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memo メモ めもコミュのメモ 230109

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精神の生態学 step to an ecology of mind
著:グレゴリー・ベイトソン 訳:佐藤良明

第二編 文化と形式

●文化接触と分裂生成

今挙げた行政上の問題に対して答えることが強く求められていて、その答えが文化接触の研究から出てくる可能性が強いとしても、まっとうな科学をやるのであれば、科学的に定式化された問いを掲げなくてはならない。その段階で最初の行政的な問いからの逸脱が必然的に生じることを自覚しなくてはならない。“犯罪学”という名の奇妙な科学は、このことを 帰謬法的に証明している。この“科学”は、人間を「犯罪者」と「非・犯罪者」に二分するところからスタートした。そして「犯罪者タイプ」の定義につまずいてしまって、長年の間進歩していないのである。
p.120

ある文化特性を、「経済的」とか「宗教的」とか「構造的」とかいう項目に割り振ってすますことはできない。一つの特性が、経済の観点から眺めれば経済的なものに、宗教の観点から眺めれば宗教的なものになることを忘れてはならない。これは文化の共時的な研究に限ったことではない。文化の接触と変化という通時的なプロセス研究にも、同じ考えで望むことが必要である。どんな文化的特性であっても、それが提供され、受容され、拒絶される現象には、経済的かつ構造的かつ性的かつ宗教的な原因が一度に働いていると考えるべきである。
p.121

ここで注意が必要なのは、ある文化に内在する論理が別の文化に内在する論理と根本的に異なるということだ。
p.122

文化内に生きる人間の思考のパターンは、彼らのとる行動が論理的なものとして映る方向に標準化されている、
p.123

つまりここでは人々の行動の総体が、個人において情的な充足や不満を生み出す恊働的メカニズムとして捉えられる。
 文化に備わった情動のメカニズムを見ていく際にも、やはりパーソナリティの情緒的標準化というところへ問題を転換して考えることができるようだ。人間は自分の行動が感情的に矛盾なく進行するよう、文化的調整を受けるだろうから。
p.123

集団の分化には、無限の可能性があるわけではない。二つのカテゴリーにはっきり分けることが出来る。
a-関係の形式が主として対称的であるケース。別々の半族へ、氏族へ、村々へ、(ヨーロッパにおけるような)国々へ分かれる分化がこれにあたる。
b-関係の形式が相互補完的(相補的)である場合。異なった社会階層、階級、カースト、年齢グループへの分化がこれにあたる。文化的な意味での性の文化も、しばしばこのカテゴリーにはいる。[Mead,1935]
p.125

対称型の分化 「分裂生成」
自慢とは自慢に対する反応なのだとすると、このとき、互いが互いを駆り立てるようにして、ますます強い自慢的な行動をとっていくというプロセスが進行しがちである。そうした「分裂生成」が始まると、なんらかの歯止めが働かない限り、お互いへの敵意が一方的に高まってシステムが瓦解することは、いずれ避けられなくなる。
p.125

相互型の分化
「服従」が「強圧」を促進し、それがまたはねかえってさらに「服従」を促進することになりやすい。この型の分裂生成も、抑制が働かなければ、双方の集団成員の性格をそれぞれの方向へ歪めていき、両者間の敵対性を強めて、ついには関係システムを崩壊に導くものである。
p.126

交換型の関係
AはつねにBに対してサゴを売り、BはつねにAに対して魚を売るという関係のパターンは、私が見る限り相補的である。交換的なパターンというのは、関係の内部で相互の埋め合わせがなされバランスがとられているために、分裂生成に向かわないことを注記しておこう。
p.126

分裂生成の抑制ファクター
1.関係性を、主だった特徴によってAかBかに分類するのは易しいことだが、対称型の関係にごくわずかな相補的行動を混ぜるだけで、また相補型の関係にごくわずかな対称的行動を混ぜるだけで、著しい緊張緩和と関係の安定化が得られるものである。
p.128
3.〜、そもそもは交換的に振る舞っていたものが、典型的な相補のパターンに陥り、相補型の分裂生成をきたしていくというのは、関係がたどるひとつの自然な道筋だともいえそうである。
4.〜、共通の外的要素があるときは、その進展が抑制されることは間違いない。


●民族の観察から私が進めた思考実験

科学的思考の前進は、ゆるめられた思考と引き締められた思考の合体によってもたらされるものであり、両者のコンビネーションこそが、科学研究においてもっとも大切な道具であると思うのです。
p.135

喩える相手を捜すときは乱暴でもいいから出来るだけ自由にやること、そして相手が決まってアナロジーを展開する段になったら、借用先の分野で打ち立てられている論法に厳密にしたがっていくことーこの組合せだと思います。
p.135

放射対称動物では、それぞれ扇形をなしてならんでいる体節の間に、これといった差異は見当たりません。
p.136

たとえば他の氏族が誇っている歴史(神話)上の出来事を勝手に解釈して、自分たちの一族の歴史にはめ込んでしまうことを平気でする。つまり彼らのトーテミズムは詐欺まがいの代物ですが、そうした盗みあいによって、民族全体の構成部分間の差異が減少するしくみになっているわけです。
p.136

破門的分裂
p.136

悪行と言うものは、肉体的なものであれ知的なものであれ結局のところ退屈なものですから、その退屈さに当人が気付くまで悪業にふけらせるというのが、効果的な治療になることが結構あるものです。一種の実践的帰謬法とでも言いましょうか、思考なり行動なりを、そのバカバカしさが明らかになるまで徹底していくというやり方です。
p.143

他愛ない実験と見えるかもしれないが、これは私には重要だった。ここに長々と披露したのも、読者のなかに、「構造」というような概念を、まるで文化内で「相互作用」を行なう一つの具象的な部分であるかのように考えてしまい、それらが研究者または原地人が世界を見るときの「視点」に貼られたラベルにすぎないのだということが見えにくくなっている、かつてのわたしと同じような方がいるのではないかと推測したからである。
p.146
■構造とは不変のものではない。


●国民の士気と国民性

まず、共同体相互の間で異なっているのは人間ではなく環境なのだと言う議論がある。問題にすべきなのは、地域の歴史的背景と現在の状況なのであって、それさえ見ていけば、住民の「性格」の違いに立ちは入らなくても、その行動の違いはすべて十分に説明出来るとする考え方だ。
p.151

学習によって獲得される性格というものが、行動を大きく左右することを、われわれは他のデータから明らかにしているのであり、その知識を活かそうとするかぎり、「性格」を余計なものとして切り落とすことは出来ないからだ。
p.152

単一の「組織された」存在―そのすべての「部分」ないし「側面」が相互に規制し作用しあう、単一の連関性のなかにある存在―だということ。そして第二に、共同体も、これと同じ意味で「組織された」存在であるということ。
p.153

彼らの間に見られるのは、<見るー見せる>、<支えるー頼る>、<上に立つ-下に来る>、あるいはそれらを複合した相互補完的なパターンであって、それぞれが相手と無関連に動くケースは、まったく観察されないのである。
p.153

二つの異なった集団が、同じ共同体に踵を接して暮らしていながら、それぞれの特性の間に何の関連も持たないという事態は、私には想像出来ない。
p.154

要するに人は、支配か服従かのどちらかを習得するのではなく、<支配-服従>というワンセットで習得する。
p.154

☆☆☆
学校が植え付けようとする規範に従った行動を身につけないにしても、その規範自体に対する行動形式は身につけるわけだ。それが規範とは正反対のものになることはあるだろうし、実際そう言うケースは多い。しかし、それと全く関連を持たない行動形式を身につけるケースは考えられない。「あれでパブリック・スクール出たのか」と言われるような人間になったとしても、あるいは精神病院に収容されるような人間になったとしても、その逸脱性は、反抗対象となった規範と何らかの体系的な関係を持つと言って間違いない。
p.155
■規範が及す、我々への行動への拘束、関係性のなかで生きること

「逸脱者」といっても、彼が生きる社会の関係性のモチーフとパターンから逸脱しているわけではない。
p.155

このシステマティックな関係が、何をテーマにして結ばれているのかということに的を絞っている限り、人々の性格がある規則性のもとに収まっていると期待して問題ないだろう。それに、共同体が変化していく場合、ちょうど異種混交社会で混交の事実が性格形成における共通軸してはたらくように、変化の経験と期待とが、共通の性格形成因子となる場合もあるはずである。
p.156

しかし、比較的短い期間で、双方とも接触の際の特別な行動様式を編み出すようになることは知られている。この段階で、両者共通の性格を言い述べる二極的な関係構造がどのタイプのものかを問うことが適切になる。そして、この性格構造が固定化して行くにつれて、両集団は、安定した差異化社会における両性間や階級間に見られるのと同じ関係へと移行していくわけである。
p.156

西洋文化では、老―若、労働―資本、精神―物質、というように、本来二元的でない現象にも二元的パターンを押し当てる傾向が強く、また一般的に言って、三元的システムを組み上げるための文化的受け皿がない。
p.158

イギリス社会には、親―乳母−子、国王-大臣-臣民、将校-下士官-兵卒といった、三元システムの形成に向かう、興味深い傾向が見られる。〜、ここで「単純なヒエラルキー」というのは、一項が他の二項に割って入り、差し向かいの関係が起こるのを阻止するーつまり、A-C間コミュニケーションがすべてBを通ってなされるーように一列に並んだシステムのことである。また、「三角形」のシステムというのは、三つの元の間に、そういう一列の特性が生じないものを指す。
p.158

どんな人間も相補型・対称型のどちらの行動も、いつでもとりうる、とはいえるが、一人の人間が、両方の行動型式を同時にー精神の混乱や葛藤に陥ることなくーとるとは考えられない。各国民集団は、そうした混乱を回避するための社会的装置を、それぞれに編み出しているようだ。例えば、イギリスとアメリカでは、相補テキスタイルの行動を押し沈める作用が顕著である。大人も子どもも、相補的にふるまおうとすると、周囲の強い反目を受ける。そうしたチェックを受け続けている人間が、「フェア・プレイ」の倫理を身につけるのは当然の流れだろう。
p.160

一方ドイツには、この種の行動定型が見られないようである。彼らの社会には、主として、<支配-服従>の関係を軸とした、相補的なヒエラルキーに基づいて組織されている。
p.160

ドイツの場合、この関係は、一種の仮装によって安定を得ているように思える。つまり、あからさまな服従行動が、アメリカやイギリスと変わらないほどタブー視され、その代わりに、行進する兵士に見られるような毅然とした無表情が現れるのだ。
p.160
服従の側に廻る屈辱を耐え易くする変形プロセスが、なにかしらの形で存在するはずだが、その手掛かりのひとつを、ドイツ人の一生の歩みをテーマとする研究から得ることが出来る。ドイツ南部出身の男性がインタビューに答えて語ったところによると、少年時代に彼が親から受けた扱いは姉と全く違っていた。自分に対しては課題な要求が為されるのに、姉は何かと大目に見られる。自分はいつも規律に厳格に従わされるのに、姉はずっと自由な振る舞いが許される。インタビューアーは、姉に対する羨みの気持ちを抱いたかどうか探ってみたが、返って来たのは、服従することが男の子の名誉なのだという断固たる答えだった。「女の子には、期待がかけられていません。男の子は、人生への備えが必要ですから、やるべきことはきちんとやることが、きびしく課せられるのです。」これはノブレス・オブリージ[高貴な身分には相応の義務が伴うという考え方]の、興味深い転倒例だ。
p.160-161

この“自慢”のパターンは、行き過ぎた依存の自立の顕示によって中和するという、奇妙な結びつきが生んだものなのだ。アメリカ人は「自慢」ではなく、自分が立派に自立していることを示し、その是認を求める行為をしているだけなのに、事情のわからないイギリス人が、それを支配と優越の宣言ととってしまうところに行き違いが生じるのである。
p.165-166

☆☆
国の文化には、それぞれ全体的な雰囲気の違いが感じられるが、その違いは今述べてきたようなパターンの違いに発していると考えられる。その違いは決して小さくない。重大な誤解に発展しうる程のものだ。しかし、研究の手が届かないほど複雑なものではないように思われる。本稿で展開して来たのは、容易に検証出来る種類の仮説である。この方向に沿った研究が急務であることを訴えたい。
p.166

ヴェルサイユで工面されたのは、軽度に懲罰的条約だった。しかしそれでは、国民性の違いから生じる軋轢を吸収することが出来ない。それは今回の戦争で、あまりにも生々しく思い知らされた通りである。あのとき連合国側は条約を結ばせただけで、その遵守を強要しようとはしなかった。ドイツ側は受諾しようとさえしなかった。あのような幻の平和を夢見るのは無益である。反独感情が国民的に燃え上がっている現在,アメリカ国民の士気高揚の方策として、あの種の夢をもう一度吹き込むなら、それは無益というだけでは済まされない。問題の最終的な決着がどこにあるのか、それを曖昧化することは許されない。
 相互型と対称型のモチーフが互いに折り合いのつかないものである以上、単純な<支配-服従>をモチーフとする条約は、連合国とドイツとの間に結ばれる条約としてきわめて不適当である。
p.168


●バリー定常型社会の価値体系

リチャードソンの等式
この数式を見て私は、軍備競争に限らず、「自慢」をはじめとする単純な競争と対抗の現象はみな、軍備費のような形で数量的に把握することは難しいにしても、測定出来た時には、似たような関係式で表わされるだろうと考えた。
p.175

人がなぜ「常識」空見れば損なのはわかり切った争いごとに引入れられ、しかも一度入り込むと抜け出せなくなるのか、その謎を説明する一つの重要な因子が、この種の(意識的・無意識的な)解放願望を想定することで得られるのではないか。人間の抗争好きな傾向を生み出している本性のようなものがもしあるとすれば、それはなによりもこの、行き着くところに行き着いたときの緊張解除の願望なのではないだろうか。
p.176

「何の歯止めも働かない恋愛の純粋形が、もしもこの世にあるとすれば、それは指数関数的な曲線を描いて進むだろう」
p.177

分裂生成のシークェンスと性愛に向けて高まっていく相互作用とは、しばしば心理的等価物としてみられるが、そのことの説明を、クライマックス構造とオルガズム的終焉とが同じ形式的特徴を持っている点に求める説明は、少なくとも有効だろう。(格闘と性行為とが奇妙にも混同されること、オルガズムと死とが象徴レベルで同一視されること、そして、ほ乳動物の攻撃ようの器官が異性を魅きつける飾りとして広く使われることに注目)
p.177

これは、子どもが持って行こうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれであるが、同時にそれが、他人とそのような関わり合いを持っても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと備えているとするなら、それを押さえ込む学習が個々で為されていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態―強度の一定した持続―が現れていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスもいさかいも、こうしたプラトー型の行為連鎖に沿って進行する傾向を持つ。(性生活の特徴については、資料不足から何ともいえないが)この問題については次の4の項で詳述する。
p.178

物語を語るときも、語り手は語り続けることをせず、一つか二つのセンテンスを語ったところでポーズを置いて、誰かが筋の細部について具体的な質問をしてくるのを待つ。そしてそれに答えながら物語を続けていくのだ。こんな手続きをわざわざとるのも、一方的な語りというものが、彼らにとって居心地の悪い相補的関係を進展させてしまうからだ、と考えることが出来る。
p.181

☆☆☆
バリを訪れればすぐに気付くことだが、彼らの文化的営みは、獲得欲や生の生理的欲求によって推進されていない。彼ら(特に平地の住民)の生活は、飢えと貧困にうちひしがれたものではなく、食物は無駄にするし、また活動の非常に大きな部分を芸術と儀礼のためにーつまり、単に非生産的であるばかりか、富や食糧も派手に消費する活動にー割くという、「余裕の」生活をしているのである。ここに見られるのは「貧しさ」の経済ではなく、「豊かさ」の経済なのだ。彼らの間には、もちろん「貧しい」と言われる人たちがいるけれども、彼らの飢えの脅威にさらされることはない。西洋の大都市には、時々本当に飢える人間が出ることを聞かされると、彼らは驚きのあまり言葉を失うほどである。
p.182

「弛緩振動」
p.183

あれほどの出費をし、あれほどの芸術品に取り組みながら、その行為はどんな「目的」とも結ばれていない。縁日に花と果実の壮麗な芸術品が寺院に立ったからと言って、祭られた神がご利益をもたらしてくれると本当に信じている人はいないし、それが貧弱なものだったからと言って、災いが降り掛かるとも、みな思っていない。そこにあるのは、未来に照準を定めた目的遂行型の行為ではなく、その時々にふさわしいことを、村の衆全員で精一杯美しく執り行うことに見出される、直接的・内在的な充足なのである。
p.184

誤りは、それによって傷ついたり機嫌を損ねたりする当人に対してではなく、宇宙の秩序と自然の構造に対して犯されたと感じられるのである。だからその侵犯者は、近親相淫のような、村八分の処分にもなるほど「道を外れた」行為をしでかしたものでも、「馬鹿」な、「ドジ」な奴と言う以上の罵りを受けることはない。「性悪者」というよりはむしろ「運の悪い者」なのであって、その不運がいつ自分に廻って来るかわからない、という捉え方を彼らはするのである。
p.186

☆☆
白人到来以前の時代を、バリの慣用表現では、「世界が釣りあっていたころ」という
p.188

☆☆☆
アシュビーは、厳密な数学的理論で、次の三点を指摘した。
a.複雑な相互作用システムでは、その中の変数が一方的に増長するのを押さえ込むことが、システムの定常状態と恒存性を維持する鍵を握っている。
b.どんな変数も継続して増加し続けると、システムに非可逆的変化が現われ、システムの働きが制限される。
c.そのようなシステムにあっては、十分な可動幅を持った変数をいくつか確保していくことが非常に重要である。調速器のボールが遠心力に応じて自由にゆらぐことが出来なくなれば、そのエンジンの定常的な作動を維持することは難しい。同じことはバランス・ポールをもって綱渡りする人間にもいえる。彼の身体のバランスは、ポールに加える力の具合が微妙に変化することで得られているのである。
p.192
■変数という考え方、そして変数の幅の確保。複数の変数の関係性がノードとなるなにかによって繋がれる状態。

これをさらにバリの社会に近づける方法は、すでに明らかだろう。寄合で発言するときだけでなく日常の付き合いのなかでも、システムの定常状態を保つように動く、そのような動機づけの諸因子を、プレイヤーの性格構造のなかと、彼らの日常のさまざまなコンテクストの中に配することだ。
p.192


☆☆☆☆
バリの人々のエートスを分析する中で、a-明確で不動の身分づけと空間の方向付けと、b-バランスとその保持に有効な動き、に繰り返し高い価値が置かれていることを見た。
 要するに、バリ島の人々は、身体のバランス感覚を敷延して人間関係に押しあて、しかもバランスのためには絶え間ない運動が必要だという考えに導かれているようである。その後者の点は、なぜバリ社会が単に機能するだけでなく、急速な作動の仕方をしているのかー経済性にも、競争の原理にも従っているわけではないのに、なぜあれほど忙しく儀式を執りおこない、芸術活動に打込むのかーという疑問への答えの一部になっていると思う。バリ島では、発展的でない変化を次々と繋いでいくことで、定常状態が確保されているのだ。
p.192-193
■定常状態を保つための運動 建築も不動なものであるのは、常にそこに運動があるからだとちゃんと認識をする必要がある。きっと、それを明らかにしたのがアルドロッシの都市の建築であり、それをイコンとして建築化しようとしたのが、ヘツウォーク&ド・ムロンの初期の建築群なはずであり、それを生活化するのは目指してみたい。タイポロジーとメモリーの関係は無視することは出来ない。タイポロジーとは学習の段階であり、変奏曲である。

☆☆☆
システム作動のエネルギーは、一種の継電器として働く各個人の代謝によってまかなわれている。すなわち、反応を引き起こすエネルギーは刺激とともにやってくるのではなく、反応する人間の内側から引き出される。ということは、外から制御を加えない限り、このシステムの中では常に、分裂生成的な行動が一方的に高まっていく危険を常に抱えているという事だ。したがって、人類学者がこのシステムを(単に量的にでも)記述しようとするときには、以下の心得が必要になってくる。
p.193
■物理法則との違い、人間を、生物を扱うということの意味。無生物としての運度ではないのだ。

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