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備後の歴史を歩くコミュの愛宕神社本殿

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福山市重要文化財 草戸町 愛宕神社本殿

 3月13日は福山市草戸町、国宝の本殿と五重塔を持つ明王院の裏山「愛宕山」山頂に鎮座する愛宕神社の大祭日で、「備後の歴史を歩く」コミュ4名で参拝してきた。この本殿は普段は覆屋内に収められていて見ることが出来ないが、年に一度の大祭日(旧暦1月24日)にだけご開帳となる。それが今年は昨日だった。明王院の奥に石鳥居があり、ここから山頂ご本殿までの距離を地図ソフトで測ったらざっと222m。参道は綺麗に整備されていて普段でも草戸山公園(山岳公園)に含まれ散歩コースとなっている。山頂から南にさらに500mほど歩くと明王台貯水池展望台に着く。ここからの見晴らしは素晴らしい。

 午前10時に明王院駐車場へ集合。狂ちゃん、D&Aさん、私、そして紅一点akiさんの4人でまず明王院に参拝する。普段は閉まっているはずの書院の門がこの時は開いていて、だから入ってみたのだが、さっそく叱られた・・・。(閉めとけよ!!)

 火渡り修行の跡を見て、昨晩の余韻を語り、さあ登頂開始。途中中腹に愛宕神社があるが火渡り修行はこちらの行事だ。明治までは明王院と草戸稲荷は習合しセットだった。山頂のは「愛宕神社奥の院」と呼ばれていたが、明治政府の発令した神仏分離により神社は草戸稲荷の管理となった。ただ火渡り修行だけは神仏習合の名残で行者姿の修行僧らによって今日まで続いている。

 お年寄りも山頂を目指す。私たちも山頂を目指す。たかが200mほどの階段状に綺麗に整備された参道を登るが、これがきつい・・・。

 昭和39年10月10日 福山市重要文化財指定
草戸町愛宕神社は明王院の裏山に鎮座し明王院の鎮守社であったが、明治の神仏分離により現在は草戸稲荷神社に属している。本殿は覆屋内に納められており、宝形造の前面に縋【すがる】向拝があり、唐破風付、桧皮葺【ひわだぶき】とした複雑な屋根(春日造社殿の屋根を宝形造とした珍しいもの)で棟高3.6m、正面柱間1.06mの小社である。棟札により寛永5年(1628年)の創建が明らかで、規模は小型だが、各部精巧で意匠が優れており江戸時代初期の風趣をよく残している。保存状況も良い。

福山市ホームページより引用

 ゆっくり登って約10分。ご本殿についにご対面だ。水野勝成による福山城築城が元和8年(1622年)それから6年後に福山城の防火守護のために勝成が造営したもので、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社が本社である。祭神は「カグツチ」「イザナミ」の二柱。カグツチとイザナミは親子で、母イザナミが産んだ最後の子だ。この子を産んだ際にやけどを負ってイザナミは死んでしまう。それが「火之神」の由縁だろう。イザナミの埋葬地として、「古事記」では出雲国と伯伎国の間にある広島県比婆山。「日本書紀」では、紀伊国は熊野の有馬山としているように神話の世界でその特定は出来ないが、それでも明治政府の宮内省は松江市(八雲村)の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定している。広島県庄原比婆山の伝承では、妻の死を悲しんだ「イザナギ」は妻の比婆山の墓に向かって「我が妻よ」と嘆き悲しんだそうだ。その地が「吾妻山」とされる。

 来年であるが、前日夜に行われる「火渡り修行」に参加してみようか・・・。

 降りて隣の草戸稲荷へ参拝。懸崖下の拝殿がすでに檜皮葺から銅板への葺き替え工事中だ。懸崖上へは工事中で上がれなかった。工事現場下に落ちていた檜皮の一部を記念に持って帰った・・・。

 次回は、山手銀山城跡、長峰城跡の探検ツアーを予定しています。ご一緒にいかがですか?


写真

左:愛宕神社本殿

中:草戸稲荷末社の檜皮屋根 檜皮の上がびっしりとコケが付いている。これでは常時湿気た状態で、痛むのも早いだろう。定期的に除去してやればもっと持つのだと思う。

右:工事中の拝殿


地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.20.47.352N34.28.29.686&ZM=9

コメント(4)

愛宕神社本殿の建築様式

桁行一間、梁間一間、方形造、向拝一間、軒唐破風付き、檜皮葺

寛永5年(1682年)水野勝成 建立 
広島県福山市、国宝の本殿と五重塔を持つ明王院。この明王院を別当寺として初代福山城主水野勝成は元和8年(1622)、築城完成した福山城の守護として明王院の裏山山頂に京都愛宕神社を勧請し、小社ではあるが寛永5年(1628)一宇を建立した。この社殿は建立当初から覆屋内に納められていて、現在に江戸初期の建築意匠をよく残し、福山市重要文化財に指定されている。

京都愛宕山の開祖は役行者である。愛宕神社は神仏習合した時代には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵と愛宕山の天狗の太郎坊がセットで祀られている。明治初年に神仏が分離され、明王院奥の院とされてきた福山市愛宕神社は以来草戸稲荷神社が管理するようになった。恐らくこの時期だと思うが両脇に祀られていたとされる行者堂と太郎坊も引き分けられ「今は無し」と昭和14年発行の備後史談に濱本鶴賓氏は記される。

福山市草戸町愛宕山、現在は草戸山公園(以前は山岳公園)として一帯が整備された。旧暦の1月24日に明王院の境内では火渡り修行が行われ、元奥の院の市重文本殿も年に一回だけこの日にあわせて覆屋がご開帳される。今年は3月1日だった。イベントでも紹介したが明王院から山頂に向けて標高100mほどを登る。中腹に愛宕神社、山頂に元奥の院が鎮座する。中腹の愛宕神社でその社殿の中の祭壇を見て驚いた。正面に小ぶりな勝軍地蔵が、向かって右側には役行者像が太郎坊の天狗の面と共に祀られていた。神仏が引き分けられたあと、奥の院だけは愛宕神社として草戸稲荷が管理をし、行者堂と太郎坊、勝軍地蔵は明王院にしっかりと守られていた。

お祭り中であったが思わず上がらせていただき、写真を撮らせてもらった。
愛宕神社は、水野勝成が福山城の守護神として寛永5年(1628)に造営し創祀たと紹介したが、昭和13年10月号の備後史談で濱本鶴賓氏は「福山、草戸山岳公園の中心」と題し「愛宕、太郎坊、行者堂の由来」を書かれている。それによると、愛宕神社の別当寺であった明王院が地方切っての古刹であることから愛宕社の創建も相当古いのではないかと記されている。

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