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備前焼陶芸家  藤原啓コミュの宮沢賢治も「放浪」した。

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前のトピックまで、藤原啓(当時は本名の「藤原敬二」)
が、故郷を出奔し賀川豊彦、厨川白村、そして西田天香
など当時著名な社会活動家や評論家のもとを出入りした
ことを述べたが、このような活動は藤原敬二独自の突飛な
活動とはいえない。

例えば宮沢賢治。
賢治は当時東京に住んでいた妹トシの病気を見舞うため、
1918(大正7)年2月〜翌1919(大正8)年2月まで約1年間
在京する。
その間、国柱会(日蓮宗系宗教団体)の教祖、田中智学
講演を聞き感銘を受ける。
トシと共に帰郷後の1920(大正9)年、国柱会に入信し、
翌1921(大正10)年1月には単身上京し、筆耕等の仕事を
する傍ら布教活動を行う。
同年8月には妹トシの病篤きため帰郷し、その後は稗貫
農学校(のちの花巻農学校)の教員や「羅須地人協会」
の活動と共に多くの童話や詩を著作したことは周知の通
りである。

田中智学は主著『宗門之維新』(1901)で、日蓮聖人
の『立正安国論』の現代版ともいえる軍事主義を唱え、
当時のカリスマ的評論家である高山樗牛を感化した。
また、昭和初期のテロル「血盟団事件」の主導者で
「一人一殺」を標榜した井上日召、2・26事件の
思想的指導者北一輝、そして「満州事変」を関東軍
参謀として主導した石原莞爾、彼らは皆、影響の多寡
は別として、皆、田中智学の何らかの影響下にあった。

井上日召、北一輝、石原莞爾と名前だけ挙げるとファ
ナティックな響きを感じざるを得ないし、いわゆる「1
5年戦争」期の軍国主義を早計に結びつける向きも多い
と思う。
ただ、当時の田中智学らの「日蓮主義」は、大正後期か
ら昭和初期の井上日召らの過激なテロリズムとイコールで
はない。
むしろ、明治から大正期に、金玉均(韓国独立運動の主導
者)、孫文(一時期日本に亡命していた)やラス・ビハリ
・ボース(1)を支援した、実業家であり国家主義者であ
る頭山満(中野正剛・中村天風の師としても著名)の思想
「アジア主義」(「大アジア主義」とも)と思想的に通底
している。
「アジア主義」(「大アジア主義」)とは、皇道思想を
主軸とした、欧米列強の植民地主義からアジア全体の独
立を守ろうとする運動である。韓国併合からシベリア出
兵にかけて、日英同盟あるいは国際連盟を中心とした国
際協調(あるいは植民地主義)の外交路線を取ろうとす
る政府にとって、当時の「アジア主義」は、実はラディ
カルな反政府的思想であった。
(「アジア主義」は、15年戦争期になると「八紘一宇」
など戦争遂行のイデオロギーとして語られることになる
が)

ただし、宮沢賢治も「日蓮主義」の過激さには気付いて
いたようで、友人(保阪嘉内)への手紙で、
「日蓮主義者。この語をあなたは好むまい。私も曾ては
勿体なくも烈しく嫌ひました。但しそれは本当の日蓮主
義者を見なかった為です。東京鴬谷国柱会館及
『日蓮聖人の教義』『妙宗式目講義録』等は必ずあなた
を感泣させるに相違ありません」と書き送っている。

武者小路実篤の「新しき村」(1917)の思想に共鳴し、
蓄音機から流れる西洋音楽やセザンヌの西洋絵画を愛
した宮沢賢治。「羅須地人協会」で農村の改良運動を
志し、ついに果たせなかった宮沢賢治。
そんな宮沢賢治が国柱会に入信したことは、当時の
知的流行に乗っかった若者の「はしか」と見ること
もできよう。また、若き日の宮沢賢治が国柱会に出会
うことによって、数々の作品や「羅須地人協会」の思
想的背景を産み出したと、推測することも可能かも知
れない。

ただ、当時の宮沢賢治は、あくまでも「遊民」である
ことを忘れてはならない。国柱会への入信、蓄音機か
ら流れる西洋音楽、「羅須地人協会」の活動、それら
すべてが、花巻の資産家であった宮沢家の援助なくし
てはできなかったことである。

藤原啓、いや当時の藤原敬二もまた「遊民」であった。
(ただし「遊民」だからといって必ずしも悪いという
烙印は押せない。それをいえば、永井荷風も志賀直哉
も「遊民」だからである)
思想的遍歴は、当時の一定以上の収入を保つ家庭環境
を背景とする場合が多いが、その多くが自らの家庭環
境を含む社会を変革しようとする思想(ラディカルな
思想から「社会改良主義」までを含む)に親和性を持
つという、皮肉な現象を招いている。これが、大正教
養主義の特色の一つであり、武者小路実篤の「新しい
村」や有島武郎の「宣言一つ」がそのような特色のな
かでも代表的な「事件」である。(2)

「遊民」は社会を憂い、時として郷里を捨て運動に参
加する。また、社会を変革すべく、あるいは社会的、
思想的抑圧による「転向」の末、郷里に戻る。
宮沢賢治の「放浪記」は1年余りと短く、特筆すべき
「転向」に出会うこともなく、1933(昭和8)年にそ
の短い生涯を終える。
藤原敬二の「放浪記」は、まだまだ沢山の足跡を残し、
数々の「転向」を経つつ、壮年期まで続くこととなる。


【註】
(1)ラス・ビハリ・ボース(1886〜1945)は、インド
独立運動の闘士として知られ、1912年インド総督暗殺計画
の主犯として追われる身となり、1915年に詩人タゴールの
来日に紛れて日本に亡命した。亡命後は、玄洋社の頭山満
や新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の支援を受ける。
ちなみに、1927(昭和2)年より現在まで新宿中村屋で食
すことのできる「純インド式カリーライス」は、ボースが
相馬夫妻に伝えた味である。
☆新宿中村屋HP「ラス・ビハリ・ボース」
http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p14.html

また、中島岳志『中村屋のボース』(白水社、2005、
大佛次郎論壇賞受賞)は、ラス・ビハリ・ボースについて
本格的に論じた初の著作である。

(2)いわゆる「日蔭茶屋事件」や柳原白蓮の駆け落ち
事件も「事件」といえる出来事であろう。
「日蔭茶屋事件」は、1916(大正5)年アナキスト大杉栄
が、料理旅館「日陰茶屋」(現在の「日影茶屋」)で、
愛人の神近市子によって刃傷沙汰になった事件。
(大杉栄は自由恋愛を標榜しており、当時、別の愛人で
あった伊藤野枝と神近との三角関係が刃傷沙汰の原因と
される。
なお、大杉栄と伊藤野枝は、関東大震災の混乱の中、甘粕
正彦(当時陸軍憲兵大尉。のちの満州映画協会理事長)に
虐殺される。(「甘粕事件」)
また「日蔭茶屋事件」は、吉田喜重により映画化されている。
(『エロス+虐殺』1970、ATG)
柳原白蓮の駆け落ち事件は、林真理子『白蓮れんれん』
(1995、集英社)を参照。

(参考資料)
西成彦『森のゲリラ 宮沢賢治』(岩波書店、1997)
吉田司『宮沢賢治殺人事件』(太田出版、1997)
国柱会HP
http://www.kokuchukai.or.jp/about/about.htm
頭山満HP
http://www.toyamamitsuru.jp/

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