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memo メモ めもコミュのメモ 091108

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空間<機能から様相>へ 著:原広司

●序

吸収的な空間
p.6

ちぎれた図
p.9
■全体を同時には把握できない量子力学的な状態

基本的に言って、notにはふたつの意味と働きがある。その一つは、「正しくない」とする排除であり、他の一つは、「他の可能性がある」とする誘導である。奇妙な事に、後者は肯定的な指示と言える。
p.13

☆☆
構想した通りに、世界は動かない。しかし、構想しない限り世界は動かないのも確かであろう。巧妙な構想だけが、現実の諸制約の中で、フィクションと現実との融合に成功する。
p.13
■計画者が持つべき基本的なスタンス

食べる人間
p.15

もはや私たちは、対象としての自然、あるいはフィジカルな身体に作用する原因としての自然のみを見てはならない。対象や原因は、私たちの内部にもある。自然の中に私がいる場面、その情景を捉え、そこにおいて反応している私の意識の中にこそ自然がある。
p.16

身体には皮膚と言う幾何学的な境界があるが、意識には定かな境界がない。
p.17

☆☆
設計する装置が、市民あるいは住民とともに建築や都市の部分を設計してゆく過程なのである。この実践レベルにおいて初めて、共同主観の課題に取り組む事ができる。いまや哲学者は、現場に踏み込まねばならないのではないか。
p.18
■ワークショップの意味

●均質空間論 1975年

ガラスの箱はデーモンのように思える。この均質系は、いかなる混成系を持ってしても、それを外から覆ってしまうかもしれないからである。ニュートンの絶対空間のように、ガラスの箱は幻想なのである。
p.21
■完全に制御された空間。理想空間、理想状態と基礎物理

支配的な階層が相を練り上げて築いた建物を、残りの大多数のものはこれを不可避的に見上げるという関係が、いつも成立している。建築が文明の象徴であった頃も、文化の結実と考えられる昨今も支配的=不可避的構造は変わる事がない。
p.25
■現代において見上げる対象とはなにか?ブランドものが消費や経済の見上げる対象だとしたら、他の空間、状況においては見上げる対象はなにか?

外装のガラスの色調や、ガラスを支えるカーテンウォールの骨組の材質や寸法上のプロポーションの違いは、いわば一つの形式で出来ている多くの建物の表面上の化粧違いであるにすぎない。
p.28

☆☆☆
同質の環境条件をもっている。
p.29
恒常的な気候をもつ
p.29
各々の領域は気候条件だけではなく、形、諸設備等の上でも等価である。
p.29
生産するにもまた使用上でも、極めて合理的である。
p.29

☆☆
この新しい建築形式では、むしろ自然や外界から切断したところに、あらためて独自の環境をつくろうとする。また古い建物では、建物のどの位置でも同じような気候条件、雰囲気で出来ている事は少ない。位置による条件の偏差を生かし意味付けようとした。新しい建築形式では電源・電話などをふくめた環境条件が、場所によって偏差を生じないようにする事が理想である。それ故に、自由に領域を仕切ることができるのである。伝統的な日本建築が使用上高いフレキシビリティを持つ例としてあげられるが、実際には、部屋に方向性があり、座のような意味が残っていて、自由に使えるものではない。(使用を限定する)
p.30
■制御の果てにある、個別化への発展。ワンルームマンション。ワンルーム◯◯。仕切り方、制御の仕方、ある種の多様性。一度、個々に調べ上げて、ナンバーを振り分けて、均質に扱う。それを良しとするのか?悪しとするのか?

☆☆
一つの建物の内部では、およそ考えにくい奇妙な用途上の組合せが現実に起こっている。複合ビルとか雑居ビルという俗称が、使用状況をよく表現している。それはスケールさえ許されるなら、何でも飲み込んでしまう。いってみれば、万能建築なのである。
p.32
■レムへと通じる思考

☆☆☆
実際に建てられる建物は、先に述べた基本原則が、現実的諸条件によって歪められていて、理念の忠実な具現というわけにはゆかない。更に、均質空間の理念からすれば、建築技術的な原則であるジャングルジム状の立体格子さえ障害になっている。できることなら、柱や梁や床もなく、壁は無限のかなたへ消えてゆく広がりが欲しいのであり、位置を示す座標だけが、この宇宙全体にかけられたところに出現する一つの建築、この建築こそ現代の空間様式とよぶにふさわしい。
p.33
■現代における、空間の再現能力は温度や湿度はもとより、外の風景やモノの質感など金があればだいぶのところまで来ており、さらに加速可能な状態を持っているように思われる。その上で均質空間が持っている意味をしっかりと考えていくべきだろう。

☆☆☆
均質空間を目指す建築はこの形式を採用するうえでも、階級的な意味で支配的なのである。
p.36
■レムと原さんが同じ方向を向くことになる理由

☆☆
問題はこの一点にある。機能を口にすれば、建築家がなんらかのかたちで生活を想定してしまう。つまり、なんらかのかたちで建物の使用法を決定してしまう。より具体的に言えば、建築家が人間とは、社会とはと問うた解答が、優れた建築家であればあるほど、露骨に表現されるという事態になる。これが近代の社会に迎えられる筈がない。設計者にとって、もともと無理な課題である。こうしたことどもを決定するのは支配階級である。
p.39
■監獄における看守と囚人の関係が立ち現れる。

近代の勝利者は、おしなべてこの危険な問い、人間は発しない側からでる。そのためにはいかにすればよかったろうか。人間はと問わないですますには、機能を捨てさえすれば良い。建物の使用法を支配階級の手に委ねさえすれば問題はない。使用者は誰であるかと問わない建築こそ、近代が歓迎する建築のはずである。
p.40

比喩的に言えば、機能を排除した建築家は座標を描き、機能にこだわった建築家は、その座標の中に思い思いのグラフを描き込んだのである。この座標が均質空間であった。
p.40

均質空間は、建築家たちが好んだ以上に組織の管理者たちに迎えられたのである。そうした社会的背景なくして、一つの空間が、かく遍在し、都市の要所をしめるといった現象が起こるはずがない。
p.41

当時工業生産が地域に関係なく、まさにこれこそ合理的な技術によって実現される、と信じていたが、建築が一つのタイプに収斂するとは考えていなかった。モダン・デザインが、インターナショナルな傾向を持つにしても、少なくとも建物は用途によってちがうし、規模によっても違うと考えられていた。そしてこれまで述べて来たようになによりも因果律のような明快な決定論に欠けていた。
p.52

ただ、機能なる概念を実践的に用いようとすれば、もののあり方が同人間生活に作用するかあるいは人間生活を規定するかと言う点に興味が集中する。
p.56
■均質空間の拘束、教育の力

☆☆☆
(ミースの建築は先に挙げた五つの軸に対する完全なる答えだった。目的建築論にたいしては、目的の把握やその充足を考慮する事を廃棄した。もともと、目的の充足と言っても、果たしてそれが可能かどうか疑いが残っていた。)
人間生活全般を計量化する事はまず望みなく、また計量化以外に目的を客観化する方法はないからである。
p.59
■シミュレーションやセンサリングが持つ意味と情報化が持つ意味。現代と近代の違い。

1930年代までに世界の建築家が提出したイメージは、移動の高潮をふまえたうえでも、近隣的なコミュニティ論が都市形成の基礎に据えられていた。都市に住む人々は、自立的な場所を確保し、その場所内部に中心、核を共有して全人的な交流をする。そうした中世的な都市のイメージがたてられていた。
p.67

都市に住む人々は、場所に根ざすどころか逆に場所の持つ境界をなくしてゆくように行動していったのである。
p.67
■農村から都市へ、住まいの形態の変化

極端にいえば、都市とは移動網そのものである。
p.68

もっとも、都市内の空間のすべてが均質空間を理念としてはできておらず、古い部分もあるから、終局的に都市の移動網はあらゆる点を結ぶ完全グラフが意図される。この完全グラフの都市は、移動のネットワークの補完項としての電話網などによって、事実かなり高度に実現されている。
p.68-69
■ユビキタス、アンビエントな状態が達成された時の都市におけるグラフとは?完全?いや完全はありえない。距離の差異は常に生み出され続ける。

都市はもともと一次的な生産の色彩の薄い領域ではあるが、内部に自然の持つ生産力に頼る部分を内包していた場合も少なくない。この場合、自然は潜在力を持っていて、これから現象する自然としての集団の前にある。その潜在力を、どう共有し、分有してゆくかを人々は協議し、空間的に表現しなくてはならない。この過程は好むと好まざるとに関わらず避ける事が出来ない。この過程は、コミュニティの発生の母胎である。また、自然力の所有関係を空間的に表現するとすれば、諸施設あるいは意味ある事物などを特定な形態のもとに配列しなくてはならなくなる。少なくとも、都市のこうした部分領域には均質空間の性格は貫徹されないだろう。
p.70

ある住居に供給されている水は、遠く離れた住居にも同様に供給されている。生活に必要な物資は、全て近隣とは無関係に生産供給されて、近隣の境界、場所の境界は日常の上から撤去される。
p.72

☆☆
近代都市は、空地が欠落し、共有地と私有地からなる空間を準備した。つまり全ての土地は厳しく管理された空間のなのである。
p.73
■空地という存在。公海みたいな?? いかに空地を作り出せるのか?

☆☆☆
空地は、自己管理の場所、相互に見張り合う空間であり、従って使用にあたっては、空地として放棄するのではなく、有形無形に使用のための規約を用意しなくてはならない。その社会的な規約が、特有の空間的な意味を派生した。共有地の多くは発生期を別にすれば領域内の秩序立てのために支配の側から与えられた。
p.74
■空地とはコモンローのような存在。上から派生してくるのではなく、下から派生してくるものである。共有と空の違いを明確に捉えよう。

近代都市は、こうした物象化された閾を撤去し、逆に経済的操作、法的体系、軍事力などによって社会的規約を強化したところに著しい特色がある。建物で「壁を取り外す」必要のない空間を述べて来たが、都市からもまた城壁や門構えは消えた。ある意味では、権力は不可視になった。
p.75
■制度、システムとしての権力 制度、秩序。監獄の誕生

三次元ユークリッド<>「場所に力がある」
p.78-79

観念の上での空間が、人間の行為を指定するといった発想は、今までは想像もできなくなっているが、かつては空間は場所と意味に即して実際に人間の行動の規範になっていた。近代の古典的な空間のイメージのなかでは、行為の指定から解放されて、実践は自由に組み上げられる事を約束された。もし、事象の全体的記号を空間が保証するならば、人間の諸行為もまた空間によって拘束される事になった筈である。近代においては空間がたまたまそうした役割を放棄したと解すべきであって、空間とは無関係なところで、例えば人間を、全体的に記述する試みはなされている。
p.80

究極的に全体を問うてゆけば、あらゆる断面が同一で一つの断面を示すだけで全体を表示できる存在である、観念としての均質な空間そのものを提出せざるを得ない。
p.89

つまり均質空間の自由とは、こうした捜査権獲得をめぐる自由であって、秩序とは捜査権獲得における力のバランスである。均質空間においてはあらゆる部分の均等性が観念的にあるわけであるから、究極的には空間の量を占めること、つまり量的に空間を所有することが自由を得る上で第一の要件であり、第二に多数の断面を切り、これを操作するための道具立てを入手することにある。
p.90

言語は空間概念が変遷しても、古くから今日にいたるまで使用し続けられて来たし、数の概念が廃棄されたわけではない。しかし、それらはかつてもっていた意味そのものを持続するのではなく、ひとたびは解体され道具の断片となり、新たな部品が付加され、ちがったかたちの道具に組立てられている。
p.95

自然の生産的な潜在力にたよる以外に、人間は生きることが出来ないという当然の事実を、場所の等質性に期待するが故に見落としてしまう。植木を伐採した後には植林すればよく、陸地が不足すれば海に住み、砂漠を農地に開発すれば良いとする。こうした領域相互の補完性があると考える。しかし、こうした補完性は経済の関数であり、結局的には自然の生産力に依存せざるを得ない。一つの補完作業が、自然の生産力総体を著しく衰弱させることもある。均質空間が解体していった古い場所の境界やその場所が育てた意味は、自然の潜在力を保存させる手段でもあった。
p.98

全体を一つ系として捉える道具立てが、均質空間によっては準備されない一つの証しである。
p.98


●<部分と全体の論理>についてのブリコラージュ 1980年

相互浸透する状態
p.105

コラージュ
p.106

因果性、言い換えればこの部分と全体の論理を誰にでも見られるようにする装置が、機械であった。その機械が、近代建築の趨勢においては、ものの在り方の理念となったのであった。
p.110

「すなわち、社会という統一体がまず存在し、その統一的な性格からその諸部分の性質や関係が変化が生じるのではなく、むしろ諸要素の関係と活動があり、これらのよってはじめて統一体について語ることが出来るのである。」「ところで、私には疑いのないところであるが、統一化に少なくとも相対的な客観性を与えるただ一つの根拠だけは存在する。それは諸部分の相互作用である。」
p.111
■ボトムアップ、マルチエージェント的な思考回路。

「凍れる音楽」
p.117

造形言語 シンタグム、パラディグム
p.119
コルビジェのドミノ
このモデルは、アリストテレス的な布置、あるいはフォーメーションを持つと同時に、優れて言語(学)的である。
p.119
このモデルは、建築に、屋上庭園―中間層―ピロティという鉛直高の三層からなる場所を与えることでシングタムを組み、それぞれの水平面上の場所において自由に置換可能でありかつ無規定的なパラディグムを受け入れ(自由な平面)、特に中間層となる場所にパラディグムを可能にする条件(力学的な骨組みと非耐力的な壁)を付加している。
p.119

モデルとは関係をまとめあげる関係となる。
p.120

教会の領域は、アリストテレスの場所の解釈に頼れば、日常には本来の位置にいない人間が人間のあるべき姿を実現するために帰還してゆく領域である。〜、教会におもむく運動の原因は、否定の否定の弁証法にある。
p.127

☆☆☆
近代以前では、多様な物どもはあらかじめ階層的に配列されていて、すでに秩序づけられていたかに見える。それに対して、近代の多様なものどもは、並列的に置かれている。〜、インドの集落にも、序列を感じさせるところが全くないとは言えないが、基本的には集落は異質なものどもが同時に存立する場、一つの空間である。この状態は、インドの集落が、いまなおヴェーダの神々による多元的な様相を継承し、表出しているからであると解される。概してインドの集落には広場がない。アモルフ(不定形)な空き地が、カーストの多様などトーラの共存を可能にしている。この空き地は、先にライトの建築でみた場と類似している。
p.149

インドの集落が、異質な諸要素の同時存在を許容するのは、集落が基本的にルースな組み立てを持っているからである。ルースな組立てのための主要な仕掛けは主として三つある。第一に、広場でなくて空き地。しかも不可視の領域(トーラ)の場合としての空き地。第二に、中心の縁(エッジ)に置く配列(通常の中心の意味から外れるとすれば、いくつかの極とか核と言った部分を集落の端部に置く配列)。第三に、建築を自然の優越性の表現とする原理あるいはそれを実現するための諸手法。
p.150

インドの住居の玄関部分にあるヴェランダの役割
p.151
■サラヴァイ邸とかの見方が変わるかも?内(モノ)と外(モノ)の隙間、間としてのヴェランダ

モノとモノを分ち区別する間隙の可能
孤立と間隙を与えるところの渾沌が「場所」(トポス)と呼ばれる空間意識なのである。
p.151



●境界論 1981年

アフリカ サバンナ コンパウンド
空間のスケールに応じて、都市のランドマークと言わなくとも、そうした目じるしとしてのはたらき、中心としての働きをする事物の例には事欠かないのである。
 事物、ものでなくとも、出来事がこうした<場の原因>としてはたらくことは、いうまでもない。
p.183

☆☆☆
谷は重要な働きをする特異点で、独自の空間性をもっている。この谷は、周縁ではなく、場の状態を描いた曲面では、ふたつの支配圏が衝突する特異点であり、境界でもある。また、谷は、<マイナスの中心>であると考えられる。
p.184-185
■ある種のハブ、もしくはショートカットのような存在と見ることも出来る。我々は安易に山にばかり気を取られ過ぎているが谷となる空間がどのように連なり空間が持つ力が流れて混濁して、渾沌へ向かい、また浄化されていくかを考えてみる必要がある。


谷は、現象によって時に可視的に、時に不可視に生成されるが、配列の幾何学では、それがたとえ曲がっていようとも、軸(アクシス)として意識される。したがって、谷は、往々にして世界軸として機能し、私たちが日本の谷の集落に、懐かしい故郷の風景をみるのは、なにもそれが伝統的風景であると言うだけではなく、幾何学的な安定性から来る世界軸の風景であるからだ。
p.186

日本の地形からすれば、谷は私たちにとって空間の祖型である。抑えられた活力がある場所。山の頂きに向かっての、上向する憧憬にたいして、谷は下向する空間感覚がある。しかも、あてどもなく周縁、すそ野へと下向のではなく、始源への回帰の間隔である。歴史を見るに、人々は上向的建築を数限りなく築いて来た。逆に<マイナスの中心>へおもむく下向的建築は、反転の美学に依拠している。谷は、幽界、鬼の場所、天国にたいする地獄なのだ。しかし、山かげの谷には、より積極的な意味があるはずだ。
p.188

☆☆
大江健三郎は、「多」が帰還(エピストロピー)するところを描出して、流出のダイナミックな構造を私たちに想起させる。かく活性状態にある谷は、負の中心であると同時に境界である地形論的特性、周縁の出来事を重ね合わせ吸収し、そしてまた他の場所へと出来事を生成流出する場所の特性、この現象を具体的に捉えようとすれば雨水の軌跡すなわち流線の無数の集積、更にこの有様をコンピューターで描けば有機的な曲線群が集中して黒々とした裂け目が浮き出てくる官能的な局所としての特性を持ち、このような特異なる場所は、谷をおいてなく、それが大江健三郎が仮構する文学の一つの基底である。
p.188-189

谷は、母性の空間的再定義
p.189


対立するふたつの勢力、ふたつの傾斜が出会うところに、聖なるたたずまいが感覚される組み立てになっている。おそらく、間(ま)なる概念も、谷に関連をもつであろう。
p.189

屋根の形は格を示す記号として活用される。
p.197
■建築的に差異を可視化する手法。意味論的な可視化方法

☆☆
インディオの風景と対比的に、現代の超高層建築の風景は、インディオの集落全体よりはるかに大規模でありながら、少なくとも風景としては、そしてこの風景こそ空間の本質を露出するのだが建物の全体という一つのルーフを見るばかりであり、この位相を持つ空間は密着空間と呼ばれ、いわば部分なき空間、ファシズムの風景に他ならない。別の表現をすれば、屋根なきエンクロージャー、均質空間の風景なのだ。
p.202
■谷の風景と屋根、連続した関係性をもった世界。孤立した系。

☆☆
地縁社会が崩壊したあとで、構築力あるルーフのある風景は、絵空事にちかいのである。それは屋根のない現代都市の風景と、奇妙な符号をみせる。強いて現代都市のルーフを探すなら、地縁性をやぶる機構としての高速道路群、道の上に掛けられた線上の屋根がそれである。
p.204
■新しいルーフの可能性とネットワークの概念。そしてそれの具現化と情報化(コネクト)の相互作用のあり方への考察

建築による空間の決定の基準は、快適性の獲得以外にありえない。快適なる条件は、ある程度計量化されうるが、それはほんの初期的な条件にとどまって、ものの形相や質料を決定するにはいたらない。私たちが採用している決定法は、法則性からものの在り方すなわち空間の決定という順序とは逆に、ものの在り方の提案から法則性の確認という順序をもっている。この決定法は、なにも建築に限らず、ものを対象にする工学や芸術の普遍的決定法なのだ。
p.209

住み手と私は、境界の設定において、<知>を提出しあい、これまで述べて来たところを総合すれば、いかようにも決めることが出来た住居の空間性の中から、唯一つの案を決定することによって、境界の物語り、境界のフィクションを作り上げるのだ。
p.210

☆☆
混成系の美学のために
1.境界面を構成する要素が、コラージュの絵画にみるように、自己完結的であることを避け、ある系の部分の部分であることにとどめ、それら部分を適当に配列することによってなんらかの全体性を生成する方法である。
2.要素の性格を限定するのではなく、要素の配列になんらかの条件を提出する方法である。たとえば、インドの集落の広場、空地にみたように、境界面が囲む空間の幾何学形状を、異質な諸要素を迎え入れやすいようにあらかじめ工夫しておく。
3.異質な要素が出会う接触点、ジョイントに関してのみ、調整する方法である。どんな要素間の接合にもたえうるユニヴァーサル・ジョイントの準備(この時、ジョイント部分だけは均質となる)、その都度発生する具体的な接合部の手当などが考えられる。
p.214
■接合部と均質性。可変性

境界が形成するさまざまな領域を要素とする形態学的モデルを想定すれば、そのモデルは同系列の要素相互の置換可能性を示すであろう。
p.217

境界論におけるもっとも直接的な交換は、<反転>である。
p.217

インターフェイスの手法は、この負の中心であり境界である谷を活性化させ、反転の美学を誘起するための手法なのだ。
p.218


●機能から様相へ 1986年

機能論の裏側には、よく作動しない機械、壊れた機械にまつわる考察があった。
p.-229

表面の見えがかりは、様相の初源である。
p.242

☆☆☆
シミュレーションは、<演劇的科学>なのだ。それは、化学反応の把握方法がそうであるように、継起する様相を巧妙にまとめあげられた<経路>として捉え、単純にして意味深い物語を誘導する。こうした科学はやがて、この世界と全く同じ<もう一つの世界>を構想し、それを現実の世界との対比において、様相の確定性を論じるだろう。
p.256

コメント(1)

●<非ず非ず>と日本の空間的伝統 1986年


世界の集落を調べていて知ったのであるが、伝統なる概念は、ナショナリズムに帰属するのではなく、インターナショナリズムに帰属する概念である。
p.268
■伝播のネットワークと共通項、共有のネットワーク

☆☆
notAとは、Aの本来の場所にAが位置していない状態を指す。したがって、notとは事象を動かす力なのである。notAは当然ながら本来のAではありえない。このnotの力は、否定の否定において明らかになる。not(notA)にみる否定の否定は、AをAが本来ある場所にもどす力であり、この力こそ運動の原因である。
p.284

<非ず非ず>における否定の意味は、弁証法におけるそれとは性質が異なる。本来Aがあるべき場所は、一意に指示することが出来ない。というより、そのように境界づけられた場所は、もともと存在しない。そこで、まずAを置いてみる。するとAの領域がひとまず境界づけられる。が、ただちにnotAが待ち受けている。するとAでない場所がいくつか、あるいは無限に浮上してくる。<非ず非ず>の否定の力は、動かす力ではなく、可能なる場所の出現を誘起する力である。
p.285

「非」と「と同時に」は、Aが置かれた場所の境界を、さまざまに出現する可能態としての場所の境界と重ね合わせる多層性によって、曖昧にするであろう。それが「無境」である。したがって、無境は、ここでは「中道」ではなくて、出現の誘起であり展開なのである。
p.286

全体性についてみれば、弁証法はそれを境界づけられるとするのに対して、<非ず非ず>はそれを境界づけられないとする。前者が場所を容器にとらえるのに対して、後者は場としてとらえる。また、前者があいまいさを除去しようとするのに対し、後者はあいまいさを生成する。こうした対比を背景にして、「弁証法」と<非ず非ず>は文化の無限流出装置であり、文化の<ふたつの湧点>であると言えるのである。
p.287

閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉

これら姿のはっきりしない様相の全体を、芭蕉の「しみいる」はあらわしている。岩という強い境界をもつものさえも、染込んでゆく音があり静けさがある。この相互浸透性は、建築の間取り、庭や外の風景との対応、風や光の取り入れ方や室内におけるそれらの分析状態、屋根と樹木の風景論的配置等々にあらわれて、それが日本建築の<場としての空間>を生成する基本となっていると言える。
p.291

「間」は切断の技術ではなく、異質なもの同質なものを問わず、融合や一体化の、境界をあってなきものにする様相論的計測技術である。
p.294

鴨長明が住居を縮小していって発見したのは、<非ず非ず>の風景であった。このことを、彼自身は謙虚に述べている。〜、縮小するうちに、内と外の反転が起こり、方丈が実現したときにはあたりは内であり外である空間に立っていた、と彼は述べていると解釈できる。〜、「縮小する」という意味はそれ故、単に方法の上から見て、ちぢめながら開くと言ったような意味合いであり<非ず非ず>に合わせた言い方をすれば、「縮小しながら拡張する」といった意味なのである。
p.294-295

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