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備前焼陶芸家  藤原啓コミュの金重陶陽との出会い

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   金重陶陽         金重素山        川喜田半泥子   


「備前焼中興の祖」と称され、現在でも高い評価に揺らぎの
ない金重陶陽と、藤原敬二との出会いを導いたのもまた、
終生の師である正宗敦夫だった。
それ以前、正宗敦夫は、やきものを始めて必死になっていた
頃の藤原敬二に号を授けていた。「啓がええじゃろう」と。
「啓」という文字には、物事が開くという意味があるので、
やきものを始めたばかりの敬二にはぴったりだった。
(ゆえに、今後は敬二を「藤原啓」と呼ぶことにする)

☆金重陶陽(1996-1967)
金重家は、備前焼の「座」の家柄として室町期より古文書や
陶印等の記録があり、文化3年刊の『菅むしろ』、嘉永2年
『古伊部神伝録』などに「秀吉土師家六姓の内大饗五郎左衛
門方に滞留。木村・大饗・森・寺見・金重・頓宮の六姓を召
し・・・」という記録から、一般的に「窯元六姓」の家柄と
言われる。
金重陶陽は、本名勇。明治期より、伊部の生き残りのため、
土管や耐火煉瓦制作などの実業を盛んに進めていた金重利三
郎の弟だった槇三郎(号・楳陽)の長男として産まれる。
備前焼窯元だった父・楳陽のもと、高等小学校を卒業した15歳
より、作陶の道に入る。制作する商品は、主に人物・動物・
花鳥の細工物や煎茶器など。陶芸の道に入ってからまもなく、
陶陽の細工物はすでにその天分を他の細工師の間で認められる
存在であったという。
しかし、明治期から大正期にかけて備前焼は人気がなく、楳陽
の窯元も貧苦の中にあった。1914(大正3)年には、父・楳陽が
死去。陶陽が窯元を継承するが、貧苦のためルツボを作って糊
口を凌いだ時期もあったという。
そんな貧苦の時代でも、陶陽は細工の技術にさらに磨きをかけて
いく。また、登窯の中に耐火式の棚板を置き、松割木の灰が作品
にかかりやすくなるよう(胡麻など自然釉がかかりやすくなるた
め)、現在では通常の技術である窯入れの方法を当時考案した。
陶陽は、細工の技術だけでなく、焼成技術の革新にも積極的であ
った。
1921(大正10)年には、ドイツ式のマッフル窯を導入する。また、
1927(昭和2)年には、木炭をくべて「人工桟切」を作ることに
成功する(従来、三村陶景と小西陶古の開発と広く言われていた
が、陶陽もまた同様の実験を行っていたことが、現在では知られ
ている)。この間、1922(大正11)年に名古屋松坂屋で、永楽善
五郎と共同で初の作品展を。1926(大正15)年と28(昭和3)年
には細工物を天皇陛下に献上する栄も与えられる。
しかし、陶陽の興味は、従来備前焼の主要な商品だった細工物か
ら、次第に別の方向へと変化した。
1930(昭和5)年、土の生成法を開発し桃山期の土味を出すこと
に成功すると、始めて轆轤挽きに挑戦。1932(昭和7)年には、
武者小路千家・官休庵家元千宗守宗匠(兪好斎)が来訪されたこ
とを切っ掛けに、入門した。作陶も茶道の影響から茶陶が中心と
なり、従来の窯元として職人を使い、年に4回火入れを行ってい
たのを改め、弟の金重七郎左衛門(号・素山。1909-1995)のみ
を助手として年2回の火入れと改めた。
(轆轤挽きは陶陽、窯焚きは助手の素山と、役割分担も兄弟の間
の「阿吽の呼吸」で決められた)
茶陶はすぐに従来の備前焼の世界で認められるものではなかった
が、数奇者田邊加多丸(阪急グループの総帥・小林一三の異母弟。
日本勧業銀行大阪支店長、東宝社長などを歴任した実業家)を、
岡山の後援者多田利吉に紹介され、田邊の薦めで1936(昭和11)
年、初めての個展を大阪の阪急百貨店で開催。また、1938(昭和
13)年には、合同新聞(のちの山陽新聞)の大森実社長の後援で、
東京・銀座の資生堂で個展を開催した。
1956(昭和31)年、国指定重要無形文化財(備前焼)に認定。

さて、金重陶陽と藤原啓の出会いは、金重素山によると、
1939(昭和14)年頃ではないかと推察している。
「昭和十四年ごろだろうか、川喜田半泥子(三重県津市の
富豪・陶芸家)が兄(筆者註:陶陽)を訪ねてきた時、
正宗先生(敦夫)が、啓さんを連れてやってきた。先生が、
啓さんに”君もロクロをひいてみい”と言われたんで、啓
さんが、兄や半泥子の前で、汗びっしょりになってロクロ
を引き、茶わんを作ったのを覚えている。それが兄と啓さ
んの初対面だろう」。(1)

☆川喜田半泥子(1878-1963)
本名久太夫政令。江戸にも店舗を持っていた伊勢・津の木綿問
屋の嫡男に産まれる。祖父・父の相次ぐ死去で、わずか1歳で
家督を相続。百五銀行頭取ほか数々の企業の要職を務め、また
三重県議会議員、津市議会議員といった地方政界の役職も歴任。
1925(大正14)年に自宅のある千歳山に初めて小さな登窯を築
き、本格的に陶芸を始める。のちに「東の魯山人、西の半泥子」
と並び称される稀代の数奇者・陶芸家となる。

おそらく、半泥子の伊部来訪は、東京や大阪で実施した個展の
評判などが、逸翁・小林一三や田邊加多丸ら数奇者仲間から広
まったのだと想像できる。半泥子の伊部来訪は、陶陽にとって
は同年結成された「からひね会」(半泥子、陶陽、荒川豊蔵、
三輪休和)により、「桃山回帰」といわれる茶陶の発展に志を
同じくする陶芸作家の交流を促し、創作意欲を高める結果とな
ったろう。また、藤原啓にとっては、陶陽、半泥子という生涯
に渡る恩人・盟友との出会いという意味で、彼の陶芸人生にと
って大事な一歩を踏み出すことになったのである。

藤原啓は、これ以降、金重陶陽に陶芸の技術を質問し、陶陽も
また隠し立てすることなく、自らの掴み取った技術の粋を啓に
教えたという。啓の向学心と、陶陽の技術伝承の指向性(2)
が相俟って、のちの大陶芸家・藤原啓を育て上げる第一歩とな
ったのである。

【註】
(1)撫川新『備前 藤原啓』(福武書店、1981)
(2)金重陶陽・素山の兄弟は、母が熱心な大本教の信者だっ
   たこともあり、2人ともまた熱心な信仰者としても知ら
   れている。陶陽・素山の2人とも、自らの陶芸作家とし
   ての技術を決して秘伝とはしようとしない姿勢が、現在
   の備前焼の隆盛を招いたと言われることが多いが、信仰
   者として「来るものこばまず」という思想信条が2人に
   あったためではないか、とも推察できる。

【参考資料】
藤原啓『土のぬくもり』(日本経済新聞社、1983)
山陽新聞社編『金重陶陽 人と作品』(鹿島研究所出版会、
1968)
岡田譲編集代表『人間国宝シリーズ9 金重陶陽』(講談社、
1977)
柳生尚志『やきもの備前』(山陽新聞社、1999)
黒田草臣『とことん備前』(光芸出版、1996)
黒田草臣『名匠と名品の陶芸史』(講談社選書メチエ、2006)


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