』説を記す。豊国大明神や太閤霊社と称されたが『福山志料』では、「福山藩主は豊国をはばかり荒神として祀った」と『備陽六郡誌』を引いている。しかし、大正12年に編纂された『広島県史第二編社寺志』には再び「豊臣神社」と記されている。現在は太閤屋敷跡付近には民家が建ち並び、この豊臣神社と伝わる小社は金原家の敷地内に存在する。中を見させていただいた。祭神は稲荷が祀ってあった。山中の稲荷を持って降りてココに祀ったとのこと。氏子は一人もおらず、大祭は金原家だけで今も執り行われているそうだ。ただし、『備陽六郡誌』、『西備名区』ともに九月二十七日とされる大祭日は、今は九月十七日に行われている。破れた太鼓があった。台座には「慶応元年丑九月調之」反対側には「坂川荒神社」と墨書きされていた。坂川荒神社についてはすぐに思い当たらないが、坂川という小字が町内に存在したようである。

小社である。城西中学校の生徒達はこの小社を横目に通う。秀吉縁の小社である。

写真
左:太閤屋敷跡と豊臣神社
中:内部
右:祭壇には正一位稲荷大明神が祀られる。

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.19.58.335N34.29.43.342&ZM=10

コメント(2)

豊臣神社

写真
左:三宝寺由緒書
中:太鼓の台座 慶応元年は1865年、明治維新の3年前だ。
右:反対側「坂川荒神社」 

『備陽六郡志』・『西備名区』・『福山志料』など、江戸時代に書かれた書物には「九州に下向するとき」あるいは「朝鮮征伐に行く時」に三宝寺に宿泊し、その跡を太閤屋敷というと記されている。秀吉が九州に赴いたのは2回。天正15年の島津成敗と、文禄元年朝鮮出兵の2回である。森本繁氏は著書『備後の歴史散歩』の中で天正15年の島津成敗説を書かれ、『沼隈郡誌』などは文禄元年の朝鮮出兵説を記している。さてどちらが正解なのであろうか。

天正15年説は、秀吉は3月1日に大阪を出発し、3月25日に下関まで歩を進めた。その道中、3月12日に備後赤坂到着、津之郷に亡命していた足利義昭と会談した。信長亡き後、島津を倒せば秀吉の天下統一が成る。信長に刃向かった室町最後の将軍の意地もついに萎えたことであろう。この会談で京都に帰って秀吉の傘下に入ることを承諾したのか、島津が降伏した後の10月に京都に戻った。

一方、文禄元年説は、朝鮮出兵に際し秀吉は九州名護屋城に赴いた。『豊臣秀吉九州下向記』という記録によれば、天正20年(文禄元年)3月26日京都を出発。4月9日「山手」11日「広島城」16日山口県下松「花岡宿」という行程がたどれる。


私の推論を述べれば、両方2回共来たのだと思う。1回目は九州出兵にあたり、秀吉は沿道の諸大名に対し宿所を整備するように命じている。たとえば、津之郷での義昭との会談があらかじめ予定されていたとすると、その付近に宿舎を造らせたことも十分に理解できる。2回目の天正20年(1592文禄元年)の下向は、慌ただしくただ通過しているだけである。5年前に造らせた宿所を再び利用したと考えられる。したがって、宿所が整備されたのは天正15年の島津成敗の時であろう。その跡が後に太閤屋敷と称されるようになった。

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