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memo メモ めもコミュのメモ 240109

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精神の生態学 step to an ecology of mind
著:グレゴリー・ベイトソン 訳:佐藤良明

第二編 文化と形式

●プリミティブな芸術の様式と優美と情報

☆☆☆☆
人や物(あるいは超自然的存在)を知覚してそれを木の像や絵の具のパターンに変換するときのコードに、その芸術家と文化に関する情報が込められるのである。
 わたしの関心は、この変換の規則そのもの-メッセージではなくコード-にあるのだ。
p.202
■関係性の建築とコード、コードィング、変換器の役割。運動がパターンになりパターンが記号となる。ICFコードと記号、そしてそこまでの記号と運動、運動とパターン、パターンの察知、察知から記号化、名付けへの流れ。

芸術はそれが属する文化に「ついて」のものだ、あるいは部分的に文化から「導き出され」、また文化によって「規定される」ものだと我々は考える。この考えを、極度に単純化すると、こんな図式が得られるだろう。

[芸術作品の特性/文化の他の諸特性]
p.204

☆☆☆☆
[「雨が降っている」の諸特性/雨粒の知覚]

このケースが決して単純なものではないことに注意したい。雨粒についての推測が可能になるのは、あなたが私の話す言語を理解し、私の述べることにある程度の信頼をよせている場合に限られる。実際、こういう場面では、ほとんどの人が窓の外に目をやることだろう。そうやって情報を重複させることを、人間は抑制しないようなのだ。われわれは。自分の推測の正しさと、友人の正直さの確認を求める。さらにもっと重要なこととして、われわれは他者との関係に関する自分の見解の正しさの確認を求める。
 今の最後の点を軽視してはならない。すべてのコミュニケーション・システムが必然的に階層的な構造をとるという原理が、そこには明快に示されているからだ。パターンづけられた全体の中の部分間の関係の整合性や不整合性[“和”や“不和”]-その他あらゆる関係のありよう-がそれ自体、より大きな全体の一部として情報を担っている。これを図示すると、こんなふうになるだろうか。

[(「雨が降っている」/雨粒)/あなたとわたしの関係]
p.205
■和辻哲郎さんの言う「間柄」を考えてみよう。私たちが冬の雪の中、「冷たい」と感じられるのは「わたしたち」が感じているからであり、わたしが感じているからではない。「間柄」を考えることだ。風景と建築、風景としての建築とは、そのようなものだと言えるのではないだろうか。「間柄」が形成されるまで、「雨が降っている」という言葉、メッセージ、「雨粒」という事象、その二つの相互関係のパターンが、間柄を形成する。

「雨が降っている」という言語的なメッセージを区切る切れ目と、降っている雨を区切る切れ目とは、単純な対応関係にない。
p.206

メッセージの階層性
p.207

☆☆☆
精神が異なった層からなっているという考えは、これまでさまざまな角度から提示されて来ている。そのうち、芸術への科学的アプローチに関わってくると思われる四つを掲げておこう
1.物事を深く「知る」につれて、その知識について意識する度合いが減っていくと言うサミュエル・バトラーの主張。つまり、知識(あるいは行動・知覚・思考の「習慣」)が精神のより深いレベルと沈降してゆくプロセスが見出されるということだ。然の修行は、このプロセスの進展にねらいを定めた非常に明瞭な例だが(ヘリゲルの「弓と禅」参照)そればかりでなく、この現象は、すべての芸術と、すべての技能獲得のプロセスに関わるものである。
2.三次元の視覚像の生成プロセスについて、アダルバート・エイムズが行なった実験の成果。視覚神経が捉えた情報から立体的イメージが作られるときのプロセスには、遠近法など数々の数学的前提が組み込まれているが、それらの運用は完全に無意識のレベルで進められており、そのプロセスを意志によってコントロールすることは出来ない。ヴァン・ゴッホが独特の遠近法で描いた椅子の絵を前にして奇異な感覚に襲われるとき、我々は無意識にとって自然な見え方をほのかに意識するのである。
3.夢を「一時過程」にのっとってコード化された隠喩の群れと考えるフロイト派(わけてもフェニヘル)の理論。芸術の様式-こざっぱりしたまとまり、大胆な対比等々-は隠喩的なものであり、したがって一次過程の進行する精神のレベルに根ざしている。この点について後に論じていこう。
4.無意識を、恐ろしい、苦痛に満ちた記憶が抑圧のプロセスによって押し込められた地下室ないし戸棚として考えるフロイト流の見解。
p.208-209


☆☆☆
今日では意識こそ神秘であり、一時過程など無意識の演算プロセスは、たえまなく働く、必要不可欠な、全包括的なものとして考えられるようになっている。
p.209
■意識を保つ、意識の部分を定常のものとするために、無意識の部分が動き続ける。

まるで意識的な知。意識による制御が、常に増大していくことが可能であり、言うまでもなくそれは向上なのだといわんばかりだ。この見解は、ほとんど完全に歪んだ認識論とまったく完全に歪んだ人間観・生物観の所産である。
p.210

意識は十分におさえられた状態で、はじめて精神プロセスの役に立つわけだ。習慣によって無意識に事が運ぶことで、思考と意識の節約がもたらされる。知覚のプロセスに意識が割り込めないのも、理由は同じだ。意識は何を知覚したかを知れば良いのであって、どのように知覚したかを知る必要はない。そんなことをしても、精神全体にとって「得」にならないのだ。(意識出来ない一次過程が基本にあるからこそわれわれは機能出来るのであって、そうでなくても機能出来ると考えることは、脳が違った構造を持つべきだと主張するのに等しい。)
p.210

☆☆☆
ネコがマットの上に居ない時「ネコはマットの上だ」と言う事は出来るし、愛していない相手に向かって「愛している」と言う事も出来る。しかし話の内容が関係そのものに及ぶとき、その発話に普通、意識によってコントロール出来にくい自立したシグナル群がついてまわる。そして言葉によるメッセージよりも、それに対するコメントとして位置づけられる体感的なメッセージの方に、人はより大きな信頼を置くものである。
p.211
■体感的なメッセージ、駐車場というフィールドが形成する「間柄」、体感的なメッセージが生まれる。他人の運転への視線、察知される運動力の変化からの診察?フィールドが持つ意味、、

「作品が内包するメッセージ素材のどの要素が、芸術家の心の(意識から無意識へ至る)どの階層と結ばれているのか?」感情性豊かな批評家は、まさにこの問いをもって芸術作品に接しているのではないだろうか。(そのことを意識してはいなくても)
 この意味で芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズであると言える。あるいは、この種のコミュニケーションがより十全に行なわれるように我々の精神を鍛錬する事を一つの働きとする、遊戯行為であるとも言える。
p.211

「部分的に無意識的なメッセージをわたしなりに作ってみました。これを通して部分的に無意識的なコミュニケーションをやってみませんか」あるいは-「これは、意識と無意識を繋ぐインターフェイスについてのメッセージです。」
p.212

 芸術家は奇妙なジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって義能に熟練していくにつれ、自分がそれをどのように行なっているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が“身”につく。
 芸術家の試みが、自分のパフォーマンスの無意識的要素を他人に伝えることであるとしたとき、彼は一種のエスカレーターというのだろうか、動く階梯の上に立ちながら自分の乗っている段の位置を表現しようとするのだけれども、その努力そのものが段を上昇させてしまう、そんな状況にいるのだと言える。
 これは明らかに不可能な試みだ。その不可能な事を、きれいにやってのける人達というのがいるのである。
p.213

一次過程の特徴としては-フェニヘルらの説明によると-否定形を欠くこと、時制を欠くこと、いかなる動詞の法(直接法、仮定法、希求法・・・)にも収まらないこと、隠喩的である事が挙げられている。これらは、夢解釈や自由連想のパターン研究を専門とする精神分析医の経験から出て来たものである。
〜、
一次過程はふつう、何(または誰)について語っているのかを明かさない。関係が結びつける具体的な項ではなく、関係そのものに焦点を当てるのだ。
p.215

自分と他者、あるいは自分と外界との関係に限られるのだ。
この自分対他人、自分対外界の関係こそわれわれが愛・憎・恐れ・安心・不安・敵意等によって「感じ」ている事柄-それらの「フィーリング」によって扱われている主題-である。
p.214

これらはみな関係性のパターン指す抽象観念であるのに、そのパターンを厳密に把握しようとせずに、すべて量の問題に還元されてしまっているのは残念なことだ。ナンセンスな心理学が歪んだ世界認識に寄与する、これはいい見本と言っていいだろう。
p.215

単純な否定が存在しないという事実は特に興味深い。この場合、動物は、言っている事の反対の事を意味しているのだという命題を伝えるために、意味している事と反対の事を言う状況に追いやられるわけだ。
 二匹の犬が近寄って、「闘わない」というメッセージを交換する必要に迫られたとする。ところが、イコンによって「闘い」に言及するには、牙を見せるほかない。このとき彼らは、提示された「闘い」が単に模索段階のものであることを了解する必要がある。そこで彼らは、牙を見せられたことの意味を探っていくことを始める。一応けんかを始めてみて、その上でどちらも相手を殺傷する意志のないことを知り、その後に、親しくなるのであれば親しくなるというやり方である。
p.215

一般に動物は、自分と他者の、および自分と外界の関係について語るが、いずれの場合も、それが何と何との関係であるかを明らかにする必要はない。動物Aは、自分とBとの関係をBに語り、自分とCとの関係をCに語ればいいのであって、自分とBとの関係をCに語る必要はない。
p.216

☆☆☆
ミルクを欲しがるネコは、(ミルクがその場になければ)欲しいのがミルクであると特定する事は出来ない。ネコはいわば「ママ,ママ」と鳴いて依存のテーマを持ち出すだけだ。そこから欲しいのがミルクであることを推察する役目が飼い主に課せられて来るわけである。
p.216
■「ちゃんとしゃべりなさい、なにが欲しいの?」という子どもへのしつけ、これは動物ではなく、あなたは人だ、言葉を持っているんだ、という意味を暗に含んでいる。人は言語としぐさの両方を使うことで高度なコミュニケーションを成立させる。子どもへのここでのしつけは、より高度なコミュニケーションをするのに、言語的な側面が足りない、と言う事を教える、諭すのであれば良いが、論理的な側面のみでコミュニケーションを取るのが人間だと、教えるのであれば過ちであろう。

☆☆☆☆
 習慣形成のプロセスが、より無意識的でより太古的なレベルへ知が沈んでいくプロセスだと言う事を述べたものである。無意識の中に含まれるのは、意識が触れたがらない不快な事柄だけではない。もはや意識する必要のないほど慣れ親しんだ事柄も多く含まれるのだ。“身についた”ことは、意識の手を離れ、そのことで、意識の経済的な活用が可能になる。芸術家が「腕」を見せるとき、彼は自分の無意識に沈めた事柄に関するメッセージを伝えているのである。(ただし、それを無意識からのメッセージというのは適当ではない)
 問題は、それほど単純ではない。無意識レベルに沈めた方が得な知もあれば、表面に残しておかなくてならない知もある。総体的に言って、外界の変化に関わらず真であり続ける知は沈めてしまって構わないが、場に応じて変えていかなくてはならない行動の制御権は確保しておかなくてはならない。
p.217
■制御権の確保、それをどのように行なうか?また、その場その場で制御権とはなにを指すのか?

☆☆☆
技skillなきところに芸artはない
p.219

今われわれは小児麻痺を防ぐ事が出来るが、この魅惑的な病気が一体なんであるのか、システムの見地から知っている人間はいない。研究はストップしたか、あるいはワクチンの改良と言うささやかな目的に限られてしまっているのだ。
p.221

「この芸術作品を創る、あるいは見る事で<智>に向けてどのような心の修正がもたらされるのか?」
p.223

つねに一定の音色を出せるバイオリン弾きだけが、音色の変化を芸術的効果のために使う事ができるということだ。
p.224

☆☆☆
二つの極は相互に依存しており、一方を排除して他方を選ぶことはできないということを、作品の統一と統合が主張している。この深く、普遍的な真実が、性と社会組織と死の領域において同時に打ち出されているのである。
p.229

●コメント

☆☆☆☆
草原自体がウマその他の有蹄動物のヒヅメの進化と歩調を合わせて進化して来たはずである。ウマの進化に対する草原からの答えとしてシバがある、ということだ。つまり「コンテキスト」こそが進化する。
 振り返ってみると、分裂生成プロセスを対称型と相補型とに分類する事で、わたしはすでに行動のコンテクストの分類をやっていたのだった。
p.234
■コンテキストが進化する、この視点を忘れはならない。進化と言わずとも変化しなくてはならない。それはそこにいる主体と一緒にである。相互に依存している状況である。

☆☆☆☆
「コンテクスト構造もそれ自体メッセージになる」
p.235

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