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備後の歴史を歩くコミュの熊箇原八幡神社

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熊箇原八幡神社(くまがはらはちまん)尾道市因島中庄町熊箇原に鎮座する。

旧称は隠島八幡宮。社伝によると第12代景行天皇(けいこうてんのう)の子孫五十河彦命(井川彦命)の子、井川小那加麿が弘仁元年(810)熊野大権現を隠島神として勧請した。仁和3年(887)に備後守滋野朝臣良幹が隠島の氏子を奉り相殿に八幡神をお祭りしたのが当社の創祀と記されている。887年に八幡神を祀るということは勧請先は宇佐か石清水しかない。創祀も弘仁元年(810)なのか仁和3年(887)なのか意味がよく理解できない・・・。仁和3年(887)に社殿を建立したという意味だろうか。現在では八幡神が主祭神で熊野神は相殿に祀られている。「三代実録」には元慶2年(878)12月15日丙子授備後国無位隱嶋神従五位下と記されているが、この隱嶋神が熊箇原八幡神社のこととされている。「式外社」ということだ。建久3年(1192)鎌倉幕府の命により隠島八幡宮と社号を称え因島の総氏神となった。南北朝時代には村上水軍青影城主の祈願所となるなどし栄えている。社殿は文安5年(1448)大江資弘が再建。大正12年には本殿の改築、昭和11年拝殿の造営、昭和61年には社殿の大改築と参集殿、手水社の新築等が行われている。第12代景行天皇はヤマトタケルのお父さんだ。備後風土記には「中之庄村八幡社は文安5年、宮地大炊亮、大江資弘が再興のよし」と記され、西備名区には同じく「文安5年、宮地大炊亮資躬建立」とある。宮地大炊亮は大江出城として宮地大炊亮明光、資弘の名が見える。資弘は宝徳2年(1450)に宝鏡山金蓮寺も建立している。森本繁氏は著書「備後の歴史散歩(下)」のなかで文安5年、宮地妙光、資弘親子が宝殿一宇を重営したとし、創建は鎌倉時代だと記している。熊箇原八幡神社は縁起、祭神、創祀がまったく繋がらない。三代実録に記された備後国無位隱嶋神とは本当にここだろうか。広島県神社誌をめくってみると熊箇原八幡神社の向かいに鎮座する隠島神社、大浜町の斎島(いむしま)神社、それともう一つ重井町の大疫(だいやく)神社などが有力とされる。

社殿であるが、昭和11年に建立された拝殿は立派である。五間社平入の入母屋造で本瓦葺き。正面に千鳥破風を備え向拝は一間軒唐破風である。何といっても正面唐破風上にのせられた鬼瓦と軒下に飾られる鳥の彫刻が凄く見る者を圧倒する。本殿は三間社流造、身舎柱は円柱を使い長押と頭貫で固定されさらに台輪を回す。柱上は平三斗、柱間にはカエル股が置かれる。妻飾りは虹梁大瓶束で三方を縁が廻り背面は脇障子で止まる。三間の向拝は海老虹梁で身舎と繋がれ、両端の柱上は連三斗。間は手挟みが垂木を受ける。境内も広いし鳥居は5基も建つ。正に因島一の大社であるが、あやふやな縁起が残念である。

写真
左:参道入り口
中:石段
右:参道は長い

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.10.31.387N34.19.10.602&ZM=9

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熊箇原八幡神社

写真
左:随神門
中:随身様
右:拝殿
熊箇原八幡神社

写真
左:拝殿に掲げられた扁額
中:本殿
右:三間社流造銅板葺き屋根
熊箇原八幡神社

写真
左:海老虹梁
中:本殿の背面
右:板壁は補修されている

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