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備後の歴史を歩くコミュの備後の歴史を語る「鹿介首塚」

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「山中鹿介」首塚について 

 「戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿之助は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578(天正6)年、岡山県高梁川阿井の渡で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の阿井の渡には胴塚があります」

 上記は福山市鞆町に建てられている鹿介首塚の案内書である。本名は幸盛(ゆきもり)といい、通称「鹿介」というのが正しい表記のようだ。「鹿之助」は後年、講談等で付けられた誤った表記といえる。それはよしとして、なぜ鞆にその首塚があるのかを軍記物から拾い出してみたいと思う。

 戦国時代、「難攻不落」月山富田城(がっさんとだじょう)を本拠地とした尼子氏は尼子経久から孫の晴久の時代にかけて最高点に達した。陰陽11カ国に大号令を発するまでに勢力をひろげた経久は、嫡男政久を早くに戦で失い、その遺児晴久に家督を継がせた。晴久も猛然と大内氏や毛利氏と争った。大内方では、重臣陶晴賢が当主大内義隆を討ち実権を我が手に納めた。天文24年10月(1555)、今度はその陶晴賢を厳島で毛利元就が討った。大内の勢力を手にした毛利元就は石見銀山の覇権を狙って尼子領に侵略を開始。晴久はその戦のさなか永禄3年(1560)12月24日、月山富田城で急死している。47才だった。晴久の後はその嫡男義久が継いだ。晴久は美作国一之宮中山神社本殿を建立している。天文2年(1533)晴久が美作を攻めたときにその社殿に放火し焼失させている。美作平定後、永禄2年(1559)晴久が亡くなる一年前、彼自身の手によって再建された本殿は現存しており国重文に指定されている。晴久の死を知った毛利元就は月山冨田城に総攻撃を仕掛けた。永禄8年(1565)、富田城は毛利軍によって完全に包囲されたが、難攻不落の冨田城は落ちない。しかし、翌永禄9年(1566)兵糧が完全に途絶え窮地に立たされた義久は11月28日、ついに開城し尼子方の武将達は毛利に降り浪人となって散っていった。その中に山中鹿介もいた。毛利元就は義久を殺さず安芸円明寺に幽閉している。鹿介が活躍するのはこの時からである。

コメント(60)

徳雲寺の首塚、小さな自然石です。
徳雲寺は宮教元(宮6代)を開基大檀那、覚隠永本を開山とした曹洞宗の大伽藍です。大富山城三代宮景盛の妻は、尼子新宮党尼子誠久の娘で、その縁から幼少の勝久がかくまわれたと考えられます。幸盛の伝説は備北の各地に残り、比和の釜峰神社にも、少年幸盛がこの地で修行したという伝説が残っています。
徳雲寺ですが、毛利ともなにか繋がりがありますか?

特にないですね。ただ宮景盛の後妻は三吉致高の娘で、毛利元就も致高の娘を後妻に迎えていますから、相婿になりますね、徳雲寺の住職は七世まで、朝廷から禅師号と紫衣を勅許されています。すべて宮氏の力です。よってこの寺には勅旨門が現存します
4月6日、ふらりと東城町徳雲寺を訪ねました。
尼子勝久が幼少の頃隠れ住んだこの寺に、鞆に葬られた鹿介の首を従者が密かに掘り出し、播磨上月城で自刃した勝久の遺髪と一緒に埋められたと伝わります。

当山4世の天文2年(1533)から8世慶長17年(1612)まで天皇家から天皇の代理の勅使を以て禅師号と紫衣を賜っています。その勅使が入山する専用の門が勅使門です。(現地案内板より)

写真
左:徳雲寺
中:勅使門
右:鹿介の首塚

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=479615.19&Y=125791.885&SCL=606

福山市の木はセンダン(栴檀)ですが、別名「クビカケノキ」と言われます。
ばら祭りの頃(二十四節気の立夏〜小満・旧暦では四月上旬)開花しかなり遠方まで風に乗せて芳香を放ちますが、「クビカケノキ」の由来は死臭を紛らせるためだとか。
鹿介の首実験は何月だったんでしょうか?
センダンの木との関係はあるんでしょうか?
天正6年(1578)7月16日だそうです。

殺害されたのが天正6年(1578)7月16日ですから、いずれにしても一番ヤバイ時季ですね・・・。




鞆の浦における山中鹿介首塚供養は「静観寺」により毎年7月15日に行われていましたが、前住職が亡くなられてからは途絶えているそうです。
今年の開催についても未定だそうです。

是非、復活させていただきたいものですね。
静観寺さんに電話で確認してみました。

最終決定は6月の総代会?で決まるそうです。
7月にもう一回確認をしてみます。
・・・・・


寺は個人的な供養はされているということでした。
総代?公式な供養は休止中と言うことで・・・。



この時代の軍記物には「鞆の津城」という表記がよく出てきます。

「これは今の鞆城跡のことではない」とまちのねこさんも断言されています。

足利義昭が拠って鞆幕府を置いた鞆の津城とは・・・。
さて、どこでしょうかね?

鞆の津城は鞆ノ浦ミステリーその4にした方がよくないですか?
昭和15年(1940)が皇紀2,600年に当たることから、明治政府はその5年前の昭和10年に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、国をあげて祝典を計画し、各地で挙行されました。特に皇紀の主人公である神武天皇東征の足跡地を比定する作業などは活発に展開され、特に吉備高島宮を田尻町高島を比定しようと、浜本鶴賓氏などが積極的に論説を試みられましたが、残念ながら吉備高島は児島湾に浮かぶ高島に比定され、田尻町は落選してしまいました。

鞆に建てられた山中鹿介首塚も皇紀2,600年の流れがあったものと思います。神社をまわると紀元2600年とか皇紀2600年とかという記念碑をよく目にします。
>間違っても道に埋葬されることはまず考えられません。
そこまでは言い切れないのではないでしょうか?例えば、有名所では蘇我入鹿の首塚、京都の耳塚などは道の傍にありますね。
>なぜかつては静観寺の境内に埋葬された鹿介が、道の外に移されたのか?
寺域が縮小されたという可能性も考えられないでしょうか?
すいません。ちょっと省略し過ぎたようです。奈良にある蘇我入鹿の首塚や、京都にある秀吉の朝鮮出兵の耳塚などです。あと、東京の平将門の首塚もそうですね。
今日では鹿介の首塚は立派な観光スポットとなっていますから、鞆保勝会の思惑通りといえるのではないでしょうかね。
個人的には鞆の津とんちゃんさんの見解に同意できるところは多いのですが、上記で示しましたとおり、◯◯塚といった類のものが道の傍にあるという例は多くありますので、間違っても考えられないとまで言い切るには相当の根拠が必要ではないかと思った次第です。
しかし、福山の怪しい伝承には必ずと言っていいほど浜本鶴賓氏が絡んできますね。
 広島市西区の草津駅付近に「正信山浄教寺」という浄土真宗本願寺派の寺がある。戦国時代、毛利家の家臣として戦功を上げた児玉周防守就方の居城草津城に出入りしていた御用商人「吉和屋孫左衛門義兼」の菩提寺である。浄教寺は元禅宗寺院で、鈴ヶ峰(佐伯山)正信谷の観音寺が天正20年(1592)に浄土真宗に改宗して現在地へ移り、山号寺銘を「正信山浄教寺」に改めたという。この改宗は毛利氏が織田信長に攻められていた石山本願寺に対して兵糧を入れたことに由縁するという。天正4年(1576)7月、毛利輝元は信長と対峙する石山本願寺を支援するため、村上水軍を使って兵糧の搬入に成功させた。そのときの陣所となったのがこの寺で、お礼に本願寺から阿弥陀如来本尊を下付されたのがきっかけとなり改宗したという。改宗はうなずけるが、移築と同時に改宗というのは理解できない。それは、陣所となりうるのは海岸線に近い現在地だからこそで、鈴ヶ峰では奥過ぎて不可能であろう。改宗以前にすでに移っていたものと考えるのが妥当である。

 天正6年(1578)7月17日、備中阿井の渡で山中鹿介は殺された。首級は備中松山城から備後鞆の浦「静観寺」で首実検の後、門前に埋葬された。首と一緒に鞆に連行された鹿介の婦女子達は安芸に送られた。その中の娘「盛江(八重姫)」は草津住の商人「吉和屋孫左衛門義兼」に嫁ぎ二男子をもうける。二子は母方である山中姓を名乗った。長男は山中弥右衛門範信と名付けられ吉和屋本家を継いだ。孫兵衛と名付けられた次男は後に大阪に出て鴻池を名乗り財を成した。

 盛江は孫左衛門とともに吉和屋の菩提寺「浄教寺」に葬られた。しかし、昭和12年に、山中弥右衛門三郎により曹洞宗海蔵寺へ改葬されている。改葬された理由は、吉和屋は元来曹洞宗であった。しかし浄教寺は曹洞宗から浄土真宗に改宗しており、末裔の三郎氏はこれを嫌い、曹洞宗海蔵寺へ一族の墓を集めたという。現在、浄教寺の吉和屋旧墓所跡には、その旨を記した記念碑と、昭和52年(1977)に鹿介400年忌を記念して建立された石碑が建つのみである。それには鹿介の法号「幸盛院殿鹿山中的大居士」とともに、鴻池での法号「幸盛院殿大誉浄了大居士」も併せて刻字されている。
 改葬された曹洞宗海蔵寺は山号を「久遠山」という。応永年間(1394-1434)、中国の僧「慈眼禅師」により開山された。毛利時代は毛利家の家臣であった草津城主児玉氏の菩提寺、江戸期には東城浅野家の菩提寺として隆盛を極めた。境内には東城浅野家の巨大な五輪塔が数多く立ち並ぶ。盛江と吉和屋孫左衛門は児玉周防守の仲人で結婚しており、その縁があって吉和本家の墓所をこの海蔵寺へ移したのであろう。

 浄教寺には、鞆の浦「静観寺」門前に埋葬された鹿介の頭蓋骨を掘り出し、草津に運んで盛江の墓下に埋めたという話が伝わる。昭和12年、吉和屋本家の墓を海蔵寺へ移葬する際、盛江の墓を掘り起こすと、下から頭蓋骨が出てきたという。これは鹿介だろうということになり、海蔵寺の新たな盛江の墓裏の松の根元に埋めたという。この話を浄教寺の奥様に尋ねると、「かつて草津には当寺しかなく、この地で亡くなった人は皆ここへ土葬されました。したがって境内を掘れば頭蓋骨などはあちらこちらからたくさん出ます。本堂改修の時も出る度に読経をあげた」という。これにいう鹿介の頭蓋骨が本物だとすると、建立すべきは記念碑などではなく、鹿介の墓その物であろう。

 正統とする鹿介の墓は備中高梁「観泉寺」の胴墓と、鞆「静観寺」の首塚であろう。鳥取県鹿野町に幸盛寺という寺がある。鹿介の娘を嫁にした亀井新十郎茲矩は、鹿野にあった光盛寺に「観泉寺」から鹿介の遺骨を分骨し鹿野山幸盛寺と改め鹿介を弔った。この墓の法号は「幸盛寺殿潤林浄了居士」という。その子亀井政矩の時、元和3年(1617)に津和野へ転封された。その津和野亀井家で奉祀されている鹿介の法号は「潤林院幸盛寺殿大誉浄了居士」という。鴻池もこれに倣っていることになる。

 さて、上月城から備中松山城に向けて連行された鹿介が、なぜ阿井の渡を東岸から西岸に渡る必要があったのかという疑問は依然として解けない。妹尾豊三郎著「月山史談」には、阿井の渡にまつわる地元の話として、「当時、高梁川は今の流路と異なって、現在の市街地である東側の山麓を流れ、つづいて高倉山の山麓を大きく迂回して流れていたので、現在ある俗称下山(高倉山)の西側の道はなかった。この道は後年水谷氏の時代に出来たものであるから、当時備中を東から松山に入るには一度阿井の渡で川を渡り、稲荷神社東麓の道を近似に進み、更に城下の近くでもう一度川を渡らなければならなかった」という説を紹介されている。しかし現代の地形図を見ると、日羽・美袋を過ぎた辺りから成羽川の合流地点にかけての高梁川の両岸には300mを越える山裾が迫り谷底を為しており、流路は変わりようがないように思え、その説は簡単には納得できない。上月城から備中松山を抜けて鞆の浦を目指していたのではないだろうか。

 尼子再興を願い続けたその思いは叶わぬまま憤死した山中鹿介であるが、直系の子孫は連綿と歴史を紡ぎ現代にまで繋がっている。

写真

浄教寺
左:吉和屋山中家旧墓所と鹿介400年忌
中:       〃
右:浄教寺山門


地図
浄教寺
http://www.chizumaru.com/business/?x=476658.582&y=123759.481&scl=250&ex=476661.736&ey=123759.183

海蔵寺
http://www.chizumaru.com/business/?x=476660.059&y=123766.636&scl=250&ex=476660.043&ey=123766.622
写真

海蔵寺
左:移葬された吉和屋山中家の墓所
中:       〃
右:鹿介の娘「盛江」の墓
「幸盛院殿鹿山中的大居士」は備中「観泉寺」が付けた法号である。備後鞆の浦「静観寺」門前の首塚板塔婆には「幸盛院殿大誉浄了大居士」と書かれている。これは亀井氏や鴻池氏が祀る法号である。

写真

左:備中観泉寺 胴墓
右:鞆静観寺 首塚の板塔婆
貴重な位牌の画像をありがとうございます!!

戒名ですが、備中「観泉寺」から頂いたものならば「幸盛院殿鹿山中的大居士」となりますが、「幸盛院殿大誉浄了大居士」ということは、鳥取県鳥取市鹿野町の「幸盛寺」から頂いたものでしょう。

こうなると幸盛寺にも行ってみなくてはなりません。
山中鹿介の表記について

鹿之助
鹿之介

などが一般的に記されているが、山陰の研究者は自筆状などから「鹿介」が正解とし、最近出版された関連本などには「鹿介」表記が増えてきているように思う。

高梁川畔に建立されている鹿介墓に2008年2月に訪れた時、案内板は「山中鹿之介の墓」と紹介してあったが、先日2月11日に再訪すると、案内板自体が新調されており、表記も「山中鹿介の墓」と修正されていた。

鞆の案内板も修正して欲しい。

写真

左:旧案内板
中:新 〃  
右:墓石から見た高梁川と成羽川の合流地点。阿井の渡し。
鹿介さんのお墓っていったいいくつあるのか
世に知られていない個所もありそうですよね
山中豊子さんが子孫だと最近知りました
まだまだ勉強不足ですね
山中豊子さんは盛江の直系ですね。観泉寺の胴墓は鹿介400年忌を記念して昭和52年に整備されました。それがこれです。
供養塔とか慰霊碑的なものは沢山ありますが、正統な墓所は観泉寺の胴墓だと思います。私は鞆の首塚とセットになるという希望があります・・・。
草津海蔵寺の「草津本家吉和屋山中家墓所」に建てられている墓誌の一部
遅スレですが、地誌とか見ると、〜之助、〜之介は結構いいかげんですよね。通称だしどっちでもいいんじゃない?というのが実態な気がしますが、どうなんでしょう。
地元の人はこだわりがあるようですね。「しかのすけ」と打つと「鹿介」と変換できるように単語登録しました。
×スレ○レスでした。
補足すると江戸時代の文献、例えば分限帳なんかだと山中に限らず普通に助、介、は同じ人物でごちゃ混ぜになってるんですね。
つまり山中鹿之助講談が書かれた当時は音が合ってれば表記はたいして問題にされなくて、気にしてるのは現代の我々だけなのでは?という気がするのです。
個人的には碑文で正確な表記を求めるなら幸盛とすべきだと思うのですが、やっぱり地元のひとからすれば「しかのすけ」なのかなあ。しかし「鹿之助」を広めた講談によって山中鹿介の名声が高まったというのが歴史の皮肉というか、面白いところです。
吉川家文書610「安国寺恵瓊自筆書状」には、恵瓊ははっきりと「山中鹿介」と書いています。と思えば別の文書では「山鹿」と思い切り略した表記も見えますが・・・。

別に何でもかまいませんが、現在では「鹿介」に統一されつつあるようですよ。


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