ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

memo メモ めもコミュのメモ 080207

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2007年2月8日

1.エクリチュールと差異(下) 著:ジャック・デリダ  訳:梶谷 野村 三好 若桑 阪上 法政大学出版局 引用文

1-1 4 息を吹き入れられた言葉

コメント(1)

作品と狂気の間の意味の連続性は
絶対的断絶を現前させる同一性の謎から出発するときにのみ
可能なのだ。
しかし、M・フーコーは少し先に付け加えている。
<それは抽象的な表象ではなく、歴史的関係であり、そこで我々の文化が問わなければならない>
p.4

彼は、いわばおのれに逆らって、彼の叫びがそこから発せられるある悲壮な彷徨によって、思考する事が常にまだ思考しえないような地点に、彼の言葉によれば、思考にとっての本質的である非能力に化しているような地点に触れたのである。
この<悲壮な彷徨>こそ、範例からアルトーに戻るところのものである。つまり、それは本質的な真理の解読によっては捉えられないであろう。
彷徨、それはアルトーの歴史であり、真理の道の上で消し去られた彼の軌跡である。
p.6

アルトーの悲壮な彷徨い、すなわち、彼が絶望的に指し示している真実に彼を近づけない範例と存在の厚み。言葉の核心にある虚無、<存在の欠如>、<生から切り離された思考というスキャンダル>などなど。どうしようもなくアルトーに属するもの、つまり彼の経験そのもの、それを批評家は躊躇いもなく心理学者か医者に委ねてしまう事もできるであろう。だが、<我々としては、彼が我々に示している確かで細やかな数々の正確な叙述をある心理状態の分析として読む、という過ちを犯してはならない>
p.6

☆☆
M・ブランジョはこう書いている、すなわち
<ヘルダーリンの運命の中に、あんまり強く何か偉大な事を望んだために破滅するまで突き進んでゆかなければならなかった、素晴らしくあるいは崇高な個人の運命を見るだけで満足することはできない。彼の運命は彼のものでしかないが、彼自身は、彼にだけ属するものとしてではなく、詩的本質の真理として表明として、彼が言い表し発見したものに属している。彼が決定するのは、自らの運命ではなく詩の運命なのだ。彼が遂行すべきものとして自らに課しているのは、真理の意味なのだ。そしてこうした姿勢は彼固有のものではなく、それは真理の遂行そのものであり、ある点において、彼のいに反して、彼個人の理性に対して非人称的で純粋な透明性となる事を要求するのであり、そしてそこから彼は立ち戻る事ができない>

そしてそれは偶然なのではない。独自性の消滅は
ヘルダーリン的真理の持つ意味として述べられている。
すなわち

<正当な言葉とは、仲介者が言葉のうちに消えてゆくゆえに、言葉が仲介者になっているものであり、自らの特異性に終わりを告げ、自らがやってきた領域へ戻ってゆく>

このように、ヘルダーリンという代わりにつねに<詩人>といわしめ、独自なるもののこのような崩壊を可能ならしめているのは、独自なるものの統一ーここでは狂気と作品の統一ーあるいは独自性が一つの組み合わせ、一つの構成、一つの<配合>として考えられているからである、つまり、<このような配合は二度と現れなかったのである>
p.9

■透明性、消失 ー エロティシズムと昴

言葉の確かな侵入、もう一つの息吹のこの豊かさが非能力である。つまり、言葉の不在ではなく、根源的な無責任、言葉の持つ力としての根源としての無責任である。

言葉の意識、つまり意識そのものは、私が言葉を発する瞬間と場において語られている当人には知られないのである。

つまり無責任とは、存在それ自体の相対的で根源的な消失である。
p.16

無責任は〜<存在の極限>をこえるものである
p.16

(剽窃について)
こうした無知、つまりその固有な主体の不在は、それにとって不意に来たのではなく、それを構成しているものであるからである。剽窃はやがて盗みとして、さらに隠し立てとして回折して行くものの最小の単位である。
p.19

語り手はどうしようもない副次性の中に、つまり言葉の組織的領域をはじめとして常にすでに盗まれてしまっている原初の中に、自らを発見する。
p.19

☆☆☆
口にされるかあるいは書かれた言葉、文字というものは常に盗まれている。常に盗まれている、何故なら、常に開かれているから。
文字というものは、決してその作者や受取人に固有のものではなく、ある固有の主体からある固有の主体へと導く道程を決してたどる事がない、というのがその本来の特性である。
p.20

■オープンソースとは言語のようなものだ
 言語も無償の中で変えられ精錬?かどうかはわからないが
 差異と反復を繰り返す。異化分化を繰り返す
 そう、常に開かれて 常に盗まれている

たしかにインスピレーションは存在すると
p.21

演劇において、これらあらゆる差異に引き裂かれた肉体の元の姿を復元しなければならない。
p.22

知的な叫び、髄の繊細なところから発する叫びというものがある。まさにそれがこの私なので、私が「肉体」の、もっと上手く言えば「実在」の、こうした理論のただ中にいる私とは何なのか

私はおのれの生を失い、あらゆる方法で生にその位置を取り戻させようと努めている一人の人間だ、だが「存在」の形ふ上学と「生」の決定的な認識とを私に授けてくれるに違いないこの肉体の意味を、私は検証しなければならない。
p.23


「他者」「盗人」大いなる「人目を忍ぶもの」には一つの固有名がある。すなわち、神である。神の物語が生じたのだ。それが、ある一つの場所を占めるようになった。その侵入の場は穴の開口部以外ありえなかった。根源へ向かうように、あらゆる他の大きく口を開いたものが向かってゆく誕生の穴、排便の穴。
p.23

☆☆
したがって生まれてこの方、私はもはや私の体ではない。私が一つの体を得て以来、私はもはやその身体ではなく、それゆえ、その身体を所有していない。この喪失が私と生との関係を設定し
教える

■身体の喪失 現実性の喪失?

死は、我々の他者との関係の分節された形式なのだ。私は他者が原因でしか死なない、つまり他者によって、他者のために、他者の中で死ぬ。

人は立った一人では自殺しない。生まれるに際して誰も決して一人ではなかった。死ぬに際しても誰も決して一人ではない、/そして究極の死の瞬間には常に他の誰かがおり、我々から我々自身の生を奪い取ってしまうのだと、私は思う。
p.24

神であったのは、本当に神であったのは、それは私だ、一人の人間としての私であって私とは別の人間の身体の密雲の中の条光でしかないようないわゆる精神ではない。その私とは別のものは、造物主デミウルゴスと名のっていた

そして私の身体を切り裂いて誕生したが 私の身体の一片をデミウルゴスが自分のところに取っておいたのは、デミウルゴスは私自身なのだと思わせるためだった。

自称デミウルゴスの身体のように、ところで、そのデミウルゴスは自分の受け入れられ難きを承知しておりそれでも是非とも生きようと願いつつ、存在するには私の暗殺という代価を払って生まれでるより以上の事は何も見いだせなかった。

こうして幾度となく死ぬ事でついに私は本物の不死身となった
p.25〜26

神はそれゆえ、我々から我々自身の性質や我々自身の誕生を奪うもの、従って、我々より先に常にひそかに語ってしまっているであろうものの固有名詞である。それは、私と私との間に私の死のようにこっそりと忍び込む差異である。
私の誕生の前夜に<不死身>に生まれ変わるために私が私の死において死なねばならぬ
p.26

神は、生まれてくるものの最初の価値として偽りの価値である
そしてこの偽りの価値が、かつて存在した事のない
あるいは、結局同じことなのだが、それ自体の誕生以前にしか
存在した事のない真の価値の代役をいつもすでに演じたから「価値そのもの」となるのである。
p.27

☆☆
その時から、原初の価値、つまり私が私のうちに、あるいは私自身として、私の価値として、私の存在そのものとして引き受けねばならなかったような原=勝ち、すなわち、私がかの「穴」から遠くへ落ちるや否や私から盗まれてしまったもの、それが周知のように、場合によっては私を迫害する武器にもなリ、保存されない事で効力のなくなる価値としての作品であり、糞便であり、。
身体の大切な部分である糞便との日々の分離(フロイト)
p.27

☆☆
とにかく、「神=デミウルゴス」は創造しない、そいつは生ではなく、作品や手仕事の主題であり、盗人であり、ペテン師であり、偽造者であり偽名作家であり横領者であり、創造する芸術家とは対立するもの、職人であるもの、技巧を弄するもの
すなわち、「悪魔」なのだ
私は神であり、神は「悪魔」である。
p.27

☆☆
神の物語〜糞便の物語〜
作品はそれゆえ、無垢の身体から切り離された精神から生じるのである。作品は精神のものであり、したがって戯れない身体を取り戻すとは、作品なしの身体を自ら作り直すという事になる。
p.28
<というのは、糞をたれるには精神である事が必要だからだ、糞をたれる事が無垢の身体にはできない。そいつがたれるもの、それは精神の膠、身体からなにか盗もうと夢中になっている精神というのは、身体なしでは人は存在する事さえできないのであるから>
p.28

糞便を拒否するとはそれを投げ捨てるのではなく、保持する事である。私を守るには、私の身体と言葉を守るには、作品を私のうちに保持し作品と私との間に「盗人」が入り込めるようないかなる余地も残しておかぬように作品と一体になり、作品が書かれたものとして、私から離れたところへ落ちてゆくのを防がねばならない。というのは、<書かれたもの(エクリチュール)は全て、豚のように汚らしい>
p.28〜29

つまりそこで、私は私の固有なるものを放棄したのだ
固有なるものとは、自己に近いーそれがあるところのものであるー主体の名であり、卑しさとは客体の名、根なし草である作品の名である。
私が固有の者である時、私はある固有名詞を持つ
西欧社会では、子供はその子が固有の者である時にしか
自らの名の下に社会ーまず学校だがーの一員になることはなく
真にきちんと本名で呼ばれる事もない。
p.29


私が私を立たしめるのは、決して作品の中にではない
救いや規約や存=立は、それゆえ、作品のない芸術において
初めて可能となるであろう。作品は常に死の仕事であるから作品のない芸術、つまり舞踏や残酷劇は生そのものの芸術となるであろう。<生と言っても良かったのだろうが、私は残酷と言ったのだ>
p.30

セックスが器官となるや否や、それは私にとって見知らぬ者となり、かくして、膨らんでそれ自身満ちた対象の持つ尊大な自律性を得て、私を見捨てる。切り離された対象となったセックスのこの腫脹は、一種の去勢である。<そいつは、私がセックスに大いに関心があるのが解るという。それも、一つの対象のようには張りつめ、膨らんだセックスに>
p.36

身体の再構成は自らの力でやらねばならぬ。人手を借りてはならぬ。それに、身体はひとまとめに作り直されねばならぬ。
p.36

非=器官的な演劇にとっての第一の急務は、台本に対しての解放である。「演劇とその分身」にしかその厳密な体系が見いださせないが、文字への抗議は、久しくアルトーにとっての第一の関心事であった。〜死んだ文字への抗議。〜文字の血肉化と血を流す入墨とを。
p.37

私にとっての問題は、書かれた言語表現の枠内に何が入りうるかではなく、生きている私の魂の網目に中に何が入りうるかを知る事にあったからだ。残っている肌色の中に、絞首台のカンテラの炎の離れ小島の梁間の下で、確かに死にかけている化身の中に、ナイフで刻み込まれたいかなる言葉によって
しかし入れ墨は身振りを麻痺させ、肉体に属している声を殺す
p.37〜38

☆☆
つまり言葉は、もはや語や、<定義の意味での>用語からなる言語表現、つまり思考や生を限定する概念からなる言語表現であってはならないであろう。<我々が生にいっそう良く耳を傾けるようになる>のは、定義=語の沈黙のうちになのである。
p.38

■ 一回性の世界 永遠回帰? 夢、無意識へ

文字や言葉にもとづいた戯曲をやらない=書かれた戯曲を上演しない
p.38

言葉に、それが夢において占めているのとほぼ同じ重要性を与える
p.38

舞踊には無関係で、定義のように不動で記念碑的で有形化されている、つまり<明晰なる精神>に属しているので、入墨はそれゆえまだ、あまりに寡黙である。
全くひとりでに語り、ことばが夢の中で持つ以上の重要性を持つ、解放された文字の沈黙。入れ墨は沈殿物であり、作品である。
〜破壊しなくてはならないのは作品なのだ。
ここではまだ、文字からなる作品の力を覆す事は、文字を消す事なのではない。そうではなく、読解不可能なるもの、あるいは少なくとも文盲的なるものの要請に、文字をただ従わせる事なのである
p.39


アルトーがまさしくその虜になった、いくつかの非西欧的文明においては、文盲状態が、最も深い、もっとも生き生きした文化と非常に上手く適合するのである。
それゆえ、身体に刻まれた痕跡は書写上の刻み目ではなく、
「西欧」の、さらにその演劇の、破壊を通して受けた傷
こうした仮借のない戦いの傷痕となるであろう。
p.39

■ 傷痕?

傷痕であって、入れ墨ではない。
p.39

探し求められる深さとは、それゆえ読解不可能なるものの深さである。〜演劇的な読解不可能なるものの中、書物に先立つ夜の中では,記号はまだ書物から分離されてはいない
p.40

■記号化へのながれ 記号化以前 物事が分かれる前の状態
 神話的?神的? ゼロ いや ゼロではない?

この純粋な演劇言語の創造には,最も古代的な象形文字の精神が支配する事になろう
p.44

■視覚と聴覚の同居するもの(もしかしたら触覚)=象形文字
                        ダンス
 触覚と身体性 音楽と生命性 ディオプス的?


声は、もはや秩序を生み出すものでなくなるばかりか、さらにそれは、この演劇的文字言語の法則によってリズムを与えられねばならぬものとなるだろう。インスピレーションの自由とか、息を吹き入れられた言葉とかと縁を切る唯一の方法とは、非音声的な文字言語体系の中で,呼吸についての絶対的な制御力を創り上げる事である。
〜呼吸の象形文字によって聖なる演劇の観念をふたたび見いだすこと
書かれたものよりも常に叫びの方を好む
p.45

■叫びと感覚されるもの 叫びは音ではない 叫びと重音
 メシアン リゲティに見る 叫び
 叫びは必ずしもノイズではない
 波線と直線 強い線と薄い線 波と振動 
 境界の曖昧さというよりも境界の塊

この無意識に由来する文字言語は,おそらくフロイトが,[不思議な<領域>に関する覚え書]のなかで、消えてもなお残る文字言語として述べているものにあたるであろう。
p.45

■フロイト[不思議な<領域>に関する覚え書]

夢を<言語表現よりも>むしろ<文字言語の体系>に、同じく<象形文字的>文字言語の体系に比較したのであった。
〜この数学的形式化は抑圧されてきた祝祭と天性とを解き放つ
p.46

☆☆☆
こうした数学が無味乾燥と画一化を生む、などと言ってもらいたくない。驚愕すべき事には,富の,幻想の,豊かな潤沢の感覚が,この気が狂わんばかりの細心と意識とによって規制された舞台から生じてくるのだ。

俳優たちは衣装の助けを借りて,生きて動く真の象形文字を構成する

そしてこの三次元的象形文字には、今度は,いくつかの動作や神秘的な記号が刺繍されているのだ。その神秘的な記号は
われわれ[西欧]の人々が決定的に抑圧してしまった、なにか寓話的であからさまでない現実に照応しているのだ。
p.46

■生きて動く真の象形文字 モノ 私のモノ とはみんな
 生きて動く真の象形文字なのだろう そこには
 いくつかの動作や神秘的な記号が刺繍されている
 それは、そいつとあいつを分ける 自己投影

抑圧されたものの解放と高揚へー厳密さ、必然性への服従
それは、偶然を禁じ,構成の遊びを抑える事によって、一切の断層,一切の開口部、一切の差異を,こうした演劇的な形式化が縫合してしまうからである。〜その時、剽窃されたパロールは決定的にわれわれに返される。その時残酷さは,再び見いだされた絶対的な近接性の中,生成のもう一つの概念の中,再上演の完璧さと経済の中で和らげられる。

<われ、アントナン・アルトーは、/我が息子/我が父にして我が母なり/そして我なり>
あからさまにされたアルトーの願望からすれば,このようなものが家の掟であり,居住空間の最初の組織化であり、原=舞台なのである。
この舞台はそのとき現前し、現前の中に集約され、見られ、制御され、恐るべきもので、しかも和やかなものとなるのである。
p.47

■私を構成する要素と多面性とその組織化と時間軸上の変化
 領域の混合のグラデージョン

☆☆
ひそかな差延作用がしのび込み、私の生を余分な付け足しにしてしまい、その根源を、私の肉体を、私の言説の銘を入れる余白に
またその息切れした横臥せる死者像にしてしまえたのは、文字言語によってではなく、二つの文字言語の間においてなのである。

その肉体となった文字言語により、演劇の象形文字により
分身を破壊しなければならなかったのであり
私から生の存在を奪い、隠された力から私を遠ざけていた外=典の文字言語を消さねばならなかったのだ。
p.47

<音響的であると同じく全く視覚的でもある空中に、空間に、一種の物質的で生気に満ちたつぶやきを構成しているのだ。
そして一瞬のうちに、魔術的な同一性化が行なわれてしまう。

つまり、われわれは、語っていたのがわれわれ自身である事を知るのだ。>

われわれの言葉の過去=固有なるものの現在の知。
p.47

☆☆
こうした一切の暗中模索が、探求が、衝撃が、それでも、ついには一つの作品という成果を生むであろう。すなわち詳細な細部まで定められ、新しい表記手段によって記録された一つの書かれた構成というものを。構成や創造は、一作家の頭脳の中で為される代わりに、自然そのものの中で、現実空間のなかで為されるであろう。
p.48

■定められた式、構造 と そこから生まれる無限の豊かさ
 式へ数値の構成や生成される創造は現実の空間の中で為される

狂気は非疎外であると同時に疎外である。
作品であり、また作品の不在でもある。
p.48

この二つの規定は、歴史=形ふ上学的な唯一の言説の、認められたものであろうとそうでなかろうと、いつでも認める事の可能なもろもろのカテゴリーの中で対決し、分節化され、必然的に交換される。狂気や、疎外や,非疎外の概念は,非還元的なものとして、形ふ上学の歴史に属している。
より厳密に言えば、存在をある固有の主体性の生として定義づける形ふ上学の歴史に属している。さて、差延ーあるいは,アルトーにおいてあらわされた、あらゆる変形をともなう差延ーは、形ふ上学の彼方、ハイデッガーのいう「差延」ーあるいは[二重性]ーに向かう方でしか、そのようなものとして考えられることはできない。
p.49

もし,形ふ上学の歴史の<破壊>が,ハイデッガーが解しているような厳密な意味での,単なる追い越し,出ないなら,そのとき人は,この歴史の内ではもく外でもないある場に止まりながら、狂気の概念を形ふ上学一般の概念に結びつけるものについて、みずからに問うてみる事ができよう。
p.49

アルトーのテキストのこうした二重性は

策略以上のでも以下でもあるのだが

それはわれわれに境界のもう一方の側に移る事を絶えず余儀なくし,

また,そうする事で,彼が差異の中に素朴な伴立を暴こうとして閉じこもらなければならなかった現前の囲いを示す事を

絶えずわれわれに余儀なくしてきたのである。
p.50

☆☆
宿命的な関係 二重性
自らが破壊しなければならない構造に宿らねばならず,そこに完全な現前、非=差異ーすなわち,同時に生であり,死であることーを求める、ある破壊しえない欲望を匿わねばならない
あらゆる破壊的な言説の持つ必然的な帰属が
その宿命的な共犯関係を通して語られる事になる。
p.50

☆☆☆
一つの境界をテクストの網目で囲み、位置の忠実さの代わりに
もろもろの場によって強いられる迂回である言説を持ってする事を余儀なくせしめながら
われわれが網を仕掛けるという意味で,仕掛けようとしてきた問題がそれなのだ。

このテクストの持続と必然的な痕跡とがなければ,

一つ一つの位置は,たちまちその反対へと変換してしまうのである。
その事もまた,一つの法則に従っているのである。
p.50〜51

すなわち、ある一つの領域の境界線によって保護されている一つの言葉が、まさしくアントナン・アルトーと名のる事を願った肉体の謎によって遠くから挑まれるたびに、いまだに、そして依然として、隠蔽されたままである問題なのである。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

memo メモ めも 更新情報

memo メモ めものメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング