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麻高のおっさんたちコミュの親と子の関係

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なんだか討論になってますね。
中立な私がトピックを立ててあげましょう。

まず、日記「また、悲しい「子殺し」なのか? 」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=948689419&owner_id=1914707
を読んで下さい。

コメント(10)

『子殺し』

今年下半期で私が聞き及んでいる範囲で既に3件、去年起きた事件でも覚えている範囲で2件、一家心中のために息子2人を斧でぶった切った事件もあった筈だ。

事件が起こると、その度にマスコミは「何故?何故?」となるが、年の行った子供/年端の行かない子供、どちらが犠牲になる場合でも、生活苦/将来への悲観etc世間一般が納得のいきやすい理由が挙げられるようだが、私には、親が自分の勝手な都合で、子供の人生を失わせている(或いは狂わせている)だけのことにしか見えない。

親と子は所詮は別の人格/存在。親の人生がおかしくなったところで、子供を殺す理由にはなりやしないと私は思っている。
仮に子供の“暴走”を諌めるためであって、「親も子も犠牲にならない方法がどうしても見つからなくて第3者の助けを借りられなかった」と言うケースでも、本気で状況を打破する可能性を探していたら、『殺し』をやれるはずが無いだろう。

本気で状況を打破する可能性を求めて動いているのなら、殺しという、可能性を断ち切る行動に出ると言うのは理屈に合わない。
親が作った原因で人生が狂ったのなら、子供に極力影響を与えないようにするのが親の務め。子供が作った原因で人生が狂ったのなら、その事由を排除或いは軽減して子供と自分がより良い状態になれるようにするのも親の務め。
親は、子供に対して、期限付きの中で徹底して“導き”をあたえる存在だから親なのであって、その逆のことに走る様な親には、親たる資格が無い。

『子殺し』をやる親は、親としての自覚/覚悟/決意にかけているから、子供を殺せる(或いは死に追いやる)のだろう。
『子供の死』が物理的なものであれ、精神的なものであれ…。

親と子の関係が「親は親として、子は子として」本来あるはずの姿であるならば、子殺し(或いは逆に尊属殺人)などという問題は出てくるはずが無い。
お互いを尊重し、互いの存在意義を認めているわけだから。
それが出来てないから、“殺し”ができるのだろう。
“殺し”=“相手の存在意義を認めない”行為と私は解釈している。

親と子の関係として「親子の役割逆転」という現象もあるのだが、『子殺し』とは繋がらないので、今ここで触れるのは控えることにする(これはこれで親が子供に与える悪影響は深刻だが)。





先週の電車中つり広告…週刊新潮の…にあった見出しで、『究極の裏切り=子殺し』というのがあったが、私的には“得たり”である。

中身は読んでないが、「親は子供を選べるが、子供は親を選べない」という格言に対する反逆ともいえる『子殺し』を断罪したものであろうと推測している。

(現役の所帯持ちに悪気は無いが)夫婦関係が、切ろうと思えば文字通り“赤の他人”になれるのに対して、親子関係、それも血縁は(養親養子の場合は分らぬが)、解消しようと思って解消できるものでないことは言うまでも無いこと。

その中で、子供の存在意義を否定する行為に走るのを『裏切り』と言わずして何と言うのか?
わざわざこの世に送り出しておいてから殺す(←物理的⇔潰す=精神的に“破壊する”)くらいなら、初めから育てるな・生むな・作るなと言いたい。
漫画『ブラック・ジャック』にあった台詞をそのまま引用すれば、「命を何だと思ってやがる」ということである。
「議論を云々」といいながらすまぬ。
ちょっと野球がヒートしてしまっても少し落ち着くまでまってくだされ
ここらで、私の悪い癖『話がどう結びつくのかわからない方向へとばす』をやると…

かつて、三遊亭好楽師匠は、笑点大喜利の『親ばかVS莫迦親』のお題に対して、「子供の犠牲になるのが親ばか、子供を犠牲にするのが莫迦親」という答えを出した。

どちらがどういう影響を子供に与えるか、人それぞれ考えていただきたい。
1つ言えるのは、「字面は似ているが、結果は似ても似つかぬものになる」ということです。
あのぅ・・・。
親だって、始めから殺したくて生んでるわけじゃないのでは?

生むのって、命がけですので。
お腹の中で、約10ヶ月もかかえてるんですよ!
殺したいなら、中絶の道があります。
子供が生まれるって、簡単じゃないです。

でも、産む以上に育てるのはもっともっと大変です。

同情するつもりは無いですが、
育てるのがしんどくなって、手をかけてしまうのでは?

自分も子供だった頃は、「親は無くとも子は育つ」
と思ってましたが、とんでもないです!!
毎日普通に暮らしてる、普通ってとこがありがたいんです。

それと、子供は親を選べないのはもちろんですが、
親だって子供を選んで生むことはできないでしょう。
性別選ぶのが精一杯かも。

こんな子に育って欲しいと思ったって、
実際そんな思い通りに行くわけないじゃん。
大変よ!ホントに!!

ま、長い独り言と思ってください。
かかおかかさんのように親が真摯なら、『子殺し』なんて問題はおきないでしょうに。

> こんな子に育って欲しい

というのが、子の可能性を引き出す前提で為されているなら良いのですが、

> 子を自分の欲求不満の代償/捌け口として、こうさせる

という変な欲をかいた上での > こんな子に育って欲しい
は、子供が人生狂わす元凶です。
この辺りのことは、私がここでくどくど書き連ねるより、図書館で“加藤諦三(たいぞう)の著書”で検索HITした本を片っ端から12〜13冊読んでみると良いです。氏が著書で指摘している“問題”は、私は実体験として本を読む前に同じ結論に至ってました。
早い話、私の親は取り上げられている“問題児”ならぬ“問題親”にピタリであるということです。
だからこそ、殊更この種の問題に対していきり立っている訳で…。
> 大変よ!ホントに!!

「行為」がどういうことを意味するのか、その大変さに対する認識/判断/選択/責任の負い方がなっていない…甘っちょろい/甘ったれている/だらしがないとも言えるが…手合いが「行為」をやることがそもそもの間違いであり、『子殺し』の元凶であろう。
だらしがないから、安易な「行為」に走り、“責任回避”に至るといえなくもないが。

福岡だったか?…飲食店のトイレに子供を生み捨てて逃げようとした手合いがいた記憶がある。
これなど、見つかって子供が保護されたから未だ救いがあったので、もし、“首尾よく”逃げおおせていたとしたら、まさに【逃げ得】になっていた1件であろう。

ヒトとそれ以外の動物の違いは、「未来に対する希望を持てる」1点に掛かっているのであり、その分別がつけられない…くらいなら未だ良いが、つけたくないという様なら、その者は“人畜生”と呼ぶに相応しい。
【生みの親より育ての親】という格言は、私の誤解でなければ、このことに対する警鐘であると言えるのではないか?

ズレてたら、ごめんなさいね。


今日子どもたちをつれて某ハンバーガー屋に入って食べたのね。

ちょうど私の座ったまん前に、幼稚園くらいの男の子と、そのお父さんらしき人の2人が座ってたのね。
何で「お父さんらしき人」と表現したかっていうと、
その2人、食事中1回も話してないの。

お父さん(?)は無言でずっと携帯電話にらめっこ状態。ひたすらメール打ってた。
子どもは黙って窓の外を眺めて電車を見たり、ハッピーセットのおもちゃで遊んだり。
ホントに一言もしゃべらず、笑わず、だよ。

若い子同士、お店で座ってお互い無言で携帯電話ってのはテレビで見たことあるけど。
あれがもし親子だとしたら、とんでもない父親だちっ(怒った顔)(見た目、イマドキ風でもない、一見ほんとに普通の人。)

「食事中携帯電話しても、それが許されるんだ」って子どもが覚えちゃう。

親は子の鏡でしょ。些細なことだけど、なんかいい気がしなかった。

親子の関係、っていうより、人間として会話は大事だと思う。
(目を合わせることすらなかったもん・・・。)
↑
そういう部分で、子供に背中を見せられないことばかりやってきていながら、
「どうして子供は親の言いなりにならないのだろう?」などということを本気で考えてる親が増えてきているんで無いかと思っている。

“親は子の鏡”←正に然り。
人間関係の基本行動において【壊れている】奴が“正論”振りかざすくらい笑えないものはないと私は考えている。

子供の目を見て話をすることすら出来ない親が、「親のことは尊敬しろ」だの「腹を割って話をしよう」だの言ったところで、子供が相手にしなくなるのは当然。
こちらの存在意義を認めてない相手を、こちらが一方的にご機嫌取りする義理はさらさら無い、という認識…>哲学(哲学=認識論である)を子供が持つようになっても、それは因果応報/自業自得というものである。

ある意味、“公平”ということの意味を反面教師的に学ぶ機会と言えなくもないが。
comment1〜9を交わした頃でも、尋常ならざる虐待行為がぼろぼろ報道されてたが、このところ、更に異常…猟奇的?…虐待事件が明るみに出ている。

数日前の読売新聞の「編集手帳」?だかに、『“未成熟な親”の横行』という見解が示されていたっけ。
自信があって親になる親がいるかどうかは疑問だが、自覚/覚悟なしには“親”は務まらないだろうと思う。

アキバ事件の被告が「廊下にぶちまけられた食事を食べることを(親に)強要されたことさえあった」と言っていたのに対して、当の親は「躾の一環」と言っていたそうだが、『美が身に添う』から躾であって、人格・尊厳のひとかけらをも滅殺する行為は到底“躾”とは言えぬだろう。

私に言わせれば、『“不適格な親”の横行』の時代である。
実感としては、これは今に始まったことではなく、40数年前から「その芽」は既に存在していたところであるが…。

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