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memo メモ めもコミュのメモ 020109

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建築と断絶 著:ベルナール・チュミ 訳:山形浩生 引用文3

3.断絶(1984〜1991)

●狂気と組み合わせ的なるもの

「記号は何かの記号ではなく、シニフィエの働きをその何かとして引き受ける効果の記号なのだ。煙草の煙は、煙草を吸う人の記号なのである」とラカンは書いている。
p.170

「形態はそれが表現する以上の事は知らない。それは存在を内包すると言う意味において、リアルである。形態は、存在を知っているという事なのだ。」
p.171

ラ・ヴィレット・プロジェクトでは、「形式化/規範化」つまり乖離の実演という事が言われた。
p.171

乖離した現実の断片が感知され得る固定点
p.172
■特異点の存在。微分的な関係

こうした状況では、乖離の形成は、再構成の地点として支持物が構築されなくてはならない。フォリーの地点は、この乖離した空間の焦点となる。
p.172

唯一重要なのは、フォリーが転移の場所であると同時に転移するもの自体でもあるという事だ。狂気におけるこの断片化された転移は、爆発した、あるいは乖離した構造の、つかの間の再集合の生産にほかならない。
p.172


こうした参照点は、格子点として組織されている。こうした構造は内在的に精神病院や監獄の鉄格子を示唆し、現実の無秩序に秩序のダイヤグラムを導入する。このようにしてフォリーは新しい参照体系の中における、「安心感を抱かせる」存在として作用するのだ。
p.172
■参照点という概念は重要なキーであると思う。同時にそれがある種の監視網と関係するはずである。鉄格子という物理的なのみの束縛する秩序と考えるよりも、同時に束縛は安心へと繋がる、というよりも表裏一体の関係と捉えるべきなのかもしれないが、自由から人は逃走を図ろうとする。自由とやはり重いものなのである。ゆえに、人は監視を求め、そして参照すべき対象を求め、それをいじることで簡易な快楽を求めようとし、そこに安心を見出す。我々に取って慣習とはどのようなものなのか、しっかりと見極めなくてはならない。

☆☆
ラヴィレットの変形には、意味的な意図はない。
p.178
■GA的な考えかた。いかにして組み合わせ問題を解こうとするか?
バッハのフーガに見られる、最初のテーマの数多くの変奏が見られる。
p.178

☆☆
つまり、空間や動きやイベントが建築の最小限の定義の一部なのだという事を示し、現代の利用、形態、社会価値の乖離は物体と動きと行動の間に交換可能な関係を示唆していることを示すのである。このようにして、プログラムは建築の不可欠な一部となり、このプログラムの各要素は、物質要素と同様に並び替えの一要素となるのである。
p.179

並び替えはどれも「無垢」ではありえない。テクストの形態を変えれば必ずその意味が変わってしまうように、プログラムや空間,動きの並び替えは、すべての意味のシフトをともなってしまう。
p.179

派生の二つの主タイプは、摸倣と変形である。
p.181

空間内の物質の粒子がたまに集約されて、新しい強度の点を形成するように、この乖離の断片は組み合わされて、新しい予期せざる関係を作る事が出来るかもしれない。
p.182


●抽象的媒介と戦略

一つの部分は別の部分と置き換えられ、建物のプログラムは改定され、実例を挙げれば、レストランから造園センターから芸術工房へと変わる。このようにして、講演のアイデンティティは保たれる一方で、国家や体制の政治はそれぞれ独自のシナリオを追求する事が出来る。さらに、我々の目的は差異の戦略に基づいて行動する事でもあった。もし他のデザイナーが介入してくるなら、彼らのプロジェクトのフォリーとの差異、または映画的プロムナードの連続性から逸脱こそが、彼らの貢献の条件となるのである。それなら、プロジェクトの一般的状況は、利用形態と無関係に存在できるような統括構造を見つける事、中心もヒエラルキーもない構造、プログラムとその結果の建築との因果関係という単細胞な仮定を否定するような構造を見つける事だった。
p.186-187
■中心がない、ということの意味を考えよう。それは単純に中心がないことなのか、中心が変わっても大丈夫、中心が可能態としては複数あることを指しているのか?自然なネットワークにハブ構造を持つものがあることを考えると、後者であるように思える。そうすると、中心がない、という静的な構造の状態が重要であるというよりも、中心が変化するものであるという動的な構造の部分が重要になってくるはずだ。

秩序化装置としてのグリッドの抽象性は、建築的シニフィエとプログラム的シニフィアンとの間の断絶、空間とそこから派生する利用形態との間の断絶をまさに示していた。格子点は、機能主義的な教義に抗して、プログラムと建築という項の間に因果関係はないと論じるアプローチの道具となったのである。
p.188
■断絶の役割であると同時に媒介の役割を果たすグリッド、そこで主張することで繋ぐ、秩序を明快にすることでそれを身体化する。

グリッドは強度の集約点の潜在的な無制限の場を定義づける、不完全で無限の拡張であり、中心もヒエラルキーも持たない。
p.188

☆☆
つまりグリッドは、プロジェクトチームにいくつものダイナミックな拮抗を提供したのである。われわれは公園を設計しなくてはならなかった。グリッドは反自然的である。われわれは数々の機能要求を満たさなくてはならなかった。グリッドは反機能的だった。われわれはリアリストでなければならなかった。グリッドは抽象的だった。われわれは近隣のコンテクストを尊重しなければならなかった。グリッドは無限だった。われわれは政治的経済的な不確定要素を考慮しなくてはならなかった。グリッドは確定的だった。われわれは庭園の過去の事例を尊重しなくてはならなかった。グリッドには起源がなく、
過去のイメージやかつての記号への果てしない退行へと開かれているのだった。
p.188

ラヴィレットの格子点は、別の敷地中にランダムに分布した点であってもよかったのだ、ということは述べておくべきだろう。
p.189

☆☆☆
差異を維持し、いかなる特権的体系や構成要素の優勢をも拒絶する。いずれの体系も「主体」である建築家によって決定されるのだが、それが重ね合わされたとき、主体―すなわち建築家―は消去される。建築家は、その重ね合わせを演出する事で、支配的な権威を維持し続けるのだ。
p.189

ラヴィレット公園のプロジェクトは一つの目標を持っていた。既存の構成やヒエラルキー、秩序などの規則に頼らずとも、複雑な建築群を構築する事が出来る事を証明する、ということだ。点、線、面の三つの自律的体系の重ね合わせの原理は、大規模プロジェクトのほとんどに見られる客体的な制約条件の総合的合成を廃することで生まれたものである。歴史的に見て建築は常にコスト、構造、利用形態、形式的制約条件(venustas,firmitas,utilits)の「調和ある合成」と定義づけられて来たのだが、それに対してこの公園は、建築に対立する建築となったのである。
p.191

与えられたプログラムを「脱構築」するとは、そのプログラムが、それが前提としているイデオロギーに刃向かえなるという事を示す事だ。そして建築を脱構築するとはその因習を崩すという事であり、そのためには建築とともに、別の分野―映画、文芸批評などーから持って来たコンセプトを使う。なぜなら、異なる思考領域の間の境界が、過去二十年にわたってだんだん消え失せて来たのだとしたら、同じ現象が建築に適用されたって良いはずだからだ。建築はいまや映画、哲学、精神分析(以上はほんのわずかな例に過ぎない)と関係しており、それはモダニスト的な自律性とは相反するインターテクスチュアリティーの中にある関係なのだ。しかし、脱構築の原理によって何よりも侵食されるのは、建築とその理論との間の歴史的な分裂なのである。
p.192

ラヴィレットは、何も意味しない建築を目指す。シニフィアンの建築ではなく、シニフィエの建築―純粋に言語の痕跡、または言葉遊びの建築。
p.196
建築プロジェクトには絶対的真実などない。なぜなら、それが持つ意味はすべて解釈の関数だからだ。
p.197
それは統合性のユートピアに終止符を打つ、散乱して差異化されたリアリティーである。
p.197

この距離化は、プログラムの期待を計算ずくでずらすか、または何か媒介エージェントー建てられたものの領域と、ユーザーの要求との間で距離をもたらす存在として働く抽象的パラメーターの使用によって導入する事が出来る。ラヴィレットで使われたエージェントはフォリーのグリッドだった。
p.198

プログラムは他の領域における「語り」と同じ役割を果たす。それは建築家によって再解釈され、書き直され、脱構築される事が可能だし、またそうされなくてはならないのだ。ラ・ヴィレットは、この意味で語り不全であり、プログラム不全だと言っていいいだろう。
p.198


●断絶

モダン期を通じてわれわれに伝えられた建築家のパラダイムは、形態を与える者、ヒエラルキーを持った、シンボリックな構造を創造する者、というパラダイムだった。
p.201
これらの根底にあるのは、統合され、中心化され、自己生成的な主体への信念であり、その主体の自律性が作品の形態的自律性に反映されているというわけだ。
p.202

秩序の概念は絶えず問い直され、疑問視され、局限まで突き詰められる。
p.203

デリダが指摘しているように、建築や哲学上の概念は一夜にして消滅したりしない。かつてファッショナブルだった「認識上の断絶」も例外ではなく、破壊はつねに、壊され、位置を変え続ける古い生地の中で生じるので、その破壊が新しい概念や構造をもたらすのである。
p.205


●非―脱―外(1987年秋、ディア財団での講演)

忘れない事。建築はそもそも寸法の技芸、プロポーションの技芸でした。それはかつて、文明すべてに時空間の計測を可能とした技芸なのです。しかし、映像の速度とテレコミュニケーションは、その古い建築の役割を変えてしまった。速度は空間を縮める事によって時間を拡張し、物理的次元の概念を無化するのです。
p.209

ものには意味があると言います。しばしば、象徴的な価値は、その利用価値とは別です。バウハウスはこの二つの価値を、新しい機能的な対を、あるいはシニフィアンとシニフィエに統合しようとしましたー大統合というやつです。さらにバウハウスは、「すべてが機能と意味作用の対象となる、環境の統一意味論化」(ジャン・ボードリヤール)を構築しようと試みました。
p.212

ファッションがすべてをひっくり返しました。ファッションはつねにコノテーションの問題を取り上げて来た分野です。不安定で絶えず消え続けるファッションのイメージに比べると、機能主義の安定した凡庸的なデノテーションは、特殊で抑圧的に見えてしまいました。
p.213

この部屋がかつて消防署で、それがその後、家具倉庫になって、儀式じみたダンスホールになって、そして今ではレクチャーホールになっている(これはすべて本当です)からといって、気にする必要はありません。毎回、それぞれの用途はシニフィエとシニフィアンの両方を歪めました。恣意的なのは、(ずっと昔にソシュールが示したように)言語的記号だけじゃありません。解釈そのものも、つねに問い直す事が出来るのです。それ自体が解釈の対象となれるし、その新しい解釈も解釈され、ついにはすべての解釈がその一つ前の解釈を消し去るようになります。
p.214-215
あるのは、意味の規制緩和だけ。
p.215

●コンセプト6題(1991年2月、コロンビア大学における大学講演)


もし現代の状況を特徴づけるなら、それを「シミュレーション以後」「和解以後」と呼んでいいいかもしれません。全てのものが少なくとも一回は生き直されてしまった後、われわれは何をすれば良いのか?
p.220

建築家たちはいまだに、この構造と表層との分離の帰結を理解するには至っていないのです。
p.225

いま、社会はメディアと仲介に関するものなのだ、ということで、技術によって取られた方向性は、技術による自然の支配というよりもむしろ、情報の発達とイメージの集合としての世界構築なのである、という事に気付かされます。フランスの著述家,哲学者、建築家のポール・ヴァリリオの言葉ですが、「われわれはもはや建設の技術を扱うのではなく、技術の建設を扱っているのだ」
p.237

機能は形態に従わないし、形態も機能に従わないーそしてもちろん、フィクションにも従わない。しかし、それらが相互に作用しあうのは確かなのです。
p.245

フーコーにとってイベントとは単なる言葉や構想の論理的シークエンスではなく、むしろ「ドラマが生じるかもしれないセッティングの持つ仮定事項そのものの侵食、崩壊、疑問化、問題化の瞬間―別の異なるセッティングのチャンスや可能性をもたらす瞬間なのだ」
p.248
ここでのイベントは、転回点として捕らえられている
p.248
イベントに伴う空間化
p.248

「共通点のない複数性の発生」
p.248

event invention
イベントという言葉が発明という言葉と同じ語源
p.249

哲学者は書き、数学者は仮想空間をつくれますが、組み合わされた活動なしにはイメージはほとんど存在しないというハイブリッドなアートに囚われているのは、唯一建築家だけなのです。
p.249

脱構築はデザインできるとは思いません。
p.250

ヘテロトピア
p.250
■逃避地

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