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備後の歴史を歩くコミュの天神社(府川天満宮)

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天神社(府川天満宮) 府中市府川町に鎮座する。

祭神は菅原道真だ。縁起等は全く不明だが、参道入り口に建てられた石鳥居に「明和二乙酉二月・・・」の刻銘が見える。明和2年は江戸中期、1765年だ。また、境内の入り口には「備後国府址」の石柱が建っている。国府は、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷が地方の国の政務を掌握するために国司を派遣した。その国司が政務を行った場所を国府という。その建物は国庁と称される。また、741年には聖武天皇が命じて各国にそれぞれ国分寺と国分尼寺を建立させた。派遣された国司は、赴任するとまず国内の有力な神社を順番を決めて挨拶回りをする。一番始めに出向く神社を一宮と称した。当時、国中の神社を参拝することは大変な労力と時間を要したらしく、後に、国庁が置かれた付近に本来出向くべき神社を一斉に勧請し合祀した。それを総社という。その国府も、室町時代には完全に消滅してしまう。全国に存在したほとんどの関連施設は、その場所も含めて所在不明となっていった。現在、各地で国府址の調査が行われている。備後国においては、府中という地名から、ここに国府が置かれたことは間違いない。国府が持つ施設は、国庁、国分寺(国分尼寺)、総社が三点セットとなる。昭和59年(1984)から始まった府中市元町ツジ遺跡の発掘調査により、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物の遺構が見つかり、ここが国庁址ではないかと思われている。国分寺は神辺町に見つかっており、総社は以前紹介した府中市元町に鎮座する小野神社内に存在する。現在の一宮は新市町吉備津神社だが、それ以前の平安時代は、戸手に鎮座するスサノオ神社が一宮を務めていたとされている。平安時代、国府の置かれた府中市は、華々しい朝廷文化のあふれた街だったに違いない。

 社殿であるが三間社入母屋造の本殿には軒唐破風の向拝が備わる。かつては檜皮葺だったが現在は銅板に葺き替えられた。出組は使われず中備は間斗束だ。本来は円柱が使われる身舎(もや)部分は角柱で略されている。拝殿は四間社入母屋造で、後部幣殿の屋根は本殿の唐破風向拝の下へ入り込んでいる。拝殿の前には、中が通り抜けできる割拝殿が建つ。

写真
左:拝殿と本殿
中:本殿
右:本殿軒唐破風と幣殿の屋根

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.14.29.271N34.33.43.295&ZM=10

コメント(12)

天神社(府川天満宮)

写真
左:本殿の裏側
中:「備後国府址」石柱
右:石鳥居に刻まれた「明和二年乙酉天二月・・・」
天神社(府川天満宮)

写真
左:参道
中:割拝殿
右:境内社
地図

備後国分寺
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480226.227&Y=124421.913&SCL=1000


備後国総社(小野神社)
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=479677.041&Y=124465.687&SCL=1000
少し時間が経過しましたが、14,15日夏祭りがありました。
当日は行くことができませんでしたが、準備中の神社を撮影しました。

参道や社殿の回りに提灯が取り付けられた。
雨対策でビニールを被せてある。
祭りといえば御神輿と鉦や太鼓。

左:大人の御神輿
中:子供神輿
右:これは去年撮影したもの。
  拝殿の前に横一列になって打つ
はい、ここが休憩所になっています。
今年は楽しみにしていた太鼓の打ち上げがありませんでした。
天満宮といえば菅原道真。
菅公といえば梅ということで境内社前の梅の木です。
(三月十三日撮影)
まだつぼみもいっぱい付いてますね!!

品種によって違うようで、狛犬の所にあるのはもう散り始めています。

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