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memo メモ めもコミュのメモ 020109

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建築と断絶 著:ベルナール・チュミ 訳:山形浩生

●序文

空間内での肉体の動きを復権させ、同時に建築と言う社会的領域で執りおこなわれる行動やイベントを復権させようとする。
p.8
■チェミの思考はアーキグラムやメタボリズム系の運動の延長とも捉えられるようにも思える。ポストモダン建築への批評としての意味も本文中では強い。

利用、形態、社会的価値の間の切断
p.8
■切断という意味は、あくまで離散的な状態になっている、ということにとどまり。完全な無関係の状態を指しているわけではない。

歴史分析が通常支持していた見方は、建築家の役割とは社会機構のイメージを地面に投影し、社会の経済政治的構造を建物や建物群に翻訳する事である、というものだった。したがって建築とは、何よりも空間を既存の社会経済構造に適応させる事なのだった。
p.9

「デザインを条件づける」のではなく、「条件をデザインする」
p.10
■モデル化による考え方。システム的な思考によるデザイン。代謝建築論にも通じる部分。

これらの理論は、行動心理学の一解釈に基づいていた。この解釈によれば、個人の行動は空間の秩序によって影響を与えられ、合理化されるという事になる。しかし、空間秩序が一時的に個人や集団の行動を変えられるとしても、それが反動的社会の社会経済構造を変えるという事にはならないのだ。
p.11
■一方的な関係だけで、個人と空間、個人と社会は捉えられない そういう構造を現代は持っている。

この分析(上文)が意味するのはこういうことだ。建築空間そのもの(利用が行なわれる以前の空間)は政治的に中立である。
p.12

メディアとの関係において
重要なのは建築の形態ではなかった(それがコンテクスト派だろうとモダニスト派だろうと)。大事なのはその空間にあてがわれた利用法(と意味)なのだった。
p.12

学生のゲリラ建築、人民の家
ゲリラ建築は、建築的にはただのシェルターだった。建設現場のパラックである。しかしそれは「人民の家」と呼ばれ、自由,平等、権力などの意味を示唆するものとなった。空間そのものは中立的だったが、それが政治的意味を持つ事を証明するためには、名前を与えたり、あるいはもっと洗練された方法として、建設を含めた政治行動(この場合は、人民のための建物を私有地または国有地に建てる事)を行なうことが必要だった。いわば、看板である。それは修飾的な行動だが、唯一可能な行動でもあった。というのは、こうした行動の唯一の存在意義は、土地の占拠が持つ象徴的で顕示的な価値であり、建てられたもののデザインではなかったからだ。
p.12-13
■空間に名前を付けることの意味、効果。空間の政治、領域の専有化、共有化、付与されるイメージ。オウム真理教のサティアンだって名付けられなくては、空間的には中立的に見えるものである。

計画図
その役割とは、ある領域の公式の勢力を認識し、その将来を予測して、それを説明するため、グラフィックな言葉に翻訳する事である。落書きビジネスのようなものだ。落書きやポルノが、現実のものでは無視されるような卑猥さを持っているのと同様に、建築ドローイングは、実際の建物の日常体験が阻止する特殊な意味づけを保持出来るのだ。〜、これは、政治的発言であるとともに、文化的発言でもあるのだ。
p.15

他の領域から議論を借りて来なくてはならないなら、建築は不純であると主張する人々は、建築に対する文化や政治からの干渉が不可避である事を忘れているし、さらに難問に貢献することで文化の働きを加速出来ると言う建築の能力を甘く見ているのだ。理論面でも実践面でも、建築は貸し借りしなくてはならないのである。
p.20

建築に本質的に内在する、空間と利用の拮抗、そしてこの二つの概念の不可避的な切断は、建築が常に不安定で、常に変化の瀬戸際にあることを意味する。三千年にわたる建築のイデオロギーが、これの正反対を主張しようと努めて来たのは興味深い。〜、社会の安定化と組織化をはかり、その永続性を確立するために建築が利用されたのだと主張したい。
p.21

もちろん、エジプトのピラミッドやローマのモニュメントから現代のショッピングセンターに至るまで、「施主(クライアント)」たちは組織が社会における存在感を誇示し、永続化させるための手段として建築をとらえてきた。こうすることによって、建築と言う等式の様々な項―空間、プログラム、動きーの間の切断は抑圧される。利用方法やアクションや動きの不確実性を建築の定義に含めないということは、建築が社会変革の要因となる能力が全く否定されたということである。
p.22

文化的にせよ商業的にせよ、プログラムはとうの昔に決定要因であることを止めた。
p.23


1.空間(1975-1976)

●建築のパラドックス

空間は、存在するものの全体性に内在するものなのだろうか?
p.31

空間は一般的にはcosa mentale.(精神のもの)つまりいわばすべてを包含する集合とみなされ、その中に文学空間やイデオロギー空間、精神分析空間などの部分集合があるものと見なされたのである。
p.31

ある時代の哲学とその時代の空間概念との類似を指摘するのは、常に魅力的な作業だが、それが1930年代ほどの異様な熱意をもって行なわれた事は一度もなかった。ギーディオンはアインシュタインの相対性理論をキュビズム絵画に結びつけて、そしてキュビズム絵画は、建築に翻訳されるとル・コルビジェによるガルシュのヴィラ・シュタインとなった。これらの時空間の考え方にも関わらず、空間という概念は、物理的な境界によって規定される、単純でアモルファスな物体と言う考え方にとどまった。1960年代末になると、戦後の技術的決定要因から解放され、近年の建築学研究を学んだ建築家達は、広場や街路やアーケードについて語り、これらが独自の構文と意味を持つ、空間の知られざるコードを構成しているのではなかろうかと思案した。
p.34

ヘーゲルはその通りだと結論した。建築とは、その建物において、その効能と無関係な部分全てである、と。建築とは、単純な建物にあてがわれた一種の「芸術的付けたし」であるというのだ。しかし、こうした議論の問題点は、空間の効用を逃れた建物や、「建築」以外の用途を持たない建物を考えてみれば明らかだろう。
p.34

「建築とはなにか?ウィトルウィウスのように、物を建てる技術と定義してみようか。いや。この定義は愚鈍な誤りを含んでいる。ウィトルウィウスは原因と結果を取り違えているのだ。何かをつくるためには、まず着想がなければならない。われらが祖先たちは、どのような小屋を建てるかというイメージを着想して、はじめて小屋を建てた。この精神の産物、精神の創造物こそが建築を構成するものなのだ。そして建築とは、すべての建築生産して完成に至らしめる技芸と定義する事ができる。このように、物を建てる技術とは二次的な技術にすぎず、建築の科学的な部分と呼ぶのがふさわしいだろう」。
p.36
■科学的な部分と言う表現が過小評価なのか?適切なのか?はそれぞれの見方で異なると思われる。しかし、着想という創造・想像をする部分に大きなウェイトがおかれており、科学自体もまた、それに奉仕する形を建築が取っていることは明らかなように思われる。

1972年の自転でレトリック上のものとなっていた。コンセプト上の狙いに与えられた新たな重要性は、急速に確立されたのである。建築は、コンセプトの伝達のためのメディアとなった。
p.36

建築家の自由は必ずしも建築の自由と一致するものではない
p.37

「形態は機能に従う」のではなく、他の形態を参照し、機能はシンボルと関係する。最終的には、建築は現実から完全に解放される。形態は外部から正当化してもらう必要などなくなる。この理論に基づいて、マンフレッド・タフーリは「オポジション」誌上の批評で、アルド・ロッシの建築を評し、「慎重に選び抜かれた記号の宇宙であり、その内部では排除の法則が支配し、そしてその排除の法則こそがまさに全てを制御する表現なのだ」
p.38-39

つまり建築家はまたもや「実際に材料をいじることなく建物の形を思いつく人物」ということになる。彼は究極の理性のモデルである「ピラミッド」を着想する。建築は精神のものとなり、建築家によって着想された形態は、物質に対する精神の支配と優位性を保証するものとなる。
p.40
■精神の優位性、建築が社会のものという限りそれは続くように思われる。仮に感覚と言うものが科学的に証明されて理性と感覚の間に障壁がなくなるようなことがない限りは、感覚と言うものが数値としてデータとして扱えるようになりつつあるのは、状況は少し変わりつつあるのかもしれない。Amazonのサイトのないの提示情報の編集はある種、人の行動がそのままダイレクトにweb pageのデザインを作り出そうとしている表れ、と見るべきなのかもしれない。

空間はリアルだ。なぜなら、私の理性よりはるかに早く私の感覚に影響を与えるではないか。私の肉体の物質性は、空間の物質性と一致するとともに、それと争う。私の肉体はそれ自身の中に空間的性質と空間的な決定性を持っている。上下、左右、対称性に非対称性。見ると同様に聞きもする。理性の投影に対し、絶対的真実に対し、こちらにあるのが感覚的空間、迷宮、穴だ。
p.41
■迷宮は迷宮故に他人と共有されるものではない、あるとしたら、それは他というものがない状態でなにかが共有されている状況だろう。

ペーコンからライプニッツにいたるまで,迷宮は外に出る欲望と結びついており、科学はその出口を見つけるための手段と考えられていた、と。このような解釈をバタイユは否定し、科学の唯一の効果は、迷宮を平凡な監獄に変えてしまうことだと唱えた。迷宮と言う隠喩の旧来の意味は逆転された。誰もが自分が迷宮の中にいるのか外にいるのかわからない。なぜならだれもそれを一望のもとに見渡して把握できないからだ。言語は、我々を取り囲む言葉を与える一方で、その囲いを突破するための言葉を与える。それと同様に、体験の迷宮は無数の開口部を持つが、そのいずれも、それが外部に開いているのか、内部に開いているのかを語ってくれないのだ。
p.44-45
■科学というものがどの範囲までを指しているのかもわからないが、科学は迷宮を監獄に変えるだけなのだろうか?情報科学などで検索技術や手法に関して様々な研究が行われていたりするが、それらも迷宮を監獄へと変えてしまっているのだろうか?

建築と計画の役割は、社会機関のイメージを地面に投影したものとして、社会の構造を建物や都市に正確に翻訳したものとして分析されて来た。
p.46

より現実的な提案をようやくもたらしたのは、生産システムの再検討だった。資本主義的な分業の再配分を狙ったこれらの提案は、建物における技師の役割を理解し直そうと努めた。生産サイクルと直接関係した、責任あるパートナーシップとして見直したのである。これによって、建築のコンセプトを建築プロセスの一般的な構成へとシフトさせようとしたのである。
p.47

私は、建築の必要性を疑う理由など一度としてなかったと提唱する。なぜなら、建築の必要性とはまさにその不必要性にあるからだ。それは役に立たないが、ラディカルに役立たずなのである。
p.48

☆☆
建築とは花火のようでもある。〜、「これらの経験的幻は、売り買い出来ない歓びを作り出す。それは交換価値を持たず、生産サイクルに組み込む事が出来ない歓びなのだ」から
p.48
■売り買い出来ない交換価値を持つ事が出来ない価値を作り出す。

☆☆
建築はリアリティを構成するが、そのリアリテイーが全体を見る邪魔になるのだ。建築は絶対的真実の抽象化を構成するが、その真実が感覚の邪魔になるのだ。体験しつつ、体験すると考える事は出来ない。「犬の概念は吼えない」のと同じく空間の概念は空間ではない。
p.49


バタイユの「内的体験」に即したこの直接性・即時性は、感覚的な歓びと理性の橋渡しとなる。それは内部と外部の新しい結びつきを導入し、私的空間と公共的空間との新しい結びつきを導入する。無関係な用語の間の新しい対立を示唆し、均質な空間の間の新しい関係を示す。
p.51
■絶対的真実を飛び越えること

☆☆
空間の被験者が、体験の深みとその官能性に到達するのは、建築的なルールを認識した時だけだからだ。エロティシズムと同様、建築もまた体系と過剰を必要とするのだ。
p.51
■ルールを侵犯すること。

建築は言語的隠喩を社会に提供した(城,構造,迷宮など)。今度は文化モデルを提供するかもしれない。
p.52

パラドックスの解決は建築的な規則と歓びの体験を想像上でブレンドすることなのだ。
p.52

●建築と侵犯

☆☆☆
「すべては建築である」という宣言は、すべてを含む折衷主義よりはコンセプチュアル・アートとの共通点のほうが多かった。しかし、もしすべてが建築であるなら、建築はいかにしてその他すべての人間活動や、あらゆる自然現象と己を分別できるのだろうか。
p.70
■問われ続ける必要がある問い

うそつきのパラドックスの体験は、合わせ鏡の間に立っているようなものだ。その意味は、永遠に反射を続ける。
p.72

☆☆☆
エロティシズムは意識に夜構造と官能の両方に関わるのと同様に、建築のパラドックスの解決には、建築的コンセプトと同時に空間の直接体験も必要とする。建築はエロティシズムと同じ地位、機能、意味を持っているのだ。コンセプトと体験の可能/不可能の交差点において、建築は個人的世界と普遍的世界の双方のイメージとして現れる。エロティシズムもまたしかり。コンセプトが快楽に結びつく者にとって、エロティシズムは本質的に個人的だ。そしてまたそれは、本質的に普遍的でもある。というわけで、一方には感覚的な快楽があり、他者と私がある。そしてもう一方には、歴史的な探査と究極の合理性がある。
p.73
■しかし、慣習としてのシステムなり個人の力量なりに大きな依存性を持たなければならなくなる可能性は否定できない。そしてだからそれは「がらんどう」であるべきだ、と素直に言えるのだろうか?建築が乗り越えられるべき構造なのか、そこに作られる秩序が乗り越えられる構造なのか?その時、その時、その人、あの人と変わるものか?

☆☆☆
若い生命と真っ当な死、これが建築の秩序だった。
p.74
■若い生命と真っ当な死が西洋における建築の秩序であったとしたら、東洋、日本における建築の秩序とはなんであったのだろうか?伊勢のような遷移し続けるシステムを持った建築様式を始めとする移り変わる建築は若い生命とは何か異なるようにも思えるし、真っ当な死のような潔さというよりは、霊のように取り憑いているものに近い、ある種のねちっこさがある。メタボリズムなどを始めとする運動は果たして日本的なのだろうか?システムを用いた制御系による持続型の建築や社会というのは、西洋的な永遠の命を目指す表れなのか?それとも東洋的なものなのか?それとも単純に人の持つ本質的なところなのか?そのあたりの問いかけを一度してみたい。

☆☆☆
しかし死に対する苦悩は、腐敗段階だけに関わるものなのだった。なぜなら白骨は、腐る肉の持つ堪え難い側面を持っていないからだ。建築はこうした深い気持ちを反映した。〜、1965年、当時は遺棄されていたヴィラ・サヴォイを訪れた者であれば、一階の小さなサービス室の汚らしい壁,小便の匂い,なすりつけられた糞や卑猥な落書きを覚えているに違いない。予想通り、それに続く期間には、ヴィラ・サヴォイの純粋性の危機を救おうと言う長期的なキャンペーンが輪をかけて強力になり、おかげでそれはついに成功したのだった。
p.74-75
著者の私見では、―もちろん主観的な意見だがーヴィラ・サヴォイはコンクリート・ブロックから石膏が剥がれ落ちたときに、もっとも感動的だった。モダニズム運動やその支持者たちのピューリタン主義はしばしば指摘されて来たが、それが時間の経過を認めようとしない点はほとんど見過ごされて来た(ガラスや、タイルがこの運動のお好きな材料だったのもうなずけようーこれらは時間の経過を示さないからだ)。
p.77

☆☆☆
私が主張したいのは、建築の瞬間とは、建築が同時に生でもあり死でもある瞬間、空間の体験が空間のコンセプトとなる瞬間なのだ、ということだ。建築のパラドックスにおいて建築的コンセプトと感覚的体験との矛盾は、ある一つの接点において解消される。それは腐敗の地点である。タブーや文化が常に排除し続けて来た地点だ。この隠喩としての腐敗/壊死こそが建築の存在する地点である。腐敗/壊死は感覚的歓びと理性を橋渡しする。
p.77
■差異と反復の関係、一回性の反復による自己の保持、常に生まれ変わり続けること、それが腐敗の地点とも言える、と同時にそれは反腐敗とも取れる。それを二面性というか、異なる二つがある、というべきか?サスティナブルという時はどちらかというと後者を想像し易い気がするが、前者の腐敗の地点という言葉が持つ魅力を忘れてはいけないように思う。

アーキタイプに従って生きるとはつまり、「法」を尊重するということである。(中略)パラダイムに属する身振りの反復によって、古代人は時間を円環化することに成功したのだ。
ミルチャ・エリアーデ「宇宙と歴史」
p.77

侵犯は、空間や建築に関わるコードや規則の破壊を意味するものではないからだ。その反対に、それは内部と外部、コンセプトと体験との間に、新しい結びつきを導入する。ごく単純に言えば、それは受け入れ難い流行を乗り越える事を意味するのである。
p.80


●建築の快楽

建築の問題は構成の問題となるードーリス様式かコリント様式か、軸かヒエラルキーか、グリッドか参照線か、タイプかモデルか、壁かスラブかーそしてもちろん建築の記号の文法や構文は、洗練されて快楽的な操作の前提となる。これを突き詰めると、こうした操作は凍り付いた記号の詩学に向かって身を乗り出す。現実から切り離され、精神の細やかで凍り付いた快楽へと。
 空間の快楽も幾何学の快楽も、(単独では)建築の快楽ではない。
p.86

庭園は奇妙な運命を持っている。庭園の歴史は常に都市の歴史を予言して来た。
p.87

純粋に歓びのために造られた庭園は、言葉でもドローイングでも表現困難な、あの建築の一領域における最初期の実験のようなものだ。その領域とは、快楽とエロティシズムである。ロマン主義にせよ古典主義にせよ、庭園は空間の感覚的な快楽を理性の快楽と融合させる。しかも最も役に立たないやり方で。
p.88


「都市の健全さ」はいまや、土地経済の論理によって決定づけられ、「市民生活の良き秩序」はほとんどの場合、企業による市場の秩序を意味するようになってしまっている。
p.89
■片方で、再度経済原理ではない価値基準でのものごとの評価、もしくは一次産業、二次産業的な売買ではない、第三次産業のような価値における新しい価値から経済に載せつつも新しい価値を創出するか?

☆☆
仮面は仮面を隠し、そしてその一層ごとの意味のレベルは、現実を把握する事の不可能性を示しているのである。
 意図的に誘惑を目的とした仮面は、もちろん理性のカテゴリーに含まれる。しかしそれは二重の役割を持っている。それは同時に隠し、あらわにする。演じつつ、隠蔽する。あらゆる仮面の裏には、暗い無意識の流れがあって、それは建築の快楽とは切っても切れない関係にあるのだ。仮面は外観を強調するかもしれない。しかしその存在そのものによって、仮面は背後に何か別のものがある事を物語るのである。
p.92
■襞の問題。折り畳み裏と表が出来、また折り畳み、折り畳み、そしてある時には展開され、表面はある深さを獲得してゆく。それは構造とは別の次元にある深さ。

☆☆
建築を本の中で実践するのは不可能だ。言葉やドローイングは紙上の空間を作り出せるだけで、本物の空間体験は生み出せない。しかし、建てないもの(その理由が状況的なものだろうと、政治的なものだろうと、関係ない)にとって、精神的な構築物、すなわち想像力に属する建築の側面の表象で満足してしまうのは、しごく当たり前の事に思える。このような表象は、どうしても実際の空間の感覚的な体験を、合理的なコンセプトの適用から切り離してしまう。建築は、いろいろあるけれど、これらの双方の関数なのだ。そしてこれらの評価軸のどちらかでも取り除かれれば、建築は何かを失う。
p.94
■自分の中では、まだしっくり来ない部分が多少ある、コンセプトとはどのような役割を果たしているのか?精神的、理性的なものに作用する、という時、それがある種の侵犯すべき構造体となる、という事になるのか?もしくは、リズム考える上でのメータの役割をコンセプトがして、そこから身体が反応する時にリズムが生まれるというのか?しかし、我々はどれほどコンセプトの部分を建築を見る時に理性的に意識する事があるのか?建築家であればわかるが、そうでない人々にとって、それは意味が通じる部分となるのだろうか?山形氏が批判する部分の一つの原因はここにあるようにも思える。それは説明が上手くないのか、本質的に間違っているのか?どちらと断言できるものでもないが


建築は仮面をつけた顔に似ている。容易にそれを暴く事が出来ない。いつも隠れている。引き紐の背後に、ことばの背後に、知覚表象の背後に、習慣の背後に、技術的制約の背後に。しかしながら、建築を著しく望ましいものとしているのは、まさにその暴く事の困難なのである。この暴く行為が、建築の快楽の一部である。
 似たようなやり方で、現実は広告の背後に隠れている。
p.95
■ある種、ここでいう建築とはリズムに近いようにも思える。

☆☆☆
重要なのは、これらの矛盾した断片同士の衝突ではなく、それらの間に生じる運動である。
p.96

このような断片がどう組織化されるかは重要なのではない。ボリューム,高さ、表面,閉じ具合などはどうでもいい。これの断片は、引用符に囲まれた文のようなものだ。しかし引用ではない。それは単に作品に溶け込む(ここでわれわれは、コラージュの技法の対極にいる)。それはいろいろな言説から抜き書きかもしれないが、しかしそれが示すのは、建築プロジェクトがまさに差異が総合的表現を見いい出す場所だ、ということなのである。
p.96
■断片がどう組織化されるかは重要ではない、と言い切れるのだろうか?断片間の組織化を完全に制御しようとすることは重要ではない、言い切れるようには思えるが、

1950年代の古い映画が、この断片間の運動をこう呼んでいた。欲望と
p.97

欲望は決して見られる事がない。しかし、絶えず存在し続ける。同じことが建築についても言える。
p.97
■欲望と経済とをどう考えていくべきなのか?切り離す事はできない関係だと思う。ある種、今は欲望の方が経済を牽引する関係性を持つ時代に入ったとも言える。世の中にはものが溢れ過ぎて、選ぶ時代に供給超過による需要優位の時代になって来ているはずであるから、、そのような捉え方は建築においてはリノベート産業が1970年代から盛んになっていた欧米の方が意識が強いように思える。

建築はその断片や、それが何を表象し、何をしないかと言う話し故に興味深いのではない。社会や建築家の無意識の欲望を、なんらかの形で外部化する事で成立するものでもない。あるいは、なにか華々しい建築のイメージによって、それらの欲望を表象するものでもない。むしろそれは、あなたの欲望、私の欲望を反映させる、受け手として機能できるだけなのだ。したがって、一つの建築が建築的なのは、それが誘惑するからではなく、効用主義的な機能を満たすからでもない。誘惑と言う行為や無意識をつき動かすからだ。
p.97
■突き動かすと言う時に、その突き動かす関係の組織化が必要に思えるが、それは断片同士の組織化の問題ではなく、断片と主体間の関係の組織化の問題が重要である、という事なのだろうか?それとも、そこすらも消し去るのか?

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