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備後の歴史を歩くコミュの福井八幡神社

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福井八幡神社 福山市瀬戸町長和に鎮座する。

創建は承和元年(834年)京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請し、長和庄福井に鎮座したとされる古社だ。古くは長和、草戸、佐波、水呑4村の氏神とし、社人が12名もいたとされる大社であった。社殿は山名氏が再興し、毛利時代には足利義昭が再建し、現在の社殿は昭和六年に改築された。以上が広島県神社誌に記されているが、承和元年(834年)に京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請したとあるのは間違いである。男山八幡宮は貞観二年(860年)清和天皇により宇佐から勧請し創建された神社だ。恐らく山名氏が男山から勧請し再興したものだと思う。清和天皇により創建された男山八幡宮は清和源氏の守護神となり全国制覇をした。これがために戦国の武将達は、この武運にあやかろうと、こぞって男山から勧請し各地に八幡神社を建てていったのだ。京都男山から勧請し建てられた八幡神社は、その土地の戦国武将の守護神と思って間違いない。ただ、武運にあやかることの出来なかった武将が多い・・・。境内には吉備津彦を祀った五社神社もある。昭和六年に再建された本殿は、福山藩の標準とされる三間社入母屋造で向拝付き銅板葺き屋根だ。平井隆夫氏が書かれた「おもしろふくやま史」に水呑八幡神社とこことの面白いやりとりが記されているので、水呑八幡神社で紹介しよう思う。

写真(狂ちゃん撮影)

左:参道と石鳥居
中:平入り切り妻造に向唐破風向拝を持つ拝殿。正面からの、この写真ではわからなかったが横へ回ると千鳥破風が付き、その中から向唐破風向拝が付けられている変わった造りだ。下の社殿全景の写真でそれが確認できる。

右:本殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.19.43.900N34.28.2.067&ZM=9

コメント(8)

写真(狂ちゃん撮影)

左:五社神社
中:その本殿
五社神社本殿の屋根が二つ見えるが、これは何だろう?
後ろの社殿の屋根だけが写っているのか、それとも、まさか比翼造り・・・?
福井八幡神社の本殿は千木と鰹木が付いています。

比翼の入母屋造だったら備中吉備津神社と同じ形式です。

一見の価値あり!!

鰹木(かつおぎ)は棟を押さえる役目の丸太をいう。千木(ちぎ)は屋根端のクロスした板をいう。
千木には内削ぎと外削ぎがあり、ここの本殿のは外削ぎとなっている。内削ぎだと切り口が水平となる。祭神の男女で使い分けるとも言われているようですが、特にはないようだ。
さっきから写真をじっと見ていますが、五社神社本殿の屋根はどう見ても比翼の入母屋に見えます。

明日、確認してきます。
福井八幡神社の境内社「五社神社」の本殿はやはり「比翼入母屋造」であった。これは岡山県備中吉備津神社の国宝本殿と規模こそ違うが同じ造りである。

一間社と小柄ではあるが床下にまで木組を施されていた。

神社庁への登録は「八幡神社」だけである。このような神社は多い。このコミュ内では頭に地名をつけて登録しているが、ここの八幡さんは福井八幡神社と石柱も建てられていたので神社名はこれで登録させて頂いた。

写真

左:福井八幡神社石柱
中:五社神社本殿 入母屋が2つ並んでいる
右:備中吉備津神社の国宝本殿(撮影狂ちゃん)
床下にまで木組がくんであった。
参道も長く、また境内も広い。周囲は社叢が取り囲む、創建当時は大社であったことがよくわかる。この神社の神輿は喧嘩神輿だそうだ。本文でも紹介したが、古は長和、佐波、草戸、水呑の四体の神輿があったものと思われるが、現在は三体あるそうだ。戸手天王社のように神輿を合わすことは今はしないそうだが、秋祭りでは、かつては四体で合わせ、村のメンツを掛けてまさに喧嘩になったのだろう。

写真
左:長い参道
中:広い境内
右:床下の木組
五社神社の祭神は「吉備津彦」だ。
それで本殿形式も備中吉備津神社を手本としたのだな。

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