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備後の歴史を歩くコミュの淀姫神社

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淀姫神社(よどひめ) 福山市鞆町平(ひら)に鎮座する。

鞆港の常夜灯。湾の奥で波も立たない水面にまるで鏡のように映し出される。その常夜灯から右手にある岬の突端、小高い山頂に社殿が見える。沼名前神社の境外社に属し、神社誌への記載はない。参道入り口に建てられた由緒書によると、鎮座する小山は明神山というらしい。神功皇后の妹「淀姫」を祭神として、古来、平地区の産土神(うぶすなかみ)として祀られてきた。現在の社殿は大正2年の造営で、拝殿前には神輿の飾り場がある。旧暦7月7日(現在は8月第1土曜日)は、俗に「だんご祭り」と呼ばれる淀姫神社の祭りで賑わい、「平の投げ神輿」として有名である。と書かれている。

神功皇后(じんぐう)は第14代仲哀天皇(ちゅうあい)の皇后で、暴れるクマソを撃つかどうか仲哀天皇、大臣武内宿禰(たけうちのすくね)と共に住吉神の御神託を受けた。すると住吉神は「今、クマソは撃たなくても良い。それより朝鮮半島へ出兵しこれを平定せよ」と授けた。しかし、これに従おうとしなかった仲哀天皇は神に背いたとして亡くなってしまうのである。天皇が崩御すると皇位継承が行われるが、神功皇后はこの時すでに後の応神天皇を身籠もっていた。応神天皇には異母兄弟がおり、なんとしても我が子に継がせたいと考えた神功皇后は、崩御を隠して子どもを身籠もったまま武内宿禰を従えて朝鮮半島へ出兵(三韓征伐)したのだ。その途中で鞆に立ち寄られ航海の安全を祈り海神オオワタツミを祀ったことは「沼名前神社」の項で書いた。お腹に3個の石を抱えて冷やし、出産を遅らせたとある。三韓征伐に成功した皇后は九州に凱旋、筑紫の宇美で無事応神天皇を出産した。帰路、再び鞆に寄られ、身につけていた「鞆」という弓矢を射る時に左手首につけ、射った後の弓の弦が腕に当たるのを防ぐ武具を奉納したとされる。そして実の妹「淀姫」を鞆の地に残し、オオワタツミを祀らせたとされる。「鞆」という地名はここから付いたものだ。その淀姫をお祀りした神社がここ「淀姫神社」だ。ここからの見晴らしは非常に素晴らしく鞆の浦が一望できるが、近くに駐車場はない。歩いて参拝してください。

余談であるが、あまりにも応神天皇の出産が遅れたことが問題である。この三韓征伐の功が認められ、住吉三神は大阪に住吉大社として、神功皇后も一緒に肩を並べるように祀られた。住吉三神とは神話に登場する神で底筒男命(そこつつのお)、中筒男命(なかつつのお)、表筒男命(うわつつのお)の三神であるが、これを武内宿禰とする説がある。そして応神天皇の本当の父親は武内宿禰ではないかというのだ。八幡神で登場する「宇佐」、「住吉」、「宗像」には「宇佐(応神天皇)は住吉(武内宿禰)の子」「神功皇后と住吉に密事あり」など仲哀天皇の死因も含めて、それぞれに興味深い伝承が残っているのだ。


写真(狂ちゃん撮影)

左:参道石鳥居
中:拝殿 入母屋造、唐破風向拝付き銅板葺き
右:流造本殿

地図
https://yahoo.jp/DTUj2q


コメント(10)

狂ちゃん・・・


海の写真が無いのですが・・。
西又さん、常夜灯の写真を貼り付けてください!!
鞆から見える淀姫神社
左:常夜灯のすぐ右奥に小さく見える
右;鞆の浦歴史民俗資料館から鞆湾を望む。
  右下方に小さく常夜灯があり、その右上の方に淀姫神社。
  (右側から張り出したように見える所の頂上にある)
狂ちゃん、西又さん、素晴らしい写真をありがとうございます。
西又さんなら、常夜灯と淀姫神社の2ショット、お持ちだと思ってました!!
いいえ、どういたしまして。
以前撮影したものがありましたのでそれも張っておきます。
撮影日:2002年11月
(日が落ちてから写したので色が少し変わっています)
“鞆の浦”の名前の由来が、神功皇后=息長帯姫が御愛用の“鞆”を大海神に奉納した故事にあったとは知りませんでした。しかも妹の淀媛様が海上交通の要衝のこの地に残って祭祀なさっておられたとは。とうぜんその子孫が今も住んでおられるわけですね。

じつは、なぜ息長斎皇家の隠し宮が鞆の浦のような片田舎にあるのか、今日までまったくその理由を知りませんでした。無学な無神論者は駄目ですね。何度も宮に招かれていながら、誰も説明してくれないのでまったく分かっていなかったのです。沼名前神社に凄い重さの石が並んでいますが、同じようなサイズの物が隠し宮の庭にもあって、宮を守る男衆は、毎日抱え上げて体を鍛えておられます。あの方々にはちょうど良い大きさと重さのようですね。息長一族の足跡がしっかり残っているのも当然でしょう。

じつは先代斎皇の耀姫様がまだ6歳の御幼少の頃に、春日池の公園で私は会っているのです。なぜそんなところに現れて遊んでおられたのか、さっぱり分からなかったのですが、ようやく合点がいきました。神功皇后の審神者を務めた中臣氏=藤原氏(北家)の荘園が坪生庄であり、その最も重要な修行の場=霊場が愛宕山で、神功皇后=息長姫を祀る神森神社があるわけです。すると、愛宕山まで修行に行って鞆の浦の隠し宮まで帰るルート上に春日池の公園が位置することになります。つまり、修行の帰りに立ち寄っては遊んでおられたということになります。

藤原氏と言えば本来は守護神の武甕槌命を祀る春日大社系列の筈なのに、神功皇后の八幡系列の祭祀を行っていますから、変だと思っていたのです。つまり、息長斎皇家は鞆の浦に分家の一つを置いて、その領地として坪生庄を持っていたのですが、この社家は日の巫女の神道を母系で継承する皇統を産み出した最も貴い母方のお家として存在を伏せられてきた関係から、審神者を務める配下の藤原氏に表向きの荘園の管理を任せていたということですね。

昨日も耀姫様が御忍び姿(笑)で愛宕山に登っておられたので、今でも修行場はきちんと機能しているようです。御一行は踏み跡を残さないように歩いておられたので、愛宕山の頂上付近の雑木林には立ち入るのを控えたほうが良さそうです。
>>[9]
随分と心地好い場所ですが
愛宕宮から上へ行けないのは、
そう言う結界でしたか。

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