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備前焼陶芸家  藤原啓コミュの藤原敬二と「社会主義」

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    安部 磯雄


博文館の雑誌『文章世界』の編集手伝いをしていた頃の藤原啓
(当時は本名の「藤原敬二」)は、実に移り気であった。
郷里の大先輩、正宗白鳥の知遇を得て、坪内逍遥を紹介してもら
った。そして、早稲田大学の聴講生となり、坪内逍遥の講義を聴い
たり、演劇研究会に参加しシェークスピア劇のエキストラをつとめ
たりしたことは、前回のトピックでも紹介した。
また、当時早稲田大学教授であった「大学野球の父」としても知ら
れる安部磯雄の知遇も得た。

☆安部磯雄(1865〜1949)
福岡県出身。同志社在学中、新島襄より洗礼を受ける。ハートフ
ォード神学校(アメリカ)及びベルリン大学に留学。同志社教授
を経て、1899(明治32)年から東京専門学校(後の早稲田大学)
教授。また、1901(明治34)年、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、
河上清、西川光二郎と日本初の社会主義政党「社会民主党」を結
党するが、翌日結社を禁止される。日露戦争では非戦論を唱え、
公娼制度の廃止など初期の女性解放運動にも参加するなど、社会
運動家のさきがけとして活躍。
また、早稲田大学野球部を創設し大学野球の礎を築き、1912(明
治45・大正元)年には嘉納治五郎らと大日本体育協会を設立する
など、アマチュアスポーツの発展にも尽力する。
1924(大正13)年には日本フェビアン協会を設立。1926(昭和2)
年には社会民衆党から立候補し、衆議院議員4期当選する。

「神戸で賀川豊彦先生のお世話になったことのある者です」と
安部磯雄に自己紹介すると、「社会主義をちゃんと勉強してみん
か。よかったらうちに来い」と自宅に誘われた。
自宅には片山哲(戦後に首相・日本社会党委員長)、河上丈太郎
(日本労農党、社会大衆党を経て、大政翼賛会総務。戦後公職追
放されるが、1952(昭和27)年右派社会党委員長)らのちの社会
主義政治家が出入りしていたという。また、安部磯雄からは荒畑
寒村を紹介された。
荒畑寒村は社会主義思想家・運動家として知られる人物。1908
(明治41)年、いわゆる赤旗事件で検挙・入獄される。出獄後、
大杉栄らと共に『近代思想』を創刊するが、無政府主義の大杉と
マルクス主義者の荒畑は対立。1920(大正9)年に日本社会主義
同盟、1922(大正11)年には日本共産党の創立に参加。のちに
共産党と袂を分かち、山川均らと雑誌『労農』を創刊する。

安部磯雄や荒畑寒村といった、当時先鋭的な社会主義者の影響で、
敬二は社会主義運動に次第に熱を入れるようになる。組合運動、
集会、安部磯雄と親交のあった平塚らいてう・市川房江らの主
導する婦人参政権運動など。

しかし、敬二は社会主義からあっけなく「転向」する。
1921(大正10)年9月3日、欧州歴訪の旅から帰国された皇太子
殿下(のちの昭和天皇)が東京駅に到着される日に、『文章世
界』投稿時代からの友人、平田晋策らと物見見物に出かけた。
あたりは大群衆で埋まり、騒然とした雰囲気だった。皇太子殿下
が駅に到着されると、群衆の間から「万歳」の声が沸きあがった。
すると、敬二も我知らず「万歳」の連呼をし、同行の平田晋策も
「万歳」を涙ながらに叫んでいたという。
二人はその足で、集会等で何度も検挙された思い出の西神田警察署
に向かい、「転向」を表明した、とある。

藤原啓『土のぬくもり』(日本経済新聞社、1983)の記述で
は以上のようになっているが、『東京日日新聞』1921(大正10)
年12月2日号に、次のような記事が掲載されている。

「秘密結社東京共産党員に就き警視庁の取調は益々峻烈を極め、
廿八日記した同党宣言書に連名してあり、且自白した結果、同庁
に拘禁中の左記十二名は一日東京地方裁判所古田検事に依り、秘
密結社並に朝憲紊乱の廉を以て起訴されたが、一日裁判所に於て
取調の後、他の関係者取調の都合上再び警視庁に留め、大久保課
長山田係長等は、同夜深更まで取調べた。
 荒井邦之助、仲宗根源和、川崎憲治郎、山上正義、長谷川辰次、
佐野一夫、松本愛啓、平田新次、重田某外二名」

記事中の「東京共産党」とは、早稲田大学の社会主義団体「暁民
会」を主体とした日本初の共産主義団体であり、「暁民共産党」
と一般には呼ばれることが多い。
また「平田新次」とは、平田晋策の誤字と思われる。
(荒畑寒村らの日本共産党結成は、翌年の1922(大正11)年)
「暁民会」の指導者であった高津正道は、早期の共産党結成を唱
えていた共産主義者の近藤栄蔵に影響され、共に「暁民共産党」
結成に尽力した。近藤栄蔵は、1921年4月に日本共産党準備委員
会代表として上海に渡り、コミンテルン(ソ連で結成された国際
共産主義運動組織。国際共産党・国際インターナショナル・第3
インターナショナルとも)から資金援助を得たことが当局に察知
され、帰国後下関で検挙される。
近藤はほどなく釈放されるが、堺利彦や山川均は近藤を警戒し、
共産党の早期結成を唱える近藤の言を入れなかった。そこで近藤
は、「暁民会」の高津正道と共に「暁民共産党」を結成。
しかし、その年の11月にはメンバーが続々と検挙され、組織は壊
滅する。
事情について近藤栄蔵は「どういう経路で暁民共産党がバレたか
については、不審な点が多く、当時の特高課長にでも聴かなけれ
ば真実は分らぬが、同志が逮捕されてからの内容暴露は、平田晋
策の口からであった」(『近藤栄蔵自伝』(同志社大学人文科学
研究所編、ひえい書房、1970)と、平田晋策が当局と内通し
てしたことを示唆している。なるほど、『土のぬくもり』の記述
通り、9月3日の皇太子殿下東京駅帰着をきっかけに、平田が「転
向」したのであれば、近藤の証言と事実は符合する。
(ただ、1921(大正10)年10月に、平田は上海に渡り1ヶ月ほど
滞在していた。11月に帰国するとそのまま検挙されるが、そうす
ると9月3日の平田の「転向」は何だったのだろうか?偽装「転向
だったのか?それとも、上海での活動は当局の指示によるスパイ
活動か?平田晋策の、そして戦前の共産主義運動の「謎」は深い)

ただし、近藤栄蔵が検挙される前から共産党の結成に対して、
当局は徹底して調査を行っており、一概に平田晋策の「転向」
のみが「暁民共産党」一斉検挙の理由とはならないだろう。
例えば、後の「スパイM」のように、日本共産党最高幹部が
特別高等警察(特高)のスパイだったという事実があったよう
に(松本清張『昭和史発掘』文春文庫、立花隆『日本共産党の
研究』講談社文庫、など参考文献は多い)

平田晋策は「転向」後、一転して軍事ジャーナリストとして活動
を始め、彼の反米思想をもとにした軍事小説は昭和初期に一世を
風靡する。
また、近藤栄蔵は1923(大正12)年、前年に結成した共産党の
一斉検挙から逃れるため、ソ連に亡命した。しかし、スターリ
ニズムの流れに絶望し、1931(昭和6)年、帰国すると共に共産
党を離れた。帰国後は合法的な無産政党(日本労農党)などに所
属。1942(昭和17)年には治安維持法違反で検挙。戦後は、福祉
施設などの運営に関わったという。

藤原敬二は、そのような激動の中を「放浪」するが、またもや
あっさりと「転向」する。敬二の「転向」を最も喜んだのが、
『文章世界』の記者時代に知り合い、共に囲碁を楽しんだことも
ある菊池寛だったという。

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