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原民喜コミュのヒロシマとフクシマ

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ご覧になった方もおられるでしょうが、先月放送のNHK「こころの時代」で、作家の徐京植さんが「私にとっての3・11 フクシマを歩く」で原民喜のことを取り上げていました。
http://www.nhk.or.jp/program/kokoro/
以下に、その部分のお話を採録してみました。

瓦礫の漂着物が散乱する南相馬の海岸(福島原発から25キロ)に立って、徐京植さんは原民喜の『夏の花』に描かれたカタカナ書きのくだりを繰り返し思い出したといいます。



ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニホヒ

この詩は、詩自体としていわば壊れてるんですね。
「馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ…電線ノニホヒ」という終わり方は、壊れているわけですね。これは意図的に壊したのか、壊れてしまったのか、まではよくわかりませんが、正にこうした壊れ方こそが原民喜が目にした現実、その現実を表す唯一の手段であったということです。
つまりこれは、ある正確なルポルタージュをたぶん最初は志したんでしょうけど、むしろ目の前に広がる光景があまりにも非現実的であるために、正確な報告ということがだんだんできなくなる、その記録なんですね。
シュールレアリズムの絵のような世界が目の前にある、シュールレアリズムが現実だということですね。
シュールレアリズムはご存じのように、夢の中、自分の想像の中、妄想の中にある世界のことですけれど、夢や想像や妄想が現実になってしまった、ということですね。ということは逆に、それまで当たり前のものと思っていたその現実がですね、嘘っぽいものになるということです。
つまり、現実と超現実が転倒した世界というのは、私たちがここで現実だと思っている生活、安楽な生活ですね、友人たちと食事を楽しみながらテレビの向こうに見ている世界というものが現実ではない、ということを示しているわけですね。
あのシュールレアリズムに見える世界こそが本当の世界なんだ、それは原発から25キロ離れた場所であり、その原発では収拾困難な、おそらく長期に渡って収拾不可能な形での損壊が進み、放射線が撒き散らされ続けているということです。そのことを直視するということはとても困難な、大変に困難なことですね。
人間にそれができるのか、という問いがプリモ・レーヴィ(『アウシュヴィッツは終わらない』)の投げかけた問いであり、原民喜の投げかけた問いです。しかし、人間にはそれができないんだ、という結論を下してしまったとしたら、その瞬間にあらゆる希望が断ち切られます。ですから、プリモ・レーヴィにしろ原民喜にしろ、その困難というものを身を持って表現しながら、私たちに警告している人たちなんですね。「お前が現実だと思っている現実は現実ではない」ということを、ですね。
そして、「どんなにつらくてもどんなに不安でも、超現実的な現実を見ろ」ということを言い遺した人たちです。しかし、その証人たちは重んじられず、尊重されず、二人ともいずれも自ら命を絶ちました。私は今の時点で、今までの歴史の中に、ヨーロッパでも日本でも、そのように証人たちが証人を重ねたあげく消耗しきって自殺するということが重ねられてきた以上、今回だけはそのことを免れられると思うことはできません。…

コメント(1)

辺見庸さんの3・11後の考察『瓦礫の中から言葉をーわたしの<死者>へ』(NHK出版新書)で、民喜の『夏の花』が取り上げられています。その「第四章 内面の被曝ー記号と実体」から抜粋します。

「わたしは原爆を見てはいません。でも、小説により深く追体験させられ、からだの内部に原風景を刻み込まれたのです。『夏の花』を読んだのは中学三年のときでした。わたしは被爆していませんが、内面は被爆したのです。すぐれた文にはそれができ、数値にはそれが逆立ちしてもできません。福島原発のメルトダウン以後、そのことをなんども考えました。福島の悲劇は、出来事そのものにあるとともに、出来事にまだすぐれた言葉があてがわれていないことなのかもしれません、と思ったりします。」

「福島原発の出来事を語るときに、広島を考えることは大切な前提です。しかし、それは、福島原発から放出された放射能セシウム137が広島に投下された原子爆弾の百六十八個分という記述だけですむわけがありません。わたしたちにはもっと、語ろうとしていっかな語り得ない、内面の言葉が必要です。それがないかぎり、いくらおびただしい数値や映像、グラフをあてがわれても、事態と自分の関係や位置がつかめません。」

「原子力安全・保安院の当局者や担当記者らは『夏の花』を読んだことがあるでしょうか。おそらくないのではないでしょうか。この国はずっと『夏の花』を忘れてきたのです。」

以下、辺見さんは『夏の花』の記述を引用しながら、置き換えられない言葉の重みとその今日的な意味を読み解いていきます。そして、徐京植さんも引かれていたカタカナ書きの一節を引用して述べます。

「原爆投下というあの大虐殺じたい途方もない所業です。そうであるとともに、このように死のパノラマを短い詩としてあくまで言葉により黙示的に展開しえたことに、わたしはいまでも舌を巻いております。それは民喜その人とその言葉への驚きと敬意であり、また、言葉のもつ可能性への驚きであります。
わたしは奈落の底で言葉がひらいた可能性について、後年いろいろと考えてみました。そして、ひとつの結論にたどりいたりました。それは、奈落の底で言葉がひらいた可能性とは、薄ら陽のような<希望>であり、言葉によって人である証しをたてたのだ、ということです。
『夏の花』が民喜によって書かれたことは、愚かで許しがたい歴史のなかで、人としてのせめてもの<希望>であり救いではないでしょうか。」

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