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備後の歴史を歩くコミュの木之庄八幡神社

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木之庄八幡神社(きのしょうはちまん) 福山市木之庄町に鎮座する。

祭神は応神天皇、神功皇后、宗像三女神という典型的な八幡神が祀ってある。広島県神社誌には創祀は南朝年号で弘和年中(1381〜84)という。南朝方の武将が勧請してきたのだろうか。神社由緒書にはそれ以前、建長年間(1249〜56)に越中守武政なる人物が木之庄の新涯を造成したときにその守護として西村武政山に建立したと記されている。永禄年中(1558〜70)に所原肥後守が再興したが毛利元就により社地は没収されたとある。所原肥後守は、毛利配下神辺城主杉原盛重の部下で、九州に出陣中の盛重の留守を狙って神辺城を襲撃し占領した備中後月郡吉井の藤井皓玄を、盛重勢力下の武将をかき集めて攻撃し神辺城を奪還に成功し藤井皓玄を自殺に追いやった武将として知られている。毛利配下の神社が毛利元就によって社地没収というのはいかなる理由があったのだろうか。盛重が建てた神社はその建築様式に一貫性が見受けられる。それは備後には見られない建築様式で、流造や入母屋造の前方一間分が壁板を張らず吹き放ちの外陣とする。これは毛利の支配地、安芸、芸備地方には多く見られ、毛利の建築基準といえる。それから言えばこの八幡神社は毛利の造りとはいえない。いま建つ社殿は明治25年に再建されたもので、三間社入母屋造で桟瓦葺き。妻飾りは虹梁大瓶束。特記すべきは大棟の中央と鬼瓦に水野氏の家紋「抱きオモダカ」が付けられている。この神社と福山歴代藩主水野氏の繋がりはなんだろうか。「抱きオモダカ」が使える神社は滅多にない。私が確認しているのは福山八幡宮、新市の吉備津神社、御幸町下岩成の深草神社ぐらいだ。鞆の沼名前神社にもなかったような・・・。

写真
左:参道と石鳥居
中:本殿
右:幣殿と拝殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.21.28.323N34.29.51.135&ZM=9

コメント(3)

木之庄八幡神社

写真
左:拝殿
中:本殿
右:妻飾り
木之庄八幡神社

写真
左:大棟中央の「抱きオモダカ」
中:鬼瓦の「抱きオモダカ」
右:境内社 荒神社
木之庄八幡神社由緒書は、建長年間(1249〜56)に越中守武政なる人物が木之庄の新涯を造成したときにその守護として西村武政山に建立したと記してあったが、平井隆夫氏は自身が書かれた「おもしろふくやま史」の中で、木之庄新涯が福島正則により造成されたのは慶長年間(1596−1615)であって「建長は誤りだ」と指摘されています。

それと「抱きオモダカ」ですが、同じく「おもしろふくやま史」に、この地の庄屋岡本家に残る文書に承応3年(1654)に水野日向守勝貞が白銀15枚を寄付し再建したと記されています。

白銀15枚の価値がどれほどかは知りませんが、これで本殿と拝殿がそっくり建て変わったならば勝貞は自分の持ち物として「抱きオモダカ」の家紋を付けたのでしょうか。

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