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アランコミュのアランの幸福論を順番に読んで行きませんか

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一遍に幾つも読むのではなく、一つづつ、ゆっくりやりたいと思います。

「名馬ブケファラス」から始めたいと思います。



ヨーロッパの戦争も情念の悪戯から起きてきたと書いてありますが

Sという元外交官から日本にも、そんなことが戦前にあったという

秘話を聴いたことがあり、驚愕しました。

私たちには、どんなピンが刺さっているのか、

自分自身をこんなものだと決め付けないで、ピンを探してみたいと思います。

コメント(24)

面白いですね!
一人1話を書いていくので良いでしょうか。
(違ったらごめんなさい!次から直します)

次は『苛立ち』ですね。


怒りに身を任せる行為と、咳き込んでどうにもならないでいる事は、共に肉体の運動だとし、

《本当の体操とは、肉体の運動に対する理性の正しい支配のこと》

と、体操のコツを記した章です。


もしはじめに、どんなことも考えず、変に硬直――自然に行われる反作用を憤怒の衝動によって妨げる事――しないで泰然としていれば、最初の刺激はほどなく過ぎ去ってしまうにちがいない。



つまり、イラッとくる事も、柔軟体操することも、行為に属することで、やめたら終わり、という話なのだと思う。

そう思っているだけで、自分の不機嫌の七割以上が解消される気がします。
やり方間違えていたらすみません。
そして続けて書き込みすみませんあせあせ(飛び散る汗)

『悲しいマリー』。
周期的な躁鬱病について。気の抜ける様な事実が楽しい章。

悲しく、後ろ向きな気分の時は、血球の数が少なくなる、という法則を紹介しています。悲しみの背後に血球の増減があることをよく知っておくこと。本当の友がいないなどと言うより血球が足りないという方がずっといい、といい下りが愉快です。
しかし、私が好きなのは、こちらの文。以下引用。
《やりきれないと思えばいつでも遣り切れないし、力づけ慰めてくれると思えばいつでも力づけや慰めを得る。そして、幸福になろうとする努力はけっしてむだにはならない。》

《不幸な人間には、どんなに好ましい出来事が微笑みかけてもむだなのだ。そして、幸福というものの中には、普通、人が考えるよりも意志の力がはたらいている。》
『悲しいマリー』を季節性の鬱病の人に読ませたことがあります。

効果はゼロでした。いろいろな人に批難され、心を閉ざしていたのでしょう。

善意のアドバイスも無になってしまいました。

「不幸な人間には、どんなに好ましい出来事が微笑みかけてもむだなのだ」と

いう通りです。

悲しむことを悲しんではいけないという絶妙なレトリックが

分からなかったのかもしれません。

今にして思えば、すでに心が閉ざされていたからだと思います。

しかし、その時は、自分にはその人が分からないということが分からなかった。

その人に貸してあげたアランの本も戻ってきませんでした。

無くしたか捨てたようです。返却を何度も請求したのですが、

何も答えてくれませんでした。謝りもしません。

自分の非を認められないのがこの病なのかもしれません。

「名馬ブケファラス」の話の赤ん坊のお尻に刺さったピンをどうやって探すのか、

眼には見えない心を探すよりも、

身体を調べるという発想はまさに今日の心身医療の先駆的な発想かもしれません。

アランにはどうしてそんな発想が出来たのかとても不思議です。

ピン
という表現は、
情念に真っ正面から向かうな
矛先を変えよう

という意味もたくさん含まれた言葉なのかな、と思います。

たとえばなのですが、
落ち込んだり鬱になっている方は、自分が落ち込んでいて鬱になっている事を、重々承知しているのではないでしょうか?
そんな状態でアランの本を読んでも、《自分は落ち込んでいて鬱になっている。》という事の再確認にしかならない気がします。

落ち込んで、それでなくても弱っているのに、正面から状況と向き合って情念に勝てる気が、しません。

私たちにできるのは、ピンは意外な所にあるのかも、と信じて、そっと椅子を差し出してあげる事、そして快活であること。
その後、幸せに向かうのは、本人の意志の力なのではないでしょうか。
人間は、自然にしていたら勝手に幸せにむかっていくものだ、そして、ひょんなことから、そのきっかけはつくられる、と信じる気持ちが、『悲しいマリー』にもこめられている気がします。
「安心しなさい、明日になれば幸福になりますよ」





「安心しなさい、明日になれば幸福になりますよ」

ほんとうにそうですね。

気が滅入って、書けなくなっていました。

アランにはストア派的なところがあるようにおもいました。

悲しみにも節度が必要なのですね。
そういえば《ストア派》という言葉が、幸福論の中にも度々出てきますね目。
ストア派の人の本を読んだことがないので、色々教えていただきたいです。

ストア派は、極端な感情の揺れを嫌い、平常心を好むイメージがあります。
そういう意味では、次の『神経衰弱』も、いかにもストア派に近い思想なのかなあ、と思って読み始めたのですが、この話の結論が何なのか、イマイチ分からず……。
一体、この話では何を言わんとしているのでしょうか?
「悲しみにも節度を」というのが一つのキーワードなのかしら、と思うのですが、どうにも首をかしげてしまう感じです。
4 ノイローゼ

本当の理由。

ちょっとブランクができてしまいました。

悲しいマリーではないのですが落ち込んでいました。

鬱状態でイライラするのです。

原因が分かりました。

眼の手術をして左右の眼のバランスが悪くなっていること。

職場が移転して、新しい建物に入ったら、暑さで、壁の塗料が

気化したのでしょう。ハウスシックです。

眼の手術については術後の養生については何も医者から聞いていなかったこと。

ハウスシックについては、今どき、ハウスシックなどあるとは思ってもみなかったこと。

予想外のことで、これほどふりまわされるかのかと驚きました。



ストア派については最近注目が集まっているようです。

岩波から昨年出た、書物誕生シリーズで

荻野弘之著『自省録 精神の城塞』が良い本なので

ご紹介しておきます。本の読み方を教えてくれる本です。

本のご紹介ありがとうございます。
その後、調子はいかがでしょうか。事態が好転している事を祈っています。
miyakさん

おかげさまで、ようやく鬱状態から抜け出してきました。

建物の臭いも消えてきました。
ところで4章の項目名ですが
「ノイローゼ」とあるのは岩波版神谷幹夫訳ですか?
フランス語原題そのままですよね
自分が持ってる他の2冊は「神経衰弱」となってます

次の5章の項目名もフランス語原題の「メランコリー」から
岩波版では素直に「憂鬱」となってますが
自分が馴染んだのは「ふさぎの虫」なのです
白井健三郎や石川湧がこう訳してます

連投すみませんあせあせ(飛び散る汗)
Roseaux さん

興味深い指摘です。

精神科医で作家のなだいなださんは

登校拒否を不適切な言葉だ、むかしはずる休みと言ったらどうだろうと提案していました。

たぶん、それは登校拒否を心の病気にしてしまったからではなかったかと

思われます。行かない、行けないのが当然のような学校やクラスや担任教師があったからです。

ずるというと悪いようですが、どうするのか本人の意志が認められます。

病気にしてしまうとどうしようもない、医者にかかるしかないからでしょう。

病気では学校もクラスも教師も本人も対処できません。

鬱にもそんなところが少しあるようです。季節性の鬱の人がいましたが

近しい人によれば鬱という口実で休んでいるところもあったようです。

わたしも「ふさぎ虫」の役で読みました。

虫の居所が悪いなど、問題を対象化して対応できるから良い訳だと思います。
少し、元気になってきました。こんな書評があり、これなら私たちの方がもうちょっとアランに近いのではないか。下手な評論に元気をもらいました。

『幸福論』 アラン著/神谷幹夫訳

評・松山巖(評論家・作家)
言葉を憎んでよいのか
 言葉を憎んでよいのか。
 あの日以来、言葉が揺れ続け、言葉が怒濤(どとう)となり、我々に襲いかかり、言葉が汚染し、漂っている。
 言葉を恨んでよいのか。
 崩れ、散乱した本の山から、あの文庫本を探す。愛読したあの本を。以前と変わらぬ言葉を求めて。
 「多くの者が恐怖を、ことばでもってやっつけている。しかも強い論拠をもって。ところが、恐怖を感じている者はその理由など聞かないのだ」「優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱(ゆううつ)な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ」
 切れ切れに読んだ言葉を信じたわけではない。きれいごとだ、嘘(うそ)だとも思う。
 でも、それでもとページをめくり続ける。
 「自分でやること、人にやってもらうのではない。そこにはよろこびのいちばん深い意味がある」「死者たちは生きようと欲しているのだ。君のなかで生きようと欲しているのだ。君の生を通して、自分の欲したものがゆたかに展開されることを望んでいるのである」
 違う。現実はもっと無情で悲惨だ。でも、それでもとアランの言葉を読む。
 いや、そうではない。ただ読んでいるのではない。疑い反発し、でも、それでもと彼と対話している。
 「笑うからしあわせなのだ、と言いたい。幼な子は笑って楽しんでいる、ちょうど食べて楽しむのと同じように。しかし、まず食べる必要がある」「真価を発揮するのは口調(トーン)であって、ことばそのものなど小唄ほどにも意味がないのだ」
 言葉を疑ってよいのか。
 『幸福論』はどの文章も短い。アランは日記や手紙のように日々弛(たゆ)まず幸福を得る短い言葉を綴(つづ)った。
 欲していた言葉に、言葉と言葉の行間に気づく。求めていたのは、楽天主義の哲学者アランのいつに変わらぬ息遣い、声、笑顔だ。
 「不安や羨望や悔恨からくるしかめ面は、だれにも似合わない」
 また強い余震だ。不安も恐怖も収まらぬなかで、アランの声に和し、せめて心を鎮めたい。今は笑い声の聴こえる言葉を綴りたい。あえて笑い笑って呟(つぶや)く。
 言葉を憎んでよいのか。

 ◇Alain=1868〜1951年。フランスの高等中学で教師を務めながら新聞に哲学断章を執筆した。

 岩波文庫 800円

(2011年4月18日 読売新聞)
久しぶりに書かせて頂きます。

『幸福論』の3「悲しいマリー」4「神経衰弱」5「ふさぎ虫」の三つのエッセーが、今で言う鬱の症状に対するものだということです。

それに対して、そんな状況の中も自分をいかに保つかの工夫を示してくれていることは、最近の認知行動療法に通じる知恵があるのではないかと思われます。

考え方を少し変える、見方を少し変える、環境を少し変える、それだけで人生が変わってくるように思われます。
>>[11]

アランはうつ病だったようなところがあるそうです。
思い付きですが、地元で哲学カフェのようなものを幸福論を使ってやろうと思っています。

もう一度仕切り直しで、「名馬プケファラス」から挑戦します。

この章は、人間の情念が本の先のような小さなものやことによって動かされ、
動かされた情念によって、もう一度、動かされ、本当の原因ではないものを原因として作り出し、
それを恐れてさらに動かされてゆく。

今で言えば、情報操作をすることで政治や社会問題にも大きな影響を与えているように思われます。

個人の問題から社会そして国際政治までの広がりをこの1章は含んでいるように思われます。

これから、勉強しつつ、コメントに書かせて頂きます。
2 「いらだつこと」

これは自分の経験で役に立ったことがります。

気管支炎になって、医者にも通っていたのですが、

この痙攣を押さえるコツの記述を思い出して、

咳が続かないようにと無理をせず抑えることを少しづつ治ってきました。

部屋の中のカビにも気が付いて、はがして修理してもらいました。

それで咳はおさまって治りました。

ほぼ一年後ぐらいに健康診断で、肋膜炎の痕がありますね。自然治癒しています。

気管支炎って誤診だったことが分かりました。

アランのおかげで肋膜炎が治ったのかもしれません。
3 悲しみのマリー

鬱病と訳されています。
自分が悲しいのではなく、自分の脳や血液などを含めた身体が変調をきたしている。
そのようにものに即して理解することで、
自分を身体が作り出す悲しみの情念から抜け出させることになる。
自分の主体性を自分に取り戻させることを教えてくれる。
私たちはブルーなサングラスをかけているようなものなのかもしれません。
自分に世界がブルーに見えたとしても、それはサングラスがそう見させているのであって、
自分自身までもブルーになってしまっているのではないと考えることが、
たとえサングラスが外せなかったとしても、ずいぶん心を軽くしてくれるように思われます。
4ノイローゼ 神経衰弱

人間て、本当に些細なことが気になったり、イライラしたり、そして心がとらわれてしまう。

「そこでぼくは言ってあげた。大げさに考えるなよ、ことの次第をよくみてごらん。君のようなことはだれだってそうなのだ。ただ不幸なことに、君は頭がよすぎる。自分を考えすぎる。」

ここで面白いと思ったのは、

「パスカルは、星の数があまりに多いのですっかり驚いてしまった。彼が星を見ながら感じた高貴なめまいは、おそらく、知らないうちに冷え込んだためであろう。ほかの詩人だったら、もしその人が健康であれば、星に対して女友だちのように語るだろう。」(神谷幹夫訳)

もっとずばりの箇所があったと思うが、パスカルのパンセのB72、L199の箇所を指しているように思われる。
人間の不均衡
このように自己をかえりみる者は、自己自身に対して恐怖を感じるであろう。そして自然によって与えられた全体の中に、無限と虚無とのこの二つの深淵の間に、懸けられている自己をかえりみて、彼はこの驚異のまえに恐れおののくであろ。」(松浪信三郎訳)
4ノイローゼ 続き

「スピノザのように難解な道をたどらなくてもいい、音楽でもいい、絵画でもいい、会って話すことでもいい。こういうものはわれわれの憂鬱を比べようのないほど小さなものにしてしまう。中略、われわれの大事な仕事から、また有意義な道から、書物から、友人たちから生きるすばらしさを少しも見つけていないことを恥ずべきであろう。」
アランは芸術療法や読書療法の先駆者でもあると思った。
5憂鬱 ふさぎの虫

「この病気は気を滅入らせるものだということをきみは承知なのだから、滅入ることに驚いたり、不機嫌になったりしてはいけない」この言葉はレトリックに止まらぬ、とても印象的なものだと思った。「がまんする。そのうちに心が休まる。こうしてまさに申し分のないしかたで悲しみにうちかつ。祈りというものが目ざしたのはそれであった。なかなかうまいものを発見したものだ。
これもパスカルを意識してはいないだろうか
パスカル『病の善用を神に求める祈り』
https://nisisatuma.jimdo.com/2012/09/26/%E7%97%85%E3%81%AE%E5%96%84%E7%94%A8%E3%82%92%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E7%A5%88%E3%82%8A-%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB/
6 情念について

情念よりも病気の方が我慢しやすい。

否定的に考えざるを得なくなると否定的な判断が必然的な物でそう考えざるを得なくなる。

「ぼくの考え方はソフィスト(詭弁家)のようだが、間違ってはいないと思う」ここのところがよく分からない、三種類の翻訳を見比べてもあまり違いはない。
たぶん、ソフィストとは論理的な物の考え方に対して非論理的な考え方を指していて、
それは物自体の論理と情念に動かされ動いている論理を分けようとしているのではないだろうか。
自分と自分の情念を分けることは普段しない。でも、アランは分けることは間違っていないという。
ドレフュス事件などを念頭に置いているのかもしれない。
思い込みは真実が現れても、真実を否定してまでも情念の論理を貫こうとする。
7 神託の終わり

この章の最後の医者と患者の関係に疑問を持ちます。アランの時代とフランスというお国がらの違いがあるかもしれません。昔の話ですが、ネラン神父という人が、フランスの地方でインテリなのは医者と聖職者だと話したことです。日本で考える以上に社会的な地位も高いそうです。ところが、日本に来て、医者が形式的な処方しかしない、部品を機械的に修理するするエンジニアのようだと驚いていました。
8想像力について

最初の「これによってみれば、モラリストの言うところに反して、われわれは必ずしも、他人の不幸を耐えるに十分な力を持っているわけではない。」石川訳どの翻訳を見ても、モラリストの言うところが何であるか注が書いてあるものが無い。ただ一つ石川訳には59章の他人の不幸のラ・ロシェフコーの言葉であることを教えている。ラ・ロシェフコーの「われわれはいつでも、他人の不幸をがまんするに十分だけの力を持っている」という言葉を意識したものであることが分かる。私たちは見知らぬ土地の見知らぬ子供たちの苦しみを我慢していることは事実だと思うが、アランはこの言葉の指し示す事実をあまり認めたくないらしい。59章では「それは半分だけの真実である」と言っている。

この章の最後

「だが、本物の思惟が乗り越えなければならない問題は論理(ロゴス)のそれではない。混乱の残りが思考を美しくする。隠喩(メタファー)とはこのような半神的な(エロイック)な営為において人間の身体があかしするものである。」は実に分かりにくいと思う。
それは前の「生きた人間の身体はより美しい。考えに引きずられて悩むが、行動することによってふっくきれるのだ。むろん心の揺れがないわけではない。」という言葉の身体という言葉が人間の存在というものを表わす隠喩なのだと言っているのだと思われる。「半神的な」は英雄的なの方が分かりやすいかもしれない。

 

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